脳梗塞入院記
国際情報専攻 4期生・修了 長井 壽満
今まで自分に縁が無いと思っていた脳梗塞が8月16日に襲ってきました。朝7時45分位キッチンで朝食を作っていたとき、フーと意識がなくなり倒れこんだようでした。倒れこんだ記憶は残っていません。朦朧として気が付いたときには、頭に鈍い痛みが残り自分が壁にもたれかかるように床に横たわっていました。おもむろに廻りを見回すとジャムのビンが床に割れて落ちていました。意識を失っていたのは数分でしょうか・・・なにが起きたのか、暫くボーとしていました。頭に鈍い痛みがありました。熱もなく、手足は動きました。貧血かなぁ、まあ大事をとって会社を休みその日は横になっていました。ただ、戸口で右に曲がるときにドアーにぶつかるのです。そのときは気に留めませんでした。後でわかった事ですが、このときにはもう視野狭窄が起きていたのでした。自分でもうかつだと思うのですが、自分の父が60歳の時脳梗塞で半身不随になったのに自分の脳梗塞の可能性は一切思い浮かびませんでした。3年前、脳ドックで首を通って小脳につながる椎骨(ついこつ)動脈と頚動脈が狭くなっていると診断され、血液がサラサラになり流れやすくなる薬「アスピリン」を服用していました。血圧は去年まで正常でした。中性脂肪は正常値の倍位ありましたが、糖尿はありませんでした。まさか、脳梗塞がこんな簡単に自分の身に降りかかるとは思いもよりませんでした。 一晩寝て17日になっても頭痛が治まらないので、朝一で病院に行きました。早速CTの検査を受けたら、脳梗塞と診断され入院を進められました。自分としては五体が動くので、午後仕事の引継ぎをしてから明日入院としました。今思うと直ぐ入院すれば良かったなと反省しています。脳梗塞発生後数時間以内に入院して措置を受ければ、血栓と溶かして回復させる可能性があります。後遺症を最小に抑えるためにもできるだけ早く入院治療を受けるべきでした。今になっては、もう手遅れですが。 18日朝8時半に入院しました。単身赴任なので、自分で入院に必要な身の回りの物を準備しました。こんな時単身赴任は大変です。持病を持って単身赴任している人は、家庭生活している人に比べて、非常に大きなリスクを背負って生活していることを、本人及び家族は認識する必要があります。もし半身不随で倒れ、一人だったら・・・今思うとゾーとします。上海浦南病院に入院しました。アパート&職場から車で10分位のところにあります。日本語対応の医師が居るという広告で探しました。上海ではこの1〜2年外人向け(日本人向け)の病院が増えてきました、10箇所超えるのではないでしょうか。「日本語対応できます」が売り文句です。 私が入院した病院の院長先生は阪大の脳外科留学経験者で40歳台でした。上海では若い人が沢山幹部に着いています。上海浦南病院の特別病棟の主任医師は神戸大学に留学しており、日本語での意思疎通は大体問題ありません。これ以上の言語能力を求めるとなると日本人でないと無理でしょう。体の痛み・苦痛を伝える言葉の語感はネェイティブでないと体得できません。看護婦さんも日本語を勉強していましたが、日常一般会話がやっとという所です。海外で日本と同じ環境を求める方が無理な要求でしょう。 入院してすぐ、MRIで病状確認しました。脳梗塞発症してから3日目です。病状自体は安定期にはいりつつある時期です。梗塞が起きた場所の映像を見ました。梗塞が起きた部分が白っぽくなっています。幸いにも脳視神経の部分に血栓が引っかかり視野12時〜3時の1/4を失っただけで済みました。梗塞が起きた部位は人間が外界から刺激を受けた一次データを処理する部分です。コンピューターでいうと、Frond End Processorのような機能を司る部位です。ですから、発病直近で入力された一次データである人の名前、物の名前が失われていました。脳の細胞は人間の他の部位の細胞と違い、一度破壊されると回復できません。つまり脳細胞が破壊されたら治療の方法が無いのです。只、点滴で血液の中に血が固まらない薬を注入して脳の中を掃除し続けるしかありません。血液を活性化する漢方薬も点滴されました。毎日点滴5時間前後、この間ベッドに横になっているか、椅子に座っているか、動けないので最後の方は精神的に苦痛でした。医師に点滴した漢方薬の効能を聞いても血液を活性化させる薬だとの返事。私も専門的な内容は判らないので、アッソーでお任せしました。中国の病院は西洋薬と漢方薬両方併用しています。漢方薬の効能を「西洋薬を説明する言葉」で説明するのは無理なのでしょう。薬の処方の概念から違う世界ですから。日本は漢方薬の概念を完全に捨ててしまいました。日本人で中国に留学して中医学大学を卒業した人が働いていました。24歳位の好青年です。日本で高校卒業して中国で1年間中国語を勉強して、中医大学に入りました。中国の医師試験にも合格して今の職場で実務経験を積み重ねている所だそうです。あと2〜3年中国で経験・勉強する予定との事。日本で中医は認められてないので、薬剤師の名義を借りて、漢方薬局を開く事でしか開業できないとの話でした。