● その一 「世代交代」

 

 東京都練馬区に、30年続いている「まるとし」というとんかつ屋がある。僕はここで今働いている。おやじさんは、僕の妻のお父さんであり、僕の師匠である。

 

 僕の店「まるとし」は、客数17の店である。東武東上線「東武練馬駅」南口から歩いて数分、商店街の表通りに店はある。

 お客様は、常連の方も多いが、表通り沿いでもあり、新規のお客様もいる。ここ数年を振り返れば、一昨年5月、駅の反対側に大きな規模のスーパーが出店したことにより、店や商店街の環境も様変わりした。

 人の流れが一変したのだ。つまり、駅の反対側に住むお客様が、極端にこちら側に来なくなった。店の売上げも、5月のオープン直前までは、建設に関わる方々、スーパーで働く従業員の方々が多数来店してくれていた。ただ、開店したとたん、パッタリ止まった。

 僕の店だけがその影響を受けたのではなく、商店街全体も同様であった。半年たち、1年もすると、皆一様に、売上げを落としていった。「まるとし」は、物品販売のように、買え控えをする業種ではなく、食べ物商売だから、まだ良い方かもしれない。ただ、二割ほど売上げは減った。おいしいよなぁ、と自問自答する毎日。

 昨今の日本の経済状況も悪化している。長引く不況の影響は、お客様のお財布を直撃する。確かにビールを飲んでいたお客様が、飲まなくなる、注文されるメニューの価格が低いお料理に変わる、来店頻度の間隔が空くというようなことだ。

 そんな状況の中、僕は地道に仕事をしながら、学問を続け、20013月、慶応大経済学部の通信教育を卒業。そして、同年4月に日本大学大学院に入学した。おやじさんは、僕の進学について、渋い顔をしていたが、最終的には理解してくれた。

 僕が卒業論文を書き上げる以前から、おやじさんから僕に「お店をまかせたい」という話は何度かあった。技術的な部分、おやじさんと遜色ないレベルまで達していると自負していたが、正直まだ自分に何かが欠けていると思っていた。

 店は、特に入学する前後は、売上げも一時に比べかなり少なくなってきていた。そして、とうとうおやじさんも、「7月から、お店をまかせる。」という具体的な言葉を口にした。僕はとりあえず緊急措置として、定休日の水曜日を隔週で営業することから始めた。

 今までのおやじさんの経営方針は、職人肌の勘と経験を頼りにしたものである。昨今の牛丼やハンバーガー屋を意識して、限定で安売りをするアイディアを出し、それなりに努力した。ただ、お客様に来店していただかなければ、その効果も限度があった。

 僕は、入学後、研究科での小松憲治先生のご指導のゼミで、経済の基礎からもう一度学ぶことができた。今までの独学で得ていた知識が次第にまとまり始め、かなりマクロ的な世界や日本の経済の流れをつかむことができた。その都度、おやじさんにもその話をするように努めた。

 また、僕の企業研究の成果として、過去の成功体験を捨て、今の流れの速い時代を乗り切るには、「売上げ拡大志向から利益重視への経営の変革」はその規模は問わず、僕の店にも有効であると考えていた。それをおやじさんに話すが、過去の成功体験にしばられていたので、なかなか理解してもらえなかった。

 店が終わってから、おやじさんと話す機会がかなりあった。それは深夜まで及ぶこともあった。しかし僕のビジョンを理解してもらえず、「一歩進んで、二歩さがる」から「三歩さがって、二歩さがる」ようなかなり絶望的な気持ちになることもあった。僕は思切って「お父さんは自分のことしか考えていない」とか、「僕は子供たち家族のために働いている、孫はかわいくないわけないでしょ」などとまで厳しいことを言ったりした。

 そんな時事件は起こった。駅の反対側の、あのスーパーが破綻したのである。以前から僕はおやじさんに、あのスーパーは危ないと話をしていた。そして年末には、金融情勢の悪化で、地元の信組も破綻した。次第に、僕の見解に対して、おやじさんは今まで以上に信頼してくれるようになった。

 先生方の推薦もあり、僕が産経新聞の研究科特集記事の取材を受け、123日の朝刊に記事になった。余程うれしかったのか、おやじさんは近くの仲の良い商店主に紹介しまくり、常連のお客様にも話してくれた。これが、だめ押しだった。何時の間にか、おやじさんは僕のお店をやる上での、アイディアに反対しなくなった。

 記事には、この春から、三十年間のれんを守ってきたおやじさんから僕に経営を任せるとなっていたが、ここまでくるのに実際はここで働き始めて十年、自分のビジョンを話して半年かかったのである。

 仕事をひたすら開店前にこなしてしまおうというやり方をおやじさんはしてきたが、比較的お客様のいらっしゃらない時間に、仕事を割り振ることで、短時間に効率よく仕事するような方向に今はしている。おやじさんたちに陰で支えられ、僕の学究で得た経済的な知識と、店の仕事が自然にリンクし、入学前に描いていた理想の姿が実現しつつある。

最後に、写真を快く提供していただいた写真家の佐伯健三様、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 

 

   ● その二 「デフレ時代の店のあり方」

 

 物の値段が下がるデフレ時代の店のあり方について、僕とおやじさんの経営に対する考え方の最大の違いは、仕入れ先との関係に対するものだった。

おやじさんと僕とは、「店にとってお客様は何より大切である」と考えることは一致していた。店の主役はあくまで、お客様。「美味しかったよ」という一言。家族やカップル、グループで来店されるお客様同士の笑い声、言葉はなくとも一人で来店される多くのお客様、何度も足を運んでくださる方々に、日々素直にありがたさと感謝の気持ちでいっぱいになる。

店で仕事をするようになって気がついたことの一つに、お客様との死別がある。亡くなるまで店をこよなく愛し利用してくださった、おじいちゃん、おばあちゃんが数多く存在するのである。おやじさんはたびたびお客様のお葬式に出席する。先日も90歳のおじいちゃんが来た時、帰り際「また来ます、生きていたら」という言葉があった。

いろんなお客様がいる。病院に入院している時は我慢していたが、元気になって、うれしそうに食べていたその姿。体が自由にならなくなって来店できなくなり、配達をしたこと。それを見守った家族の方々も、店に対する気持ちは同様である。時に来店され、昔話に花が咲く。一緒に来ていた子供たちも、いつのまにか、お とうさん、おかあさんになっていたりする。

30年も店が続いていると、おやじさんはもちろん、お客様も年をとる。高齢化は、身近な問題である。店のことはもちろん、60歳を過ぎたとはいえ、まだ若いおやじさん夫婦のゆくえは、当然親子関係としても、僕の差し迫った問題として、常に関心ごとである。僕が仕込みをするようになったので、おやじさんは朝近くの公園を散歩するゆとりが生まれた。

余談であるが妻の妹はまだ独身。パラサイトシングルなどという言葉も、他人事でなく身につまされる。妹は、気立てがよく、かなりの美人なのになぁ。彼女が結婚した後、おやじさんと同居しようと考えているが、そう考えた時から何年も経った。僕もいつのまにか、親となり娘が3人いる。大変だけど、楽しいことが数多くある。

店では、お客様に対して、守るべきものが多くあると思う。逆に今のデフレ時代変えなければならない部分もあり、日頃の学究の成果と共通し、変革すべきことも数多い。僕は理屈ではなく、お客様の目線で、物事を考えようとする姿勢をつらぬきたい。

「まるとし」は、今まで、いろんなメディアから無料で店を紹介するとの話が何度もあった。その話を断ったのは、もちろん、店は客席が少ないため、一度に多くのお客様が来店されても十分対応できないからだ。ただ、断った本当の理由は、かなり前のある常連のお客様の言葉、「雑誌に載せてほしくない」を長年ひたすらおやじさんは守ってきたためである。僕もこのことは、まったく同じ考えだった。

ただ、僕の代になったので、極力、おやじさんに遠慮せずに僕の判断で、あらゆる面で新しい可能性を模索しようと考えている。デフレ時代の現在の経営と過去とは、まったく環境が一変しているからである。つまり、今後そのような話があった場合、今までのように、頭ごなしに断るのでなく、その内容を十分検討しようと僕は考える。当然お客様が一番であるが、店が潰れたら、元も子も無くなる。デフレ時代、この先何が起こるか分からない。

偶然であるが、先日シンプルライフ新聞社の編集部の方から、電話をもらった。内容は、お客様の口コミ情報を掲載したいので、許可をいただきたいとのこと。早速その記事を聞き、即答でOKの返事をした。情報紙シンプルライフ4月号Vol.23で実際記事になったのは、「とんかつやクリームコロッケがやわらかくてこだわりの味で、一度行った人は誰かにすすめたくなります!いい材料しか使ってないなってわかります。配達もテイクアウトもOKですよ」(練馬区・主婦50歳)というものである。ありがたい話だった。

ところで、今どこの店もうまいのは当り前になっている。今のデフレ時代、国・地域・企業・職場・家庭・学校等、お客様は、あらゆる環境で、常にストレスのたまる一方だ。新聞・テレビ・雑誌・その他、マスコミは暗いニュースばかり。そんな中、常にお客様が楽しいひとときを過ごせる、そんな店でありたい、僕は日々数々の努力をしている。

