国際情報専攻 5期生 渋倉 慶二
日本のお隣に目を向けると、韓国や台湾(ここでは、中国大陸本土と台湾を区別して書きます)でも野球は盛んであり、オリンピックアジア予選など国際大会では、日本、韓国、台湾は実力が伯仲し、しばしば接戦になります。しかし、ここ中国ではみなさんもご存知のとおり、野球は盛んではありません。私が所属している黒龍江大学の学内を見回すと、学生がもっとも好んで遊んでいるのはバスケットボールで、あとはサッカーやバドミントン、卓球などで、野球の「や」の字もありません。大学内で見られないのも当然の話で、私の知る限り黒龍江省で野球をやっているところはないようで、中国の東北三省では大連、瀋陽、長春に野球チームがあるようです。まわりの中国人のほとんどは、野球(中国語で「棒球」)というスポーツがあるということは知っていますが、それがどんなスポーツかを知りません。そのうち、ごく少数の人がテレビで野球を見たことがあるということです。 このように、野球については後進国である中国ですが、2008年の北京オリンピックを4年後に控えている現在、中国野球を取り巻く環境が変わりつつあります。将来野球大国に生まれ変わる可能性を秘めている中国の「棒球」事情をレポートします。
中国「棒球」小史 中国に野球が持ち込まれるのに大きな役割を果たしたのは、19世紀末アメリカから渡って来た宣教師をはじめ、日本やアメリカに留学した学生でした。当時、北京、天津、上海、広州などのキリスト教系学校では野球が体育の授業のなかで行われました。1895年には北京彙文書院に野球部が創設され、1907年には同校と通州協和書院による中国で最初の野球の試合が行われました。1913年から日本、中国、フィリピンの3国によって開催された「極東スポーツ大会」においては、中国は幾度も野球の種目に代表チームを派遣しています。1949年の新中国成立以前、野球がもっとも盛んに行われていたのが人民解放軍です。チームプレイを重んじる野球が軍事訓練に向いていたこと及び、手榴弾を投げる練習にも適していたからだそうです。 1950年代初め、人民解放軍がソ連式の訓練を採用したことで、アメリカ文化の象徴である野球は軍隊から消えることになりますが、1959年の第1回全国スポーツ大会には野球が正式種目とされ、現在より多い21の省代表チームが参加しました。しかし、1960年前後の自然災害等による食糧危機、1966年から1976年までの文化大革命の初期にあらゆるスポーツ活動が中止され、中国の野球にとって空白の時期ができることになります。 その後、1972年の日、米との国交正常化後、政府の呼びかけで野球が再開されます。1975年にはアメリカとの野球交流が始まり、1979年には千葉県の少年野球チームが初訪中しています。それまで中国の野球チームと言えば、学生や軍隊、成年のチームでしたが、文革後はじめて少年野球チームができます。ケ小平がサッカー関係者に語った「子供から重視しよう」というスローガンを受けて、1981年には「第1回野球訓練活動会議」が開催されるなど、野球界も少年野球に力を入れ始めました。2002年には中国初のプロ野球リーグである中国野球リーグ(CBL)が誕生し、現在北京タイガース、天津ライオンズ、上海イーグルス、広東レパードの4チームで構成されています。 ※中国野球協会のサイト(中国語)などを参照しました。http://baseball.sport.org.cn
中国のプロ野球リーグが誕生 中国野球リーグ(CBL)は2002年に誕生し、1年目の2002年には天津タイガース、2003年は北京ライオンズ、3年目の今年は北京ライオンズが連覇を成し遂げました。ペナントレースで各チームが年間36試合を行い、その上位2チームが5回戦の優勝決定戦を行い、優勝チームを決めます。4月から7月上旬にかけて、年間のすべての試合予定は消化されますが、中でも、5月15日は「棒球の日」と定められ、翌5月16日には日本と同様のスター選手を集めたオールスター戦が開催されました。今年は元日本のプロ野球選手1名を含む2名の日本人選手が中国野球リーグでプレイしており、日本人としての彼らの活躍を見るのも楽しみのひとつです。