飲み薬も西洋薬と漢方薬両方出ました。日本で流行っているイチョウエキスが治療薬として処方されました。 点滴治療と一緒に高圧酸素治療を受けました。1〜2気圧の高くなった環境で酸素を吸い、血液中の酸素濃度を高めて血液を活性化させるという治療方法です。日本でも行っている病院はあります。私が入った特別病棟は外人又は中国人の金持ち用(部屋代が高い、約10,000日本円/日、上海地元中国人の平均給与が15,000〜20,000円/月位ですから)の病棟です。中国は病人数に比べて高度な診断機器を持っている病院が少ないのです。特に設備の整った病院は大都市に集まっています。医療設備はどんどん高性能・高価になっています。地方の病院では設備が買えないのです。医療費は国の政策で低く抑えられています。大都市の病院に地方から受診の為出てくる人が沢山います。どうしても大都市にある設備の良い病院では病床の絶対数が足りなくなります。一般病棟はまさに野戦病院のようです。中国では難しい病気を治すより、普通の患者をできるだけ沢山診ることができる環境が求められています。高圧酸素療法は、患者がタンクの中に入り気圧を高くして酸素を吸入するものです。患者は脳手術した人、ボケ、捻挫、事故で足を切断した人、等色々な疾患を持った人が一つの狭いタンクの中に押し込まれて、酸素マスクをとおして90分位酸素を吸うというものです。隣には横たわっている重症患者も居ます。ボケのためマスクを外そうとする人も居ます。タンクの中には補助看護婦(夫)が居て世話をしていますが、限度があります。有名サッカー選手もタンクの中で一緒に治療を受けていました。タンクの中は中国社会の縮図のような場所でした。この治療を2週間受けました。 病院の生活は毎日淡々と進んでいきます。朝6時半起床、7時食事、12時昼食、5時夕食、9時消燈。通常人が毎日こんな生活していたらノイローゼになってしまうでしょう。健康人が入院すると、病気がなくても病気になってしまうという話があります。理由はこんな所にあるのではないでしょうか。 病院の食事は、朝は饅頭とお粥+中国の漬物+ジュースor豆乳、昼はご飯、肉又は魚料理+野菜炒め+スープ、夜は昼と同じ。朝、昼、夜の三食以外に10時、3時におやつが出てきます。こんなに沢山食べて良いのかな?と聞くと大丈夫、栄養士がチェックしているとの返事。中国で仕事していると相手の知的レベル・生活レベルを見て、自分なりの判断をする習慣がついてしまいます。看護婦・医師は栄養士ではありません。贅沢病である高脂血病、糖尿病、それに伴う高血圧の治療は始まったばかりです。都会で栄養士養成がようやく始まるかどうかという状態です。中国人の絶対多数はまだ貧しい食事をしています。地方では栄養摂取に力を入れています。日本が飽食なのです。看護お手伝いさんが食事の世話をしてくれます。お手伝いさんに、脂が多い、塩が多い、量が多いと丁寧に毎日クレームしました。すると段々と料理が淡白・さっぱり味になってきました。でも、日本の病院食と同じにはなりませんね。味だけを取り上げると中国の病院食に軍配は上がります。お手伝いさんは、出てくる食事の量が減り、味が淡白になり、脂・塩・量がこんなに少なく(不味く)、おやつも食べないで大丈夫か?と本気で心配してくれました。まさに国情の違い、こんな所から国の間の誤解が始まるのではないでしょうか。 8月18日に入院し、9月5日退院、18日間入院していました。この間、日本人で交通事故による内臓破裂で生死の境をさまよっている人、脳内出血の人、出産、下痢等色々な人が出入りしていました。日本人が上海に沢山住んでいて、誰でもが事故・病気で入院する可能性を秘めています。 8月21日から休暇をとって星さん達と一緒にチベット行く予定でした。お金も払い込んでいました。脳梗塞が起きたのが8月16日です。もし脳梗塞が一週間遅れて発生したら、今頃ヒマラヤから昇天していたかもしれません。運命を感じさせるタイミングでした。 9月5日に帰国し、9月6日に国立医療法人東京医療センターに入院し、13日に退院しました。日本の病院は中国の病院に比べて清潔・診察設備が整っています。中国ではカテーテル検査を薦められましたが、日本では薬を使用して内科的治療と診断されました。日本の検査設備、CT/MRI/脳の血流検査、3次元グラッフィクで精度の高い検査結果が出てきます。医者の技量でなく、検査設備・患者のニーズの違いが診断の差につながってきてしまうのでしょう。こうして日本に戻ってみると、日本の豊かさを感じる今日この頃です。平和国家・国際平和を目指そうとするのなら、この豊かさを世界に分けてあげる理念を持たないと、何時かしっぺ返しが来るのではないか・・・。 今、通常人の生活に戻れた幸せを感じています。そして、残りの人生をどう過ごすか真剣に考えるようになりました。56歳、残り時間はあまりありません。 以上 |
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