おやじさんは、長年取引のある業者も大切にしたいと考えていた。このことは、僕とは正反対だった。今まで遠慮して話さなかった。インフレ時代ならば、それでもいいが、日本の流通構造全体の高コスト体質は、僕の店の仕入れ先も無関係ではない。本音では、僕も面識のある仕入れ先との関係は続けたい。もちろん企業努力の姿勢が少しでも伝わる仕入れ先は、そのままお世話になることにした。

「物の価値は、価格では決まらない」僕が数々の企業を調べた結論である。簡単に言うと、コンビニと百円ショップで売っているまったく同じ商品の価格は、倍違うこともある。仕入れ構造やコンビニは本部との契約関係(マージンなど)があるためだ。僕は、店で取り扱っている商品の価格と品質を単純に他の業者の何社かと比較し、試しに注文して検証、その業者の姿勢を比べた。その結果を数字にし、おやじさんにわかり易く伝えた。一社、二社、おやじさんのプライドを傷つけることなく、目に見える形で納得してもらった。

たとえば、店で使う箸や箸袋は、業者を変えることによって、物は変わらず仕入れは半額(ワンセット8円から4円)になった。酒類、油、その他の周辺のものも、まったく同じ商品が安く手に入った(物によっては、10数%から20%削減)。そんな努力は塵も積もれば山となる。ただ、決して安物を買うわけではない。これを、お客様へのサービスに還元するのが僕の目的だ。「まるとし」は、お客様を裏切らない。肉やパン粉などのメインの食材は、値段にこだわらず、品質第一である。また、エビやカキなどの自然でとれるものは、大きさにバラツキがあるので、小さいものは数を増やしてお客様にお出しする。衣ばかりのエビなど、問題外だ。

今まで取引のない飛び込み業者の営業の話も、その内容次第では、検討する。企業努力をしている会社は、その数字とサービス内容で判断できるからである。その中には、「事業資金を融資する」とか、「公共料金が安くなる」とか、「商品を、キャンペーンで特別安く」など、今までだったらおやじさんを、かなり嫌がらせ、話さえも聞いてもらえない業者がたびたび見受けられる。ただ、その中には、数少ないが、貴重な話もある。

いつのまにか、おやじさんの方から、逆に僕にこうしてみたら、という仕入れのアイディアをくれるように今ではなっている。もともとおやじさんは、頭がいいし、経験も豊富なので、僕にとって強い味方である。また、写真と水墨画が趣味で、僕が新メニューを壁にわかり易く、写真で料理を撮り宣伝したいというアイディアを出せば、その通りに動いてくれる。それも、まめにメニューを手書きでPOPし、近くの店に頼んで、ラミネートまでして壁にはってくれる。

紹介しきれないが、数々の変革のおかげで、お客様の来店数は増えた。僕がやるようになって、売上げが、平均7.5%アップ。特に、店だけに限れば、平均9.5%アップした。うれしいことに、売上げ向上には、それほど貢献するものでもないが、デフレ時代財布が軽くなったお客様の立場を考え、新しく生み出した「一口ミニ生ビール、100円」は、なかなか好評である。店の新メニューに関して、中でも「クリームコロッケとアジの定食、820円」は、クリームコロッケ2個とアジ1枚のセットであるが、それぞれ別々のメニューを新しく組み合わせ、低価格でお客様にお出しするアイディアによって、人気メニューに変身した。

店の話以外に、僕の勉強についてここで振り返ってみる。入学後からこの1年は、資料集めの時期だったといえる。僕の勉強時間は、店の休み時間の午後3時から5時。本格的には、午前1時から3時ころまで。仕事は月に2度しか休みがないが、午後の時間は、主に近くの図書館に出かけたりする。時に所沢へも図書の貸出、先輩方の修士論文の閲覧、先生の研究室への訪問など足を伸ばす。また、休みの日には、母校の慶大や法大の図書館、国会図書館などにも、ポイントを絞って、資料を集めに行くこともある。そうして集めた資料を深夜に、整理するのである。

ゼミは自分の研究にとって、その発想を広げるための大事な場所である。仕事を抜けての市ヶ谷での通常のゼミは、先生から直接核心をついたアドバイスが、自分だけでなく、他のゼミ仲間にとって重要なものである。自宅のパソコンを使って夏と秋にサイバーゼミも開催された。僕は日頃仕事と学究ばかりで、子供たちの学校のイベントは、極力出席するようにしている。秋、長女の小学校の運動会と重なったが軽井沢合宿に参加した。冬の合同ゼミは、先輩方の実体験をもとにした研究発表や夜の交流が、特に有意義であった。この1年で得た数々の経験や知識をより膨らませ、先生のご指導のもと、今後僕は修士論文を実際書き上げていこうと思う。

最後に、この物語は、店の変化、経営方針の変更とその影響、仕事の流れなどを紹介することにより、僕の問題意識を、読者の皆さんと共有し、僕の仕事を客観視することを目的としている。電子マガジンは、公開サイトなので、院生のみならず、研究科に興味のあり、今後受験したいとお考えの方も多いと思う。そんな皆様、東武練馬の近くに立ち寄る機会がありましたら、遠慮なく、ぜひお気軽にお越しください。

 

  ●  その三 「がんばれ商店街」

 

 毎年7月の最後の土曜日、僕の店の商店街では、今年で10回目となる、きたまち阿波踊りが開催される。過去には土砂降りの雨の中、開催されたこともあった。去年は18連、合計千名の方が踊りに参加し、7万人もの方々が商店街に見物に来られた。今年も天候にも恵まれ大変な賑わいの中、開催された。

僕はこの阿波踊りで直接踊ったことはない。この日は1年で一番、店が忙しくなるからだ。義母であるおかみさんは、過去に一度だけ地元の商店街の連に参加し踊ったことがある。今年、本番の一ヶ月ほど前の連長会議に、夜食としてお弁当のご注文をいただき、30個ほど配達した。

「まるとし」は、二つの商店街の真ん中に位置している。この二つの商店街が年に一度力を合わせる最大のイベントが、夏の阿波踊りである。

当日踊りへの参加者の連は、それぞれの商店街の連、近くの自衛隊の連、児童館などの子供の連、高円寺などその他の地域からの連、飛び入り歓迎の連など、各連が特徴のある踊りを披露し華やかである。

地元の商店街の連は、以前徳島から招かれた先生に踊りの指導を受けたこともある。阿波踊りは側から見ると簡単そうに見えるがかなりきついということだ。女性の踊りの場合は、特につま先にくるそうだ。笛や太鼓に合わせ、皆さん汗だくになって懸命に踊られる。こうして商店街の力の結集で、地域の活性化がはかられる。

今年「まるとし」では、紙コップを用意して、店外のお客様に生ビールをお出しすることにチャレンジしてみた。

 義妹に頼んで僕の子供たちを連れてきてもらい、初めて阿波踊りを観戦させることができた。生ビールの販売を恥ずかしそうに手伝ってくれた子供たちの姿は頼もしかった。

この夏、この妹の結婚がとんとん拍子に決まった。式は11月だ。直接妹の彼に会ったことはなかったし、つきあい始めた彼がいるぐらいの話として聞いていた矢先のことだった。

振り返れば半年前、おやじさんと店以外のことで話している時に、たまたま妹の話になった。「おやじさん、家で、あまり妹が居心地良すぎるのはよくない」そんな話をしたことが思い浮かんだ。間接的にこの言葉が妹の結婚に影響したのだろうか。

妻と知り合ってから早いもので16年経っている。義妹のことは中学生の頃から知っている。彼女は、義理と人情に厚く、気持ちがやさしいので、子供たちが生まれた時・幼稚園の行事など、事あるごとに大変世話になっている。

先日、妹がその彼を連れて店に挨拶に来た。初めて会った彼の印象は、なかなかの男前。長男の嫁として親戚の多い家に嫁ぐ決心をした妹の気持ちがなんとなく納得できた。それにしても、とても幸せそうな妹の顔を見るのは久々だった。よかったね。おめでとう。

僕の店は、二つの商店街で唯一、それぞれ発行しているポイントカードの両方を使えるのが自慢だ。

一方の商店街では、顧客確保のため、ポイントカードを使っての夏や冬の抽選会、屋台祭りなどのイベント、とてもお得な生鮮市など健闘している。

もう一方の商店街も、春の桜祭、それぞれの店の前で出店を出してお客様にサービスをする朝市やナイトバザール、他にもクリスマスフェスティバルなどのイベントの実施、地域通貨の発行など数々の活動で健闘している。

スーパーやショッピングセンターはワンストップショッピング、便利で忘れられがちかもしれないが、商店街は地域のことを今も昔も一番に考え、商店と住民の間を取り持ち、本当にとても暖かい存在なのである。今こそ買い物の原点に帰ろう。

「商店街の魅力は個店の魅力」僕の商店街に対する考えである。

「まるとし」のように、店に後継者がいる場合はいいが、後継者もなく、この不況の中、業種を問わず商売をし続けることは、限りなく難しい。店主の多くは、店を継がせることで、子供に自分がしてきた苦労をさせたくないと考えているようだ。

