フランクフルト学派第2世代に属するハーバーマスの講演・論考をまとめた本です。
時期的には、1980年から90年代初めまでの8編がまとめられています。哲学的省察については、標題となっている「近代 未完のプロジェクト」だけで、他は、移民問題や東ドイツ統合問題など時事的な問題を扱った論考が収められています。
フランクフルト学派とは、フランクフルト大学社会研究所を中心とした研究者集団ですが、ハーバーマスはその中心的人物です。学派といっても、ヘーゲル左派的な土壌を共有している以外は、特色ある思想家の群像と言った趣があります。
私は、人間を分類したり、レッテルを貼るのが苦手なのですが、ハーバーマスがドイツ社会民主党の精神的支柱の一人であることは、よく知られていることなので、ハーバーマスの政治的スタンスはこれで推測ください。思想家がもたらす影響力と言うのは我が国では絶えて久しいことなので、見当がつかないことと思われます。余談ですが、先ごろフランスの哲学者ジャック・デリダが亡くなった際は、シラク大統領が弔辞を寄せました。西欧の文化的底力、アメリカやロシアとも違う知性の伝統の厚みは素晴らしいものだと思います。
さて本稿では、標題の講演録についてご紹介したいと思います。
近代(モデルネ)というものを、どう把握し、評価するか、ということについては、1970年代から盛んな論争があります。古くは、マックス・ウェーバーが今世紀初頭、ニューヨークの摩天楼を眺めた際、妻マリアンネに向かって「これが近代だよ」と皮肉なコメントを述べた時にまで遡るかもしれませんが、人間を記号化し、計算可能な存在として規定しようとするメカニズムに抵抗を唱える声は、近代が様々な側面で、行き着くところまで行き着くに従って盛んになってきました。
もちろん、近代は、人間を迷信と隷従から解放してきた輝かしい理性の時代であるわけで、現代における「良心」の拠り所を提供しています。地上の悲惨はとうてい解決しておらず、人権宣言の精神はいたるところで踏みにじられています。
ということなので、問題は単純ではありません。個々人の中にも、近代の恩恵に感謝する側面と近代の負性を忌む心情が同居しているのではないでしょうか?
この講演は、1980年にフランクフルト市からアドルノ賞を授与された際の記念講演で、70年代からフランスを発信地にして高まってきた近代批判の思潮に対して、近代擁護の論陣を張った歴史的講演として知られています。一読をお奨めします。
講演の冒頭で、フランスの現代思潮を念頭におきつつ、近代批判とは新しい保守主義であると規定します。
次に芸術・文化論に転じ、彼の言う「新保守主義」から突きつけられている批判を、留保つきで認めながらも、経済的・行政的合理性にのっとった一面的な合理化が自然に則した生活領域に闖入してきたからだ、と切り返し、本題に入ります。
シュルレアリスムに象徴されるアヴァンギャルド的な文化止揚の試みを評価しつつ、反抗的な力を賞賛するだけでは駄目なので、社会の(良き)近代化には、別のコースがありえるのだと提起します。
そして、論争提起の核心に入ります。70年代から広まった近代批判の主要な思潮に矛先を向けます」。1つは、ニーチェを再生させたフランス現代思潮(反近代主義)、2つめは近代を嫌悪する伝統回帰の思想(前近代主義)、3つめは彼の言う「新保守主義」。つまりテクノロジー擁護の思潮(後=近代主義)。特に、市民運動の中に、「反近代主義」や「前近代主義」が浸透していることに苦言を呈します。
講演の趣旨としては、彼の言う「リベラルな精神」、「リベラルな公共圏」は人倫の根底であり、それは「啓蒙というプロジェクト」を守っていくことによって辛うじて担われる、ということになりましょう。
この講演と前後して、フランスの現代思潮(ポスト構造主義、ポストモダニスム)との論争が展開されているのですが、それについては以前の書評で若干触れましたので詳しくはのべません。ポストモダニスム系の思想家に、伝統回帰というか伝統擁護、あるいは西洋文明批判の側面があるのは確かです。例えば、フーコーはイラン革命への共鳴を隠しませんでした。しかしこれらは、一度壊した伝統的価値や合理性で割り切れない精神を擁護する視点の発露とでもいうべきもので、ポストモダニスム系の思潮は保守主義とは必ずしも一致しません(我が国においては、そうでもないようですが)。むしろ、移民排斥問題への関与など、人倫の擁護という点では、ポストモダニスム系の思想家とハーバーマスは共闘しています。
それゆえ、今となっては、思想的な論点以外には、彼が「反近代主義」と痛罵したポストモダニスムとの政治上の乖離はないのかもしれません。急速なグローバリズム(拡大アメリカニズム)への批判的姿勢も共通しています。
個人的には、フランクフルト学派とフランス現代思潮との乖離に残された最大の論点は、ニーチェに発する近代批判の流れをどう評価するかということだと思います。
ところが、ドイツの知識人にとってはこれが暗黙のタブーであるのは、ナチズムがニーチェの思想を利用した歴史があるからでしょうか。フランスの知識人は、この「縛り」からは自由なので、ニーチェの思想を現代的に再生する、つまり人類史的な射程で汲み出すことができるのだと思います。
講演録でハーバーマスが「70年代に再生されたニーチェの精神」と言うのは、1972年に「ニーチェは、今日?」というテーマで開催された討論会のことを指すと思われますが、ここに集った顔ぶれは、クロソウスキー、リオタール、ドゥルーズ、デリダと言った錚々たる顔ぶれで、ここにフーコーがいたならば、役者総動員という観のある集いでした。ちくま学芸文庫から2002年に概要版が刊行されています。瑞々しい息吹が感じられます。
結びとして、本講演録の意義を私なりにまとめてみたいと思います。第1には、現実の社会問題への関わりとしては、ハーバーマスの視点が有効であること。と、言うよりは、彼が懸命に守ろうとした「啓蒙のプロジェクト」しかありえないこと。ポストモダニスムは、人間の身体性や感性(欲望も含めて)を擁護しますが、地上の悲惨に対して有効なグランド・デザインを提示するわけではありません。いかに存在根拠を疑われようとも、人権宣言に結実した精神は、仮に、経験的有効性であって「真理」ではないとしても、地上を照らす光であると思います。第2に、文明が「支配」の対象であった自然だけでなく、人間についても数量化を極限にまで進めてきたことから引き起こされた人倫への侵害については、ハーバーマスは早くから生活領域の防衛という戦略を提起してきました。そして、現実の侵害への歯止めをかける方策は「対抗政策」しかありえません。例えばですが、生活権という言葉が有効な権利として認証・確立されることを望んでやみません。
しかしながら、国家から政策的に保証される「生活権」なるものの堅牢さに強い疑いをもってしまうのは、私がポストモダニスムにのめりこみ過ぎたせいなのかしらん・・・。
お読みいただきありがとうございました。
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