連載「裏方物語」  6

 

         「ハリツケ」                                                                    

                                          国際情報専攻 5期生  寺井 融

                                                                                      

 

 

 

 


 選挙といえば、政党にとって最大のイベントである。民社党では、党本部詰めと現地派遣とにスタッフを分けていた。派遣組は、国政選挙ともなると、現地勤務が何ヶ月にもわたるので、“ハリツケ”と言われていた。

 あるとき本部に、「○○さん、お願いします?」と電話があった。電話交換手が「ハイ、彼はハリツケです」と答えたところ、「エッ!」と絶句されたそうである。 

 

 広報担当が長かった当方は、本部詰めが多かった。それでも4回、そのハリツケを経験している。

 

第1回目は、党本部に入りたての昭和46(1971)年のことである。学生時代から党活動をしていた東京・豊島区の区議選であった。新人のT候補支援のため、後輩たちと学生ボランティア隊を作った。泊り込みのため、部屋も確保する。食事は、候補者宅で、奥さんの手料理であった。幼子が走る中、納豆とご飯とみそ汁といったシンプルな朝食がうまかった。

 

3ヶ月前から、選挙準備に本腰を入れていたので、本来、都議選以上であったハリツケを、本部は特例として認めてくれた。事務長を務め、見事高位当選させる。候補者、後援会長に続いて、私の胴上げもあった。23歳であった。

 

 第2回目は、それから8年経っている。大学の先輩のYさんが練馬の区議選に出馬することになった。明日から選挙スタートという日、選挙事務所を訪れた。運動員が数人しかおらず、翌日の宣伝カーの運転手も決まっていない。

 

候補者と票読みをすると、彼は「この前の都議会の補選に出馬して、8000票を獲得した。1万を越える名簿もある。機関紙号外の投げ入れもやった。少なくても、4000票は取れる」と豪語する。当方は「選挙が違う。候補者の数も、票に対する締め付けも、まるで違う。前回の票はあてにならない。何よりも、運動員がいないじゃないですか」と主張した。

 

10票出してくれる人は誰と誰、5票は誰と誰というふうに、顔が見える形で、票読みをやり直してみましょう」といって、計算をしてみると、最小で450票、最大で600票しか読めない。当選ラインは2400票ぐらいだから、公党の公認候補としては、異常な少なさとなる。供託金も没収される。

 

その指摘に、候補者もさすが蒼くなりましたね。「大学の同窓会名簿で、手紙を出そう」と言い出した。「それは違反です。区議選には、同じ大学から何人も出ているではないですか。効果も薄いし、金もかかる」と反論した。「文書違反なんか、たいしたことがないよ」という候補者に、「私が全面的に応援 しますから」とあきらめさせた。

 

すぐさま党本部に電話し、自らハリツケ志願する。「党の名誉がかかっているから」と説得し、またもや特例が認められて、2回目の事務長となった。

 

つてをたどってお金のかからない運動員を集め、個人演説会も企画する。佐々木良作委員長の日程担当のSさんに「とにかく助けてほしい」と泣きを入れた。Sさんは「寺井が苦労しているから」と委員長を口説いてくれた。弁士に招くことに成功する(区議選レベルでの党首投入は、きわめて異例である)。佐々木委員長がくるからと、二つの団体に動員と、あと100票の積み増しもお願いした。

 

運動員として、党本部から若手のK君も派遣されてきた。その彼は、賄いの小母さんたちから「候補者がKさんのほうが良かったのに…。練馬に移っていらっしゃい」と言われ、後に板橋から練馬に転居した。可愛げがあったのであろう、後ほど衆議院議員となり、現在は民主党の中堅幹部の一人となっている。

 

 肝心の選挙結果は、約1200票。もちろん落選ではあったが、供託金の没収とはならず、政党公認候補として、本人と党の名誉は保てた。

 

 さて、Y先輩である。選挙で当方が印刷会社に保証した63万円のチラシ代が、払えなくなった。ガードマンをしながら、毎月2万円、銀行振り込みで返した。3年経ったある日、池袋の小料理屋に呼ばれ、「おかげさまで、返すことができました」と御礼を言われた。先輩は、後に隣の保谷市議を1期務めた。

 

 第3回目は、平成元199年の参議院選挙である。東京選挙区の候補者の成り手がなかなか見つからず、5月になって党本部の女性職員・江戸妙子嬢に白羽の矢が立った。若く30歳)、独身であったことと、才色兼備で明るい姉御肌。後輩に慕われていたことによる。当時の永末英一委員長が、候補者の父君に挨拶に行ったところ、「うちの娘でいいんですか。親としては、候補者になるより、早く結婚して欲しいんですがねぇ…」と言われたそうだ。

 

 参謀となって、さぁ、どうするか。残り3ヶ月を切っている。イメージ作戦で行くしかない。ポスターは、ニュースキャスターふうに仕立てあげようと思い、スタジオではなく、雑然とした党本部オフィスをバックに写真を撮った。ポスターにつけるコピーは単純明快に「東京は江戸」と決めた。エスカルゴ型の小型車を宣伝カーにし、随行者を、ピザパイを配達するような三輪オートバイで走らせることにした。候補者も運動員も若い女性たちでかためた。一部マスコミで話題となった。

 

 結果は約20万票。当選者の約3分の1であったが、狙い通り、比例区票の上積みにつながり、満足の行くものであった。彼女はその後、党本部にいたO君と職場結婚した。いまは1男2女の子持ちである。

 第4回目はそれから3年後の参院選で、あの永遠の青春スター・森田健作候補の参謀となったのだが、面白い話が多過ぎるので、次の機会にする。(つづく)