昨今コンビ二やいろいろな商売のチェーン店が幅を利かせているが、街の風景が同質化していき、商店街を取り巻く個店の経営環境の変化は著しい。毎月のように近くの店が商売をやめてしまう。ただ、どんな環境にあろうとあきらめたら終わりだ。自分を信じ、お客様にとって、店を魅力的にする努力を続けることが生き残る道であると思う。

おやじさんはあまり変化を好まず、店のメニューを新しく追加することはほとんどなかった。逆にいえば、商品を絞り込んでこだわった商売をしてきたということは、すごいことだったと思う。しかしそれもなかなか難しい時代になった。

僕はお客様の予想を越えるサービス・商品・味を提供することを常日頃考えるようになった。この1年新しいメニューを毎月のように増やしてきた。具体的には、新しい食材として、抗がん効果もあるというホタテ貝柱、これからの時代より需要が高まるであろう(特に女性やお年寄りに向けた)白身魚(メゴチ・イトヨリ)、ビールのつまみとして、肉じゃが、豚の角煮などである。

そのどれもひとつひとつ、食材を仕入れた段階からその調理方法を試行錯誤し、メニューに加えた。価格も低めに設定したこともあるが、それぞれ好評である。つい最近登場させた、「タンブラー生、300円」もビール会社からグラスを新たに取り寄せ、一口生ビールより量が多く、中ジョッキ生より量の少ない、おしゃれなグラスの商品も登場させた。

 新たにチャレンジすることは、正直にいって最初は恐る恐るであったが、一度注文いただいたお客様から、二度、三度と引き続き注文をいただけると、自分のアイディアの結果は間違いなかったのだと確信する。思いついたらやってみる。今年の後半に実行したいプランが、まだまだ僕の頭の中にある。

店の変革では、仕入れ先の見直しも一巡した。一度仕入れを変えたものでも、物によっては以前の仕入れ先の方が安くなる場合もあり、情報収集は常に気が抜けない。電話で注文し配達してくれる仕入先だけでなく、おやじさんが以前手間がかかると敬遠していた、地元の店の良質な特売品にももちろん目を光らせ、直接足を運び仕入れる。ただこうして商品を単に仕入れるだけではなく、在庫を限りなく抱えず、商品の回転をよくすることは、店の利益にとって大切である。

経費の見直しも始めた。こんな厳しい時代だから何が起こってもおかしくない。店の体力をつけるためにも、お客様に影響のない部分はすべて見直し、削れるところは思い切って削る。継続して契約していた広告費も、効果を実感できないものは削った。いろいろ見直した中で、特に大変だったのが人件費へのダウンサイズアプローチである。昼間15年以上勤め続けているパートのお姉さんがいる。必然的に時給も高くなっているが、当然それに見合うだけ仕事をしていただいている。そしておやじさんとお姉さんは阿吽の呼吸にある。僕が割って入らなければ、今まで通り何の問題もない店の姿である。

僕がおやじさんだけでなく、お姉さんにもかなり長い時間をかけ、店を取り巻く環境の大変さ、店の数字を日常の会話の中でさりげなく伝え続けていた。話し方が気に入らなかったか、ある時4日ほど口を聞いてくれないこともあり、最後には泣かれてしまった。僕は常にお姉さんに対して、日々人一倍気を使って話していたつもりだが、この時ばかりはかなり精神的に落ち込んだ。お姉さんもつらい気持ちだったろうなと思う。妻はまだ子供たちが小さいので、店に出ることは限られ、お姉さんにはこれからも仕事のパートナーとして頼ることも多い。一時は辞めてしまうのではないかと心配した。結局、お姉さんには、お客様の落ち着く時間、賄いをやめ一時間早めにあがってもらうことにした。雨降って地固まる。今まで以上にお姉さんは集中して働いてくれている。

ここで僕の勉強について取り上げる。資料も集まり先生との個別指導を受け、論文のタイトルや章立てもほぼ出来上がった。章ごとに資料を集めると山ができ、それにつまずいたと子供たちに責められることもある。章立ては当初に比べてかなり絞ってきた。今まで読んだり考えたりしたことの多くを切り捨てていくのはつらいものがあるが、論文を書くということはそういうものと考えるのは僕だけではないだろう。

一つ僕がこだわっていることは、資料を集めるだけでなく、機会があるごとに、いろいろな場所、特に協会や研究所などが主催するセミナーや講演会に出席することである。参考文献として選んだ著者の話や、通訳を通して聞く外資系企業責任者の話、国内企業の社長さんの話など、直接聞くことは大変参考になる。やはり、情報は足で稼ぐという、ゼミの先輩のアドバイスを自分なりに活かしているつもりだ。

このような機会に出席できるのも、僕が店を抜けた後の仕事をしてくれている、おやじさんたちのおかげである。

最後に、店の厨房の話を付け加えたい。僕のような小さな店でも、機械化は進んでいる。特に限られた人員で店の仕込みをする時に、力を発揮する。朝ご飯を炊く時に、ライスロボが活躍する。お米の計量、洗米からざるあげまでしてくれ、スイッチを入れれば炊飯も自動的だ。他にも、キャベツロボは、キャベツのヘタを取り、機械にのせるだけで自動的に切れ、太さも調整できる。僕が入ったばかりの頃は、キャベツ用のかんなを使い手で切っていたものだ。

とん汁やクリームコロッケは、暑いけどガスレンジに張り付いて作る。これは昔から変わらない。とん汁はじっくり煮込んだスープを使い、クリームコロッケはへらで小麦粉とバターに牛乳を加え、かき混ぜながら作る。これは手間がかかる。ガスレンジといえば、店の換気は、ソイルスクラバーといって、煙を水に通して油煙、臭気を取り除くシステムで、音はうるさいけど立派なものだ。アルカリイオン水の浄水器も、料理やご飯の美味しさを際立たせている。フライヤーは2層で、料理によって使い分ける。油の調合は、大事だ。

お店は、営業時間だけでなく、朝の開店前のそうじや食材の準備、閉店後のかたづけなど、目に見えない部分も重要である。

そんな中で、僕は、肉を切り分けた後、仕上げるため一枚一枚丁寧に叩く。そんな時心の中で「このかつを食べて、お客さんが元気になれ」とか「店や商店街が、元気になれ」などと思いながら気合を入れて、叩いているのである。

 

  ●その四 「アメリカの風」

現在、僕が研究しているウォルマートは世界一の売上高を誇り、驚異的なスピードで事業を拡大し続けている小売業である。今年の3月、西友と提携し、国内において、大きな話題を振りまいた。僕はこのウォルマートに関してかなり以前から注目していた。そして今年9月8日から一週間、日本小売業協会主催の「ウォルマート成長戦略徹底研究視察会」に参加することを決めた。

去年9月11日、ニューヨークをはじめに、世界中を震撼させた同時多発テロがおこった。近くの商店主の「大変なことになった」という言葉とともに、僕は、営業中、店内のテレビでその瞬間の映像を目撃した。

そして一年後、その同時期に、アメリカ小売業の視察に行くことになった。個人として14年ぶりのアメリカである。

 出発前の旅行の説明会では、アメリカはテロの再発を恐れているため、空港での警戒がより厳しくなっていること、視察中、不測の事態への対応などが打ち合わせされた。大袈裟かもしれないが、子供たちにとっては、今回の旅行が何か危険なことがあると感じられたようで、「行かないで」という言葉を何度も面と向かって言われ続けた。ただ、妻やおやじさん、おかみさんは、心中穏やかではなかったろうが、僕の気持ちに協力してくれた。ありがたかった。

長期間僕が店を休むことで、残された皆の負担が増えることに心が痛んだ。留守中、家族は家から徒歩20分ほどの妻の実家に泊まることになった。僕の代わりに働く分、妻やおかみさんの働く時間が長くなる。小学校2年生の長女は、越境エリアに近いこともあり、集団登校でなく、実家から通ってもらうことにする。幼稚園年長の次女の送り迎えや、留守番をする三女にも少なからず影響がある。それでも僕は(この視察で得ることは長い目でみれば、店や皆の将来に必ずや還元できるだろうし、今を逃すとできないだろう)という信念で、参加することを決めた。

視察は、その目的から参加者は25名に限られ、特にウォルマートが日本に上陸した時に影響のある会社の参加者が多かった。僕のように、直接は関連もない仕事をしているが、企業なり個人として、ウォルマートの経営に注目している参加者も何人か見受けられた。

自分の研究する企業の店舗に一度も視察することなしに文献のみで論文を書くことに強く抵抗を感じていたことも、参加したい気持ちになった大きな理由である。

以前、ある流通グループに勤めていた。その入社研修の時、ロサンゼルス・サンフランシスコ・ハワイなど、有名な観光地にある小売業の視察をした。競争の激しいアメリカでは、その当時活気のあった企業は、今では目立つ存在ではなくなっている。

今回は、アメリカの田舎町にある小売業を視察した。その中でも、急速に成長したウォルマートの発祥の地、アーカンソー州のベントンビルに訪問することができ、うれしかった。それにしても、アメリカは日本のような出店規制がないため、その当時と現在の状況は、想像以上に様変わりしていて驚かされた。

