多重言語とタクシードライバー

                                文化情報専攻 6期生 外村佳代子

   


 
数日前からアテネオリンピックが始まった。開会式の斬新かつ国色あふるる演出に、思わずため息が出た。さすが人類の歴史に深甚な影響を与えたギリシアである。参加国は未曾有の202カ国。競技種目は300を越える。日本人選手団の最年少15歳の選手は、会場に掲げられた国旗の数に驚いたという。彼女の知る国旗の数は運動会のディスプレイに使われるあの連なったものでしかなかったという。 とはいえ、202カ国の参加国のうちすべての国名と位置を正確に答えられた方は何人おられるだろうか?聞いたことも見たこともない国旗や国名がいくつかあったのではないだろうか?私も辞書を片手に地理や民族、言語等を調べながら遠い異国に思いをはせていた。1つの国名が読み上げられ、次の国名が読み上げられるまでが私の持ち時間である。耳慣れない国名の選手団は少なく、国名を検索している間に次の国が読み上げられてしまう。結局確かな情報を入手できぬまま次に行ってしまうのだが、ふと、彼らの国々はこうして通り過ぎられてしまうのかもしれないと胸中をよぎる。私よりはるかに国名を知っていた息子は「持ち時間と経済は比例する」と言った。

ロンドンでタクシー(ブラックキャブ)に乗った。イギリスのどこでタクシーを拾ってもイギリス人ドライバーに当たる確率は低い。国籍と人種、パスポートに記載されている国名が違う話は電子マガジンの16号で書いた。この日の彼も視覚的にも聴覚的にもイギリスで生まれ育っていないことは明白だった。 彼に行き先を告げると、ルームミラー越しに目が合った。「あんた観光客じゃないね。しかも日本人だ」聞き取りにくい音だった。 タクシーに乗車