その他の外国人助っ人としては、アメリカから1名、韓国から1名、ドミニカから2名が登録しています。 肝心の実力のほうはいかがかというと、天津の球場に天津対北京の試合を1試合だけ見てきたのですが、私のまったく根拠のない見方では、日本の高校野球甲子園大会のベスト4からベスト8ぐらいの実力ではないかと感じました。日本のプロ野球と比較すると、やはり実力の差は否めませんが、中国野球リーグの実力についてはそれほど期待していなかったので、予想以上にうまいなと感じました。選手の投げ方や打ち方などを見ていると、アメリカやキューバの選手のように個性的でクセがあるわけでなく、日本、韓国、台湾の選手のようにわりと均一的で、どの選手も同じような動きをしている印象を受けました。 天津ライオンズのホームグラウンドである道奇球場は、天津の市街地から車で20分ほど、天津体育学院の隣にあります。私が球場にタクシーで向かう際、4、5台のタクシーの運転手に聞いたのですが、この球場の存在を知っている者はいませんでした。プロ野球チームをもつ都市ですが、まだまだ地元住民には浸透していないという印象を受けました。道奇球場は観客席にシートはなく、コンクリートの打ちっ放しが階段状になっており、観客はみんなそこに新聞紙を敷き、座って観戦していました。その日は休日でしたが、150人ほどの観客が入っていたと思います。日本と同様、ここにもビールを飲みながら楽しそうにヤジをとばす中年の男性がいて、日本の球場を思い出しました。客層は半分ほどは野球をやっていそうな15歳から20歳ほどの青年で、球場隣の天津体育学院の野球部の学生も多かったです。 試合のほうは投手戦となりましたが、8回に天津が勝ち越し、9回押さえの切り札であるアメリカ人サウスポーが3人で北京の攻撃を抑え、2対1で天津が勝利しました。
すそ野拡大のために 中国が北京オリンピックに向けた野球強化策として、プロリーグの創設とともに力を入れ始めたのが、少年野球の指導をとおした中国野球のすそ野拡大です。日本語総合月刊誌『人民中国』2003年7月号では、山東省から北京に野球留学している小学生を特集しています。現在中国には20ほどの都市に少年野球チームがあるそうです。特集で紹介された子供たちは山東省済南市からよりよい野球環境を求めて北京の名門野球小学校に留学してきた小学4年から6年の野球少年17人とソフトボール少女4人です。この少年少女は親元を離れて小学校の寄宿舎に住みながら、朝6時30分からの朝練習に始まり、放課後の練習、土日も練習と野球漬けの生活を送っています。 このような子供たちが生まれた背景には中国野球協会の「野球すそ野拡大策」があります。2002年にプロリーグが誕生し、子供たちが野球を生で見る機会が生まれたわけですが、2003年からはさらにプロ選手が子供たちを直接指導する野球クリニックが始まりました。これは、プロリーグの試合後、数十分前まで自分の目の前でプレイしていたプロ選手が、手取り足取り子供たちに野球の基本を教えるというものです。あこがれのプロ選手に直接指導を受けることは、子供たちにとってたまらなく魅力的な機会となります。このほか、中国野球協会では毎年小中高校の各年齢層の全国野球大会を主催していますが、広大な中国では遠征費などの関係で地方のチームが参加できないという問題があるため、今後大会以外に各地でサマーキャンプを開くということも検討中だそうです。中国野球協会秘書長の申偉さんは「野球選手の育成周期は、他のスポーツに比べてずっと長く、すぐに良い成績を挙げようとするのは現実的ではありません」が「2008年の北京五輪までには、まだ5年(2003年当時)ありますから、個人的には、将来を楽観しています」と語っています。北京オリンピックが少なくとも中国で野球が普及する大きなきっかけとなることは確かなようです。
「天津道奇球場」
「声援を送る観客席」
「敗戦後監督の話を聞く北京タイガースの選手たち」
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