訪問した地は、ベントンビルとダラスである。 車社会の米国社会。米国の小売業の経営は、国土の広さ、人口、輸送システム、社会体制などによって大きく影響される。そして、日本の企業との大きな違いである人種構成、国民性の違いをまざまざと体感できた。

 僕が視察する数ヶ月前、日本の大手流通企業の大視察団が、店内において写真を撮らないなど事前の約束事を守らなかった。その影響により、特に日本人に対してウォルマート本部から行く先々でスケジュールの制限があった。その中でも、最も自分が楽しみにしていた物流センターの視察も直前にキャンセルになった。ここまで来たのに本当に悔しかった。

こういう状況の中で、現地で交渉にあたった主催社や旅行会社の方は、よくやってくれたと思う。

ウォルマートの、企業としてのリスクおよび情報管理の徹底さには驚かされる。店舗視察をする条件として、帰国時に、参加者全員がウォルマートの本部へアンケートの提出を義務付けられた。これは、ギブアンドテイクという、アメリカらしい発想で、メリットを追求するその姿勢に感心してしまった。逆に、メリットがなければ、受け入れてもらえなかったことだろう。

 ウォルマート最新型の店舗、その発祥の地(現在博物館)、質素で有名な本社はもちろん、ネイバーフッド型店舗のバックヤードの視察や店長インタビューを通じて、

・創業者サム・ウォルトンの経営理念

『無駄なものに一切コストをかけず、EDLPという常時最低価格の販売で顧客満足を提供する、そして主役は常に顧客および従業員であるというもの』

・ウォルマートの本質

『企業規模が大きくなろうと、小売業の本質は1店1店の現場にある商店経営の原理原則の徹底』

を実感し、今後の自分の研究や仕事に対する姿勢を再確認できた。

バブル崩壊後の日本は、長引く不況もあって、いろいろな所で制度疲労をおこし、それを打破できない閉塞した状況が続いている。僕が参加を決意したもう一つの目的は、実際に小さいながらも商売をしている今の状況での、漠然とした疑問を解決するためでもある。

 限られた期間および範囲のわずかな経験ではあるが、この視察を通して「日本人特有のきめの細かいサービスや料理の味を、身近なところから広げていくこと。自分の行動に自信を持ち、人の真似でなく、あくまでオリジナルな発想が大切である。」という至ってシンプルな心境に至った。お客様の気持ちをいかに消化し、それをサービスに反映するかという僕の方向性は、間違いないと確信した。

参加された方々と情報交換をしても、組織に属している方の多くは、個人的には皆気さくで良い人ばかりだった。夜、個別に部屋での行なわれた懇親会などのお誘いも何度もいただいた。自分のサラリーマン時代を振り返るような出来事もいっぱいあった。上司や職場のことを意識するあまり日々の数字を追われ、自分の方向性を見失ってしまうような状況を思い出した。

日本にこのような状態が続くのは、職場慣習や都合で商売していることが蔓延していることも原因ではなかろうか。

店舗を訪れた時、僕はまず周辺を散策し、視察の行列が分散し店内が落ち着いた頃、地元の消費者の視点を想像しながら視察した。

店において、僕の言葉が足りないことが原因であり、妻になかなか理解されないことがある。研究している僕を、妻はもう1人子供がいるように感じているらしい。子供3人の子育ては常に待ってくれない。日々が戦争状態である。小学校と幼稚園の行事、朝からの次女の送り迎えだけでなく、子供の習い事も、長女と三女がバレエ、次女が英会話と、3人それぞれ別々に送り迎えをする。少子化が進んだ今の家庭の多くが、1人の子供にいくつも習い事をさせ、ゆとりのある生活をしているように感じることもあるのだろう。

妻は、おかみさんの代わりに店に出て働くことも増えた。店に出たら出たで、営業中、僕からお客さんを見ていないと厳しく言われたりする。でも健気にやっている。最近は、パート感覚の働きぶりから、サービスに心がこもってきたようだ。

話はまた元に戻る。ウォルマートに限らず、国内のセブンイレブンを含め、僕が仕事をしながら企業を研究することは、それ自体だけが目的でなく、あくまで現代において業種を問わず、最も大切である消費者、つまりお客様に対して、どうサービスをするのかということを研究することにある。僕の頭の中では、店の経営と自分の研究を連動させている。経営環境は常に変動するし、答えがないところに答えを出し続けているような感覚に時に不安になるが、自分に自信を持たずして、逆にお客様へのサービスを充実できないだろう。

 ちょっと固い話をしてみたい。日本は戦後、貧しく食べ物や物がないことを満たすため、川上から川下へ、メーカー主導の十人一色の単純な生産および流通構造の流れがあった。ただ、現代の日本は、巷では物が溢れ、川下から川上へ、十人十色の消費者主権となった日本の流通構造へと大きく変動した。移り変わりやすい消費者の複合的なニーズを満たすために、どう企業として最適な成長軌道を描いていくか。

過去の経営の成功体験にとらわれず、パソコン、インターネットが普及し、一瞬にして世界と日本の情報が連動する現代、より加速して短くなった社会変動サイクルや経営環境の激変とともに、消費者の利便性やニーズの変化にいかに対応するかが、普遍的なものと思えるのである。

 経営は数字である。ただ、その数字も、単なる売上よりも利益、特に粗利益が、今の時代重要となっている。僕の店のように、小さい店は、お客様の需要をいかに満たしていくかが今こそ重要となってくる。「利は元にあり」商業世界の格言もあり、商人のすべてが行なう発注や仕入れは、商売の最も重要なものである。ウォルマートは、この部分リテイルリンクなど、他社に真似のできないような進んだシステムがあり、大きな成果を上げている。

今まで紹介してきたように、去年の7月から店を任され、お客様へのサービスを充実させ、仕入れ先の変更など、思い切った店の変革をしてきた。それまでの約4年は、売上の低下が続き、活気が失われつつあった。僕は店に再び活気を取り戻したいと考え続けてきた。

ありがたいことに、変革によりこの1年平均の結果は、売上は4%アップ、粗利益では、2.4%数字が良くなった。おかみさんにも「たいしたものだ」と誉められた。ただ、深刻なデフレ不況が続き、経営環境は、ゼロサムからゼロマイナスが当り前の競争下にある。僕が数々変革したことも、1年を経過した今年の夏から、売上が低下し始めていた。極端に言って、1年前の手つかず状態から、ある程度の成果を出した後の変革は、数字が出にくくなると予想していたが、まさにその通りになった。

変えようとしている気持ちが店の活気に繋がり、お客様が来店して下さった。しかし、去年と同じことをしていては、客席も限られているので、限界がある。

そこで出前の数字の低下に注目した。原因は、今から5年ほど前におやじさんが作った出前のメニューが、内容的にも古くなったこと。店内の変革に力を入れていたため、ここ3年は特にメニューを配っていなかったこと。都内はお客さんの引越しも多く、また、まとまった注文を下さった会社などが、この景気で注文の頻度が減っていた。

 僕は今から約半年前に、出前のメニューを全面改訂し、内容もメニューをシンプルに並べてあっただけのものから、商品を増やし、インパクトのある店のアピールコメント『サクットジューシープロの味』や店の宣伝も含めて地図をつけ、より垢抜けて目立つメニューを作ることを考えていた。実際完成したのは、8月末であり、9月はウォルマートへの視察や月末には軽井沢合宿ゼミもあり、メニューを配っての対応態勢ができたのは10月からである。

過去10年間、実際出前をし続けていたこと、その間何度もメニューを配った経験もあり、ノウハウも仕入れた。

新聞の折込みやポストに広告が分厚く入る競争が激しい時代である。仕事の合間や営業が終わってから、ポイントを絞って、一軒一軒自分でポストに配った。

この4年間手書きのノートには、以前に一度でも注文をいただいたお客様の情報を書きとめていた。そういうお宅に絞って配ったメニューの反響は格段に良かった。新規の注文の、「貧乏暇なし」とひたむきに残業をする会社や個人のお宅の注文も、目に見えて増えた。

厳しい環境の中、良い結果を出した1年後のリバウンドを予想していたが、再度売上も好転させることができた。ほっと一安心である。売上高に左右されず、地道な自助努力により、数字が安定する粗利益を今後も大切にしたい。この1年の成果は、過度の値下げなど目先の販促策にとらわれることなく、身近なところからお客様に還元したいと考えている。

帰国後、お客様へのきめこまかい対応の第一歩として、その時々の旬なもの、例えば、ミニトマト、みかん、キウイフルーツなど、ひと口サイズのものを料理の皿に添えるサービスを始めた。近年のヘルシー志向を考慮し、特にキウイは、揚げ物に合ったようで、意外にも喜ばれた。キウイには酵素が脂肪を分解する作用・美肌効果もあるそうだ。

「お客様の声は、ゴミ箱に集まる」人によって好みが分かれるが、おおむね好評のようである。

新しいメニューもまた増やした。一般に市販されているような漂白されたものでなく、本来の黄色い色の紋甲イカもメニューに増やし、魚介を中心にバラエティーのある組み合わせを作った。

ホタテイカエビ定食950円(ホタテ・イカ・エビ各1つ)・カキと一口ひれかつ定食1000円(カキ・一口ひれかつ各2つ)・カキと白身魚定食950円(カキ・メゴチ各2つ)

