国際情報専攻  増子 保志
 

    「知識人不在の総合雑誌」

       

   


 
「知識人って何だろう?」エドワード・W・サィードは、知識人を「公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表象=代弁し肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人」[1]と定義している。

 戦後の総合雑誌において論壇を形成してきたのが、司馬遼太郎や小林秀雄ら重厚な「知識人」達であった。

 今日、メディアの現場が「知識人」に期待するのは、@メディア自身の主張に説得力を与えるための「補強材料」A読者の信頼性を高めるためにとりあえず掲載しておく「権威づけ」B「読み物」としての面白さCニュース性がある知識人本人についての「特ダネ」情報だという。[2]そう現在の「知識人」は“軽く”なくちゃだめなのだ。

 サィードのいう「知識人」が見当たらない今日、“重厚”な「知識人」の論調を売り物にしてきた総合雑誌の前途は暗い。“軽い”知識人の“週刊誌に毛が生えたような総合雑誌”はいらない。


 

[1] E・W・サィード『知識人とは何か』大橋洋一訳、平凡社、1995年、37頁。

[2] 大井浩一『メディアは知識人をどう使ったか』勁草書房、2004年、4頁。