なお、余談だがイチローの勇姿も目の当りにできた。

9月11日米国大リーグ、テキサスレンジャーズ対シアトルマリナーズの試合である。入場時小さなアメリカの国旗とTシャツが全員に無料で配られ、試合前の追悼セレモニーは考え深いものがあった。

出発前にゼミ仲間である堀内さんから紹介してもらっていた観光地、ケネディ暗殺場所も訪問をした。

今振り返ってみると、僕にとってのアメリカの風は、朝早く起きて、ホテルの周辺を散歩した時の光景、数多くの車が通り過ぎる風だった。数字を上げないと職場を奪われてしまうのだろうか。アメリカの管理職は特に出勤時間が早いそうだ。ウォルマートの創業者のサム・ウォルトンも朝4時に出勤したという。その原点の地を踏んだ僕は、激戦区のダラスでのその激しい車の流れを見ながら、僕の子供たちや家族のためにも負けられないな、と改めて思ったのである。

 

  ● その五 心のバトン 

 

研究科に入学してからの2年間は、今まで生きてきた中で、最も充実した日々だった。限られた自分だけに使える時間は、寝る間も惜しんで研究のために使った。調べたいことや書きたいことがたくさんある中で、また内容も良くしようと、とにかく書き上げるまでには葛藤、苦闘の連続だった。でもそれは、僕だけが特別ではなく、先輩方も、この春修了する仲間も、同様であろう。

 修士論文の正本をようやく完成させ、郵便局での手続きが済んだ2月、その足で、今まで負担をかけ続けた、おやじさんやおかみさんを含め、家族全員で、鬼怒川温泉への一泊旅行をした。僕自身を含め、全員の体は、疲れ果てていたが、ゆっくりと温泉に浸かり、自分の時間を取り戻したことで、久々に皆で心から笑い合えたような気がする。

 僕がパソコンの前に座ると、いつの間にか、長女も自分の机に座って勉強を始めるのが、習慣のようになっている。次女は今年4月小学校に、三女は幼稚園にそれぞれ入るが、僕の今までの姿を見ていれば、伝わるものがあったと思う。僕は元来無口で、自分の気持ちを直接人に伝えるのは、得意ではない。特に、子供たちには、自分の強さも弱さも、ありのまま見てもらうことで、それぞれがもって生まれた心を大事にしてほしい。

 妻は、子供たちに対して、テレビを見るのも、ゲームで遊ぶのにも、毎日家の手伝い(玄関で靴を揃えること・食器のふき当番やしまう当番・お風呂の掃除やお湯はりなど)の役割を果たすことを条件としている。皆、お母さんのことが大好きなので、素直に言うことを聞いている。僕はというと、1日1回は、物言わず、そんな子供たちの頭をなでることにしている。

 おやじさんやおかみさん、そして妻や義妹は、とにかくよくしゃべる。僕が妻と付き合い出した時、こんな家庭もあるのかと不思議に思ったものだ。僕は自分の両親とは、あまり会話をしないで育ったけれど商売をしていると、家族の団欒が、少なくなるから尚更そうなるのかもしれないと感じた。学校の休みの日は、店にとって稼ぎ時である。商人にとって、子供たちと一緒にいること、食事を共にすることも限られ、コミュニケーションを取ることは貴重になる。

 今では僕もおやじさんと同じ立場となったので、商人の厳しさ、辛さ、うれしさ、楽しさは、否応なく体で覚えた。逆に、商人であるからこそ、自分の働いている姿を子供たちに見せられるのは強みでもある。店はたった一人ではできない、皆で助け合わないと、営業はできない。だからこそ、家族の絆は、自ずと強まっていくのであろう

 調理師は、作った料理の味こそ鏡であり、お客様にとって最も大きな魅力である。お金をいただいて、商売をし続けることは、店の雰囲気や心のこもったサービスがその基本にある。僕の店のように、規模が小さいほど、その気持ちは伝わり易いし、ごまかしもきかない。

 僕の論文の中では、「売上より利益、利益の源泉は顧客、その前提として、消費者心理への細やかなアプローチ、そして今ある需要だけに目を向けず、市場なり需要を新しく自ら創造する、経営者には、その意志が必要である」と書いた。僕の日頃の問題意識を、小売業に当てはめてみても、共通するのではないか。
 
 僕がこの物語を連載という形で書き出した動機は、今から1年前、後期のリポートの提出が終わった後、店にゼミ生と共にわざわざ来店していただいた近藤大博先生の勧めがあったことからだった。

 近藤先生の必修科目のリポートで、文章を書くことを覚えようと、草稿を何度も書き直し、その都度ばっさりと添削され、意地になり調べ直し提出したリポートは、僕の宝物である。結果として、この物語は、ありのままの姿であるだけに、店のことを書けば書くほど、それがプレッシャーとなり、仕事や研究に力が入ることになった。

 僕が直接、店において、常連の一部の方以外には、実際、研究科で学んでいることを進んで話をしてはいない。それは、仕事を片手間に仕事をやっていると誤解されたくないためである。仕事をしながら、通信教育で学究を続けていることは、もう13年を超えるが、僕の生活の一部となっている。

 小売業を研究するのは、店のためでもある。おやじさんや妻に理解してもらうのに、どれほどの言葉を費やした事か。単純に、同じ接客業としての大事な精神的な部分、仕入れ先からの商品の流れを歴史的かつ国際的につかむことは、分り易い。もっと深く言えば、長引く日本の不況の原因をとらえ、将来的な世の中の流れへの不安に対してどうあるべきか、店の方向性や、今やるべきことで何が最適なのか、そういった模索の積み重ねが、この2年間だった。

 この物語を書き出してからというもの、僕の周りでは、いろいろなことが起こった。その1つは、昨年の11月、義妹が、無事結婚式を終えたことである。

 新婦側の親族代表のカメラマンとして、写真を撮っていた僕は、披露宴での来賓の方々の話を、落ち着いて聞くことはできなかった。けれども、いつも身近にいた義妹の晴れ姿は、今でも忘れられない。おやじさんやおかみさんが、感極まって泣いてしまうそんな一生に残る名シーンをカメラ越しに期待していたが、おやじさんは、気丈にかつ冷静に主役の2人を最後まで見守っていた。

 「まるとし」は、めったに店を休まない。しかし、このお祝い事のため、日曜日に休業することとなった。前もって休業予定の張り紙を張っておいたが、後日、心配して見に来て下さったことをお客様から聞いた。実は僕はその前日、深夜までかかって、1人で仕込みをし、できれば結婚式を終えたその足で、店を開けられるように準備もしていたが、式が終わってからすぐ帰るわけにもいかず、実現はしなかった。
 
 その後、義妹から、妻へ連絡が入り、どうも妊娠したようだと聞き本当に驚いた。最も、本人が一番驚いたようだった。最近になってつわりも落ち着き、安定期にも入ってようやく、新しい生活のリズムもとれたようだ。予定日は、7月。彼女には、一歩踏み出す勇気を改めて、思い出させてもらった。結婚に対して臆病にならず、決断したすぐその先には、赤ちゃんが待っていた、まさにそんな感じであろう。

 少子高齢化、将来に対する不安や、子供を育てるには、何をするにしてもお金がかかる。何時までも親と同居し、気楽な独身人生もいいだろう。でも、将来については、難しいことを持ち出して、それを論じ合うより、人を好きになって、共に歩む道を選んだ方が、僕は幸せになれるように思う。幸せは、自分の心が決める。店のお客様も、カップルで来られて、いつの間にか結婚し、子供を連れて来られる方もいらっしゃる。
        
 
 義妹はというと、妻とメールで頻繁にやりとりして、新婚生活のその時々の疑問や不安、料理に対するアドバイスなど、連絡を取り励まし合っている。僕にも心強い兄がいるが、兄弟もいいけど、姉妹っていいなぁ。子供たちも、姉妹3人仲良く、時には喧嘩をしつつ、おばあちゃんになるまで助け合っていってもらいたい、それが僕たち夫婦からの心からの希望である。

 この物語を書き出してからというもの、店には、研究科に関わる先生、研究仲間の方々が、食事に来ていただいた。先日も、ゼミは違う同期の友人が、面接試問の前日、「面接に勝つために、かつを食べよう!」と来てくれた。僕の面接試問は、その翌週であったのだが、何だか逆に元気づけられた。後に、「上手く試験を終えたのは、前日にカツを食べたおかげかな?」などと、メールをもらえたのは言うまでもない。

 そういえば、研究科のIT社会創造研究会の設立総会も「まるとし」で行なわれたこともある。専攻は違うが、店で初めてお会いする先生方、ゼミは違うが、気さくにお付き合いさせていただいている先生や先輩、同期の方々の中には、1度ならず2度、3度と、店でお会いする方もいて、心の温かさ、やさしさにふれた。

 昨年末、その中でもひときわお世話になっている五十嵐雅郎先生から、店に直接電話をいただいた。何でも、「リクルート社発行の雑誌の取材を受けてみてはどうか?勉強になるから」とのこと。日頃からいろいろな資料を提供していただき、とても面倒見のよい五十嵐先生からのお話ということである、2つ返事でお受けした。

 その取材は所沢の事務課で行なわれた。リクルート社「仕事の教室」2003年2月号、VOL83、実際の研究科の記事には、五十嵐先生からのメッセージと並んで、僕の先輩としてのメッセージ、「昔の通信教育とは別物!先生直接の指導も充実しています」などと紹介された。この記事を読まれ今年入学される方が、多くいらっしゃることを、陰ながら願っている。

 ここで、僕の所属しているゼミのことを少々だがお話したい。この2年、指導して下さった小松憲治先生は、一言でいえば、心技体すべて兼ね備えた、本物の経済学者である。心から尊敬申し上げている。小松先生には、その豊富な経験や知識から、僕の未熟な部分を大いに補強していただいた。

 ゼミの仲間は個性派揃い。「K-LOVE3」と名づけられたゼミの愛称もあるが、名幹事の唐牛さんや、苦手だった図表の作成を懇切丁寧に、ゼミの度に教えてくれた井澤さんには特にお世話になった。年齢、性別、仕事など、千差万別ではあるが、今ではかけがえのない親友たちである。

 店の話に戻るが、変革について今回も取り上げたい。新しいメニューとして、チキンハンバーグ・みそかつ・ポテトコロッケ、を加えた。

 みそかつは、今から1年半前に、本場名古屋にまで足を運び、これでもかと、有名な店をはしごして食べ歩いてみた。実際に「まるとし」で商品化するまで、時間がかかった。名古屋そのままの味であると、甘すぎるように思う。八丁味噌はしっかり入れて、甘さを控えつつ、妻の祖母の思い出である五平もちのたれもヒントにして工夫してみた。

 ポテトコロッケは、日頃からはっきりと物を言って下さる常連のお客様から、「クリームコロッケなど乳製品は苦手だから」とお聞きし始めることとなった。試作品をそのお客様のご自宅にお持ちしたら、「美味しい」と喜んでいただき、返していただいた皿には、お礼に干ししいたけをいただいた。

 こうしたお客様とのやりとりは、日々いろいろな場面で行なわれる。よく店で物をいただくのは、お土産や、店に飾れる花などである。店では、僕にしろ、おやじさん、おかみさん、お姉さん、それぞれ別々にファンがいる。僕には、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、会った時にいつもうれしそうな、保育園児のまーくんを筆頭に、若い世代が中心、おやじさんたちは、年齢の高い世代が中心にファンがいる。「まるとし」は、その皆にとって、心のやりとりの大事な場でもある。

 料理の他にも、日本酒は、辛口のみであったが、甘口も置き、2種類のお酒を選べるようにした。また、サワーも、レモンやウーロンの他に、製造元に直接連絡をしたことで、グレープフルーツや青りんご、うめなど、他の味を仕入れ、現在、ためしに置いている。

 まだ実際機能させてはいないのだが、出前用の電話は、フリーダイヤルにして、お客様に電話代の負担をさせないように新しい電話番号も取った。また、配達は一人前からでも喜んですることにもした。一人暮らしのおばあちゃんのお宅には、普段は一人前だけをお持ちすることがあっても、孫たちが遊びに来た時など、まとまった注文を下さることもあるからだ。
 この2年間、入学前の店の売上低下傾向を、仕入先から、店の運営、提供するメニュー、あらゆることをきめ細かくすることで、研究で積み上げた知識を実践し、店の変革を進めることで、反転させることができた。このことは、研究以上に、胸を張れることである。

 現代において、企業の方向性は、いかに、消費者心理に近づいて、仮説を立て、魅力ある商品を提供する、そのことに目を向けない企業は、生き残れないであろう。ただ、逆に顧客にとって魅力ある企業は、いつの時代であれ、その社会変動に左右されず、生き残れるともいえる。僕は、日々経営に関するあらゆる場面で、現状に安住せず、変革を継続して実践していきたいと考えている。
 以前の通信教育は、郵送でやりとりするもので、なかなか成果が上がらなかった経験がある。今研究科では、指導教授とのメールのやりとりはもちろん、スクーリング、個別指導、通常のゼミ、サイバーゼミなど様々な形で、奥行き深く、幅広く学べたことは、何にも変えがたいものであった。

 仕事と研究を同時に行なうことは、言葉に表せない困難さがある。しかし、学んだこと以上に、多くの方々との出会いや多くの書物による新しい知識は、僕にとって、何ものにも変えがたい、将来に続く大きな財産となった。

 たとえ「まるとし」が、これからどんなに困難な状況を迎えようと、僕は、その時々、今を生きる。人任せにしない。変革は、先送りしない。自ら率先して、新しいことにチャレンジし続けていく。そんな気持ちや心を持ち続けたいと考えている。

 さて、この「東武練馬まるとし物語」の連載も、僕が、研究科を無事修了することもあり、この辺で、気持ちの上で一区切りつけたいと思う。長いようで短かった。文章を書くことには、毎回かなりのプレッシャーを感じたが、何とかここまでやり遂げられたのは、読者の皆さんの声に励まされたからである。

 「まるとし」は今日も元気に営業している。研究科で学んだことで、さらにパワーアップされ自信もついた。店を変革しようとする意気込みは、自分でもどう展開していくのか、そのゆくえが楽しみである。読者の皆様のご多幸を心からお祈りしつつ、現役生として、僕の心のバトンを後輩の方々に渡したいと思います。

 

  ● その六 健康であること
 

 3月、正式な修了決定の通知があり、修了式・学位記伝達式・祝賀会などの行事案内が届いた。やっとこれで一区切りついたと実感する。その通知の中には、この2年間の研究の評価である単位履修票も同封されていた。

 修了後の進路について、今年、研究科に博士課程が新設されたことで、受験をされる先輩や同期の仲間の声も伝わってきた。

 僕は、仕事に専念したい気持ちと研究を続けたい気持ちが半々あった。しかし、研究を支えてくれた家族に対して、更に継続的な負担は避けたいことから、マイペースで学べるであろう、研究科の科目等履修生への受験をすることにした。

 科目等履修生とは、修了生を対象にしたもので、選択科目の履修を10単位まで、1年間認められる制度である。結果として、今年僕を含め14名の入学が認められた。研究科で学ぶことは、僕のように自営で時間に追われている者には、最適な環境であると、この2年間で実証されたと思う。

 今回選択した科目は、以前より興味のあった人間科学の分野の2科目を履修することにした。

 修了式の数日前、IT社会創造研究会のつながりから、近藤ゼミ主催のサイバーゼミに参加した。講師は電子マガジンの実務でもお世話になっている荒関仁志先生。テーマは「ユビキタス社会の技術的な問題と将来像」であった。

 サイバーゼミとは、自宅でパソコンを前に、リアルタイムでの講師の映像と、講義主旨をまとめたスライドの画面表示、音声による双方向のコミュニケーションが可能なものである。

 一昨年の8月、僕たちゼミ生からの要望をお受けしてくださり、指導教諭の小松憲治先生による、研究科初めてのサイバーゼミが開催された。その講義内容の充実ぶりから、再度ゼミ生の要望があり、11月に2度目の開催もあった。僕個人としては、ゼミは違うが1年4ヶ月ぶり、今回で3度目の参加となった。

 サイバーゼミは、講義内容の質が高ければ高いほど、参加者にとって、より充実したものになる。その利点は、参加する時間に自宅にあるパソコンの前に座れば、その前後は仕事をすることができること、また、後日その講義を再生することで、何度も復習が可能であることが挙げられる。

 ユビキタス社会については、1年前にこの分野で有名な東京大学大学院教授の坂村健先生の講演を聴講したこともあり、僕も注目していた。日頃この電子マガジンの編集でお世話になっている荒関先生の熱弁、大変有意義な講義であった。

 こうしたイベントに限らず、研究科において一番大事なものは、人的なコミュニケーションだと思う。積極的にいろいろなことにチャレンジしたことで自然に人の繋がりが広がり、研究を充実させるヒントを沢山いただけた。


 3月25日、学位記伝達式に参加した。特に、開講式以来の瀬在幸安総長のご挨拶には、感慨深いものがあった。専攻別の学位授与式に会場を移し、直接指導をいただけた先生から学位を受け取ることができた。諦めなければ、夢はかなう!苦労が報われた瞬間である。

 アルカディア市ヶ谷で行なわれた祝賀会では、この2年間で知り合えた同期の仲間、先輩、先生方、その時々の節目でお世話になった方々との、楽しいひとときがあった。仕事と研究の両立、自分一人だけでは成し得なかった。それは、その時々に励まし合ったゼミや同期の仲間たちと家族のお陰である。

 話は変わるが、この4月から、僕は正式に事業主となった。名前を代える時期は、今まで何度もあったが修了するまでは、おやじさんの顔を立てたい気持ちが強かった。これからは、今まで以上に、思いきった決断をすることができると責任感が芽生えた。

 店を引き継ぐにあたり、おやじさんがしたくてもできなかったこと、その一つ一つを地道にクリアーしていきたいと思う。店主としても、そして親子関係としても。

 その最初の大きな決断は、おかみさんについてのことである。

 長年悩んでいた股関節の痛みを、周りの状況を考えて先延ばししていた。しかし、おかみさんの気持ちを直接聞き、それを尊重して手術をすることになった。

 少し前まで、有名な病院は遠くて通うのが不便だとか、失敗したら大変だなどと言っていたが、「店のことは心配ないから、絶対やりましょう!」という僕の言葉を受けて、調べてみると意外にも、近くの総合病院に専門の科があり、1日に何人もの方が手術をしていることが分った。

 やると決まれば早いほうがということで、予約の取れる、ゴールデンウィーク明けに入院・手術・リハビリで約一ヶ月、おかみさんは家を留守にすることになった。今までは夜店に出ていたおかみさんの代わりに、妻が、祝日などは従兄の奥さんに、その間の子守りは、僕の母や妻の叔母さんにお願いすることになった。

 入院後おかみさんは、同病室の、他の患者さんたちから手術に関する経験談や後遺症のことなどを聞いて、日毎に不安になっているようだった。そして、先日約3時間におよぶ手術が無事に済んだ。術後、落ち着いてから、元気そうなおかみさんと会った。

 結婚した義妹の背中に続き、義母の背中も、今回僕が押した分、ほっと一安心である。

 そういえば、妊娠している義妹から妻の携帯電話に、メールでお腹の赤ちゃんの写真が送られてきた。2ヶ月ほど前になるが、その義妹が一週間ほど、泊まりで里帰りをした。妻や子供たちも春休み期間だったこともあり、泊まりに行き久々に皆が集まった。順調にお腹の赤ちゃんは大きくなっているようだ。

 修了してから大きく変わったことの1つに、子供たちとの関係がある。

 この4月から、次女が小学校に入学、三女が幼稚園に入園した。特に毎朝、三女の登園を僕が担当し、生活のリズムは、夜型から昼型へと大きく変更した。

 学業と仕事を両立させてきたこの2年は、子供たちとのふれあいも限られていた。これからは、仕事柄、休みは取りづらいが、親子でいろいろなイベントに参加したいと思っていた。

 そして、5月5日子供の日、「JA全農チビリンピック2003」に参加した。チビリンピックのキャッチフレーズは、「転んだっていいんだよ、元気いっぱいが金メダル」。そんな言葉に惹かれて、参加した。会場は昨年、サッカーワールドカップ決勝戦(ブラジル対ドイツ)が行なわれた横浜国際総合競技場である。

 当日は、よい天気に恵まれた。入院前のおかみさんに、仕事の引継ぎを兼ねて店に出てもらい、親子で出掛けることができた。自宅から横浜へは距離があるので、皆が起きられるか心配していたが、6時には朝食をとり、全員無事出発できた。

 僕らの参加種目は、朝一番の開会式直後に行なわれた。長女の小学3年生親子マラソンと、次女の小学1年生親子マラソンである。会場に入るとゼッケンをもらい、そのまま開会式に参加した。その直後には、親子マラソン1年生のスタートで、それに遅れること15分、2年生と3年生のスタートとなる。

 当初はそのどちらも僕が一緒に走る予定だったが、時間的に無理な事がわかり、急きょ、次女は妻と参加し、僕は長女と走った。三女を、スタンドで1人きりには出来ないので、すぐそばにいる会場係の方に申し訳ないが仕事ついでに見ていただくよう頼んだ。心細げに少しむくれてはいたが、三女も頑張った。

 マラソンの距離は1キロなので、会場内のトラックを一周し、外に出て軽く走り、またトラックに戻って、すぐゴールとなる。僕と一緒に走った長女は、初め飛ばし過ぎたせいか、真ん中あたりと後半の2度、「疲れた!もう歩きたい」と言ったが、何とかそのまま無事完走することができた。そして僕は、長女、次女の2人をよく頑張ったねと誉めた。

 会場は広く、トラックで走っている時は、迫力があった。スタンドには人はまばらだったが、観客があふれているところを想像すると、出場する選手が自分の能力以上の力を発揮できるのが実感できるような気がした。

 子供たちに「疲れた、疲れた、もうこりごりだ」などと終わってから、いろいろ文句を言われたが、後になれば、よい思い出になると思う。

 商店街では、毎年夏に、阿波踊りが開催される。昨年この物語でも紹介したので、憶えていらっしゃる読者の方もいるだろう。

 3月、店に食事に来られた、阿波踊りの連長会会長に「今年は、子供たちを踊らせたい」と、お話したらご紹介していただき、地元の商店街の連に加わることができた。

 子供踊りだけの参加の場合、練習には、他の方の迷惑にならぬよう、家族の付き添いが必要である。4月、5月、月にして2度3度、練習を重ねていくうちに、僕も何度か付き添った。練習では、連員の方々が、楽しんで気持ちよさそうに踊られている。

 「ヤットサー」という掛け声、「一拍子」のお囃子のリズムが響き、自分のフォームを確認しながら音に合わせひたすら練習する、そんな子供たちの姿を見ていると、僕も自然に体が動いてくる。

 自宅での練習用のCDをお借りした時、僕も連長に、鏡の前で、掛け声をかけるタイミングと踊りの基本を教えていただいた。その姿を見ていた鳴り物の方から、一緒に踊ろうなどと声をかけられた。将来はやってみたいな、などと思ったりもした。

 店について、今回もふれたい。今年の4月は、都知事選挙、そして、区長、区議の2度の選挙があった。その両日とも、近くの小学校の投票所から、お昼にまとまった数のお弁当の注文をいただいた。

 もちろん地元の区議候補者の選挙事務所への配達もしたが、特筆すべきは、区長に見事初立候補で当選された方も、選挙の準備期間中に店に直接来られ、一番大きなかつを、関係者3人ともどもぺろりと召し上がって行かれたことで、印象深かった。他にも店に挨拶に来られ、食事をされた方、すべてが当選されていたのは、うれしいことである。それぞれの方々の今後のご活躍を期待したいと思っている。

 僕が正式に店主になる前の3月までは、店の売上や利益を上げることに加え、思い切った仕入先の変更、新しいメニューや品揃えを増やすことなど、こだわってやってきた。言ってみれば、おやじさんを安心させるための実績作りだったと思う。

 でも世の中デフレの真っ只中である。昔から、同じように商売をやっているが、ここ数年、駅周辺は、チェーン店の低価格の食べ物屋がいっぱいできた。伝え聞く高額な家賃や、その商売の仕方(低価格が魅力で薄利多売)では、個店としての採算より、積極的な出店でそれを穴埋めする状態だろう。本部が儲かるだけで、働いている人はいかにも大変そうに思える。そんな目先の商売でいいのだろうか。

 僕は、そんな世の中に流されまいと、今まで店になかった高額メニューも作ってみた。それは、まるとし定食と名付けた。

 組合せのねらいは、まるとしの揚げ物のほとんどを味わえるようにというもので、ホタテ・エビ・一口ロース・クリームコロッケが各1ヶとカキ・一口ひれかつが各2ヶの盛り合わせ。価格は2,000円とした。休みの日や給料日の支給される時期には、いろいろ思いっきり食べたいというお客様に注文していただける。

 メニューといえば、店内のメニューに載せていない限定メニューがある。それは、アスパラの肉巻きあげやピーマンの肉詰めなどをコロッケなど他のものと組合せにした定食である。アスパラには、にんじん・大葉なども一緒に加える。

 そういえば、最近、カツカレーやかつ重には、ミニサラダもつけるようにしている。肉料理と一緒に、キャベツやパセリなどの野菜もお客様に食べていただきたいからである。

 僕は10年以上も前、まるとしに入るまでは、キャベツは食べられなかった。でも、いつの間にか、食べられるようになった。店には、ドレッシングを2種類テーブルに置くようにしたが、僕と同じように、キャベツを食べるようになったお客様もたくさんいる。

 サイドメニューのもつの煮込みには、お豆腐を切って入れるようにした。いつまでもお客様が健康でいられるような食材を、これからも取り入れていきたいと考えている。

 勉強をすること、スポーツをすること、肉・魚・野菜、いろいろなものをバランスよく食事をすること。そして心身共に元気でいること。慌しい日々が続くが、人それぞれの楽しみを見つけて、心も体も常に健康でありたいと思う。
 

   ● その七 「大きな決断」

 

店を営業していて、季節の移り変わりを感じるのは、のれんの色を変える時、そしてほうじ茶を麦茶に切り替える時である。今年の夏は、天候がはっきりしないことも多く、例年よりそのタイミングは遅かった。 

5月25日、大学院祭の2日目、僕は、実行委員の方から推薦され、パネリストとして、「通信制大学院の将来を考える」というテーマの討論会に参加した。選ばれたのは、1期から4期までの専攻が違う4人で、この春、博士課程に進学された方も含まれる。それぞれの立場を代表しての経験談を語り合った。 

事前に店で、司会の方を中心に、顔合わせと懇親会を兼ねて、全員が集まり、打ち合わせをした。当日は限られた時間の中、他の方とのバランスも考慮して、準備していたことの一部のみをお話させてもらった。パネリストのスピーチは上々と言って下さる方もいらしたので、ほっとした。

この討論会で何よりうれしかったのは、僕が参加すると知って、同期の友人の何人かが、当日わざわざ所沢の会場に足を運んでくださったことである。そのお礼に、後日行なわれた、その友人の勉強会に、台風の真っ只中、仕事を抜けて駆けつけたりした。 

「将来は今の積み重ね、先輩方から続くゼミ・サイバーゼミなどや個人としての学究の成果としての修士論文、サークルや電子マガジンなどの活動・ゼミ仲間などを中心とした人的交流が何より大事ではないか。そして、研究活動は、現代において、専門特化するだけでなく、総合的かつ創造的に進化させ続けていく」今まさに僕自身、実感している考えである。 

この大学院祭は、実行委員の方々はもちろん、発表する側も、積極的なボランティアにより院生側が主体となった手作りものであった。“通心”制大学院を象徴するイベントであったと思う。 

店では、実行委員の広報担当の方から頼まれ、大学院祭の一ヶ月前から店内に、当日の一週間前から店の外にポスターを掲示した。 

そういえば、同時期、個人的には、こちらもご推薦いただいた紀要論文の執筆の締め切り直前でもあり、店はもちろん、日々精一杯、精神的肉体的にきつい日々が続いた。結果は別として、何とか、それぞれをやり抜くことができ、達成感はあった。 

6月、うれしい知らせがあった。妊娠していた義妹に無事赤ちゃんが生まれたのだ。予定日よりひと月も早い吉報だったが、無事退院したばかりのおかみさんにとっても、何よりうれしいことだった。 

赤ちゃんは、2,400g、当初はその体の小ささに、義妹は心配していたが、順調に育っている。妻とのメールのやりとりも、母乳のあげ方に始まり、いろいろな相談が来るようだが、やはり、直接電話で話すことが多くなったように思う。妻は自分の3人の子供を育てるにあたって、母乳はもちろん、ベビーネンネの布オムツ使っていた。 

「母乳で育てているが、体が小さいから、少し飲むとすぐ寝てしまい、ベットに置くと起きてしまう、何も出来ないでひたすら、おっぱいをあげている状態が続いている。」義妹は親になる大変さを身にしみて実感している様子である。 

「お姉ちゃん、よく3人も、しかも布オムツで育てられたよね。」とため息をつく義妹。赤ちゃんが可愛くて仕方がない様子らしいが、「もう1人で十分かも」という言葉。 

「大変、大変で日が過ぎて、笑った、寝返りした、ハイハイした、可愛い可愛いなんて言っているうちに、気がついたら1年経って。その頃、少し楽になったなぁ、もう1人ほしいと自然に思えたら、いいんじゃない。今はまだ始まったばかりだから」と妻は返事をした。 

夏といえば、毎年7月末恒例、店の商店街で行なわれる、きたまち阿波踊りが開催された。今年は初めて子供たちが地元の商店街の「じゃじゃ馬連」に参加した。 

「じゃじゃ馬連」は、「ダイナミックな男踊り」「華麗な女踊り」「元気よく跳びはねる子供踊り」「息の合った鳴り物」で構成され、踊る方々のその踊りに対するひたむきさや誠実さがその技に現れ、観ている方々の心を惹きつける。 

ありがたいことに、今年も、本番一ヶ月前の連長会議では、通常のメニューにはないが、カツサンドを35人前、夜食として注文をいただきお持ちした。大事な会議なので、近くのパン屋さんに、すぐ売れ切れてしまうという厚切りのパンを予約し取り寄せ、パンにはさむ肉は、通常の倍以上時間をかけ、十分な下ごしらえをした。 

もちろん、店では、この時期、商店街には、提灯の列がきれいに並ぶが、その取り外しの作業があった。汗だくになったスタッフの方々が食事に来られ、今年の阿波踊りも無事終わったなぁと思った。

阿波踊りの練習には、僕や妻、そしておやじさんやおかみさんが、交替で付き添った。長女は、年上であり、動きについていきやすく、すぐ踊りが好きになった。次女はマイペース、基本的に小学生以上が対象であり、幼稚園に通い始めたばかりの三女は、連長の厚意で練習を許可された。やはり、当初歩幅の違いから、なかなかついていくことができなかった。 

回数を重ねるごとに、親子共々、いろいろな方と顔見知りになる。子供同士も自然と仲良くなり、踊りが楽しくなる下地ができる。それに、姉妹同士の絆にも支えられ、三女は、諦めず、練習をやり抜いた。 

それを見守る僕たち親は、具体的には、半休や仕事の合間に、練習に連れて行くことで、大忙し。でも、子供たちが踊りを楽しんくれていたので、張合いはあった。

そして、阿波踊りの日がやってきた。前日は激しい雨、心配していた当日の天気は、曇。あまり暑すぎても、踊り手にとっては厳しいことになるので、絶好の舞台が整ったのである。 

妻がはっぴを着て、子供たちに付き添うので、店は、昼間仕事をしてくれているお姉さんに、この日ばかりは、昼夜通して働いてもらった。僕は厨房に立ち料理を作り、出前はおやじさんが担当。退院後、無理のない事務の仕事に専念していたおかみさんも、この日だけは、洗い物をしてもらった。 

日暮れと共に、段々と盛り上がってくる雰囲気に、鳥肌が立った。上の2人はニコニコ顔で元気に踊ったが、三女は恥ずかしがり屋なので、終始真剣顔。妻の話によると、道で観戦している方々から口々に、「頑張って」「可愛い」などとかかる声援に、踊る側のエネルギーになると実感したそうだ。 

2時間踊り続け、戻ってきた子供たちに、常連のお客様から、アイスの差し入れがあった。例年通り店は忙しく、皆が力を合わせて、その役割をこなした。でも、この日ばかりは、子供たちが主役であった。

8月に入ると、僕は科目等履修生として、人間科学のスクーリングに参加した。2年前の暑さに比べれば、今年は通いやすかった。参加したスクーリングを一言で表現するなら、3日間通して講義いただいた佐々木健先生のお話には、心に残る言葉がいくつもあった。

人間科学のスクーリングでは、各授業の前に数名、在籍番号順に、自己紹介をすることになっている。僕は、その誰もが、それぞれの立場に対して、尊敬できる志を持っていることに、改めて気付かされた。自分の原点に帰る気持ちであった。一期一会、僕もその姿勢を見習いたい。 

三女の幼稚園では、それぞれのクラスでモルモットやうさぎなどを飼っている。夏休み、希望者には、幼稚園からその動物を短い期間預かることができる。三女のお気に入りは、うさぎのクロピー。 

幼稚園には、店でキャベツを切るときに余る葉を、頻繁に持っていき、喜ばれた。適材適所、リサイクルは、身近なところから生まれる。

7月に今年も新しく作った配達メニューには、店で評判になった新メニューも加え、以前お話した通り、フリーダイヤルの電話番号を加えた。配り始めると、反響は上々である。ご注文、ご来店いただけるお客様に、感謝の日々である。 

店では、去年同様、今年もお盆休みは取らなかった。商店街では、この時期、一斉に店が休みになることが多い。その中で「店の明かりは消さない。それと、商売というものは、お客様がお休みの時こそ商いをすべきではないか。」そんな心意気で営業した。

店の変革も一段落したことで、僕も次のステップに入ろうと考えていた。待ちの姿勢ではなく、新たなお客様を迎えるために。そのためには、対外的に、店の紹介をすべきではないか。 

商店街には簡単なホームページがあるが、今回は、僕自身が主体的に動くことで新たなホームページを作ることにした。 

自分で全部こだわって作ることも考えた。ただやるからには、ある程度、客観的な意見も取り入れる必要がある。いろいろ調べたが、最終的には、タイミングよくお話をいただいた、東京ウォーカーのグルメサイトに店のホームページを掲載していただくことに決めた。

取材は7月。もちろん担当の方に、料理をしっかりお食べいただき、店の話を十分した。そして、先日完成したばかりである。読者の方々でご興味のある方は、ご覧下さい。

http://www.marutoshi.tokyo.walkerplus.com 

広告にも掲載することにした。店の沿線周辺での無料配布雑誌、スケイルデザインズの月刊「タイル」がある。僕の店もその雑誌の配布場所として、6月の創刊号から置いている。創刊間もない雑誌である。こちらは、3ヶ月連続、さりげない広告をお願いした。

このような新しい対外的な動きは、今までなかったことでもあり、その反響のほどは、自分でも楽しみにしている。それ以外にも、商店街の理事長から、理事になってもらいたいとお話をいただいた。 

おやじさんは、商店街のイベント等の協力は惜しまなかったが、店に専念していた。僕は今の不況が長引く時代、店に専念することも大事だが、店からもう一歩踏み出すことも、自分の出来る範囲で必要ではないかと考え、お受けすることにした。 

そして、最後にもう1つ、大きな決断がある。妻の実家、つまりおやじさんの家を増改築して同居すること。もう1年前から、具体的には話を進めている。年内には、取り掛かることになっている。僕が妻と結婚式を挙げてから10年。私生活でも、店でも、いろいろな動きがある。難しいことにも、諦めず、地道に日々を過ごしていくことにした。 

この物語は、研究科の電子ブックとして初めてここで1つの形となります。今まで数々のご協力をいただいた電子マガジン実務担当者の方々、ご声援を頂戴した多くの読者の方々、本当にありがとうございました。また、お会いしましょう!その時まで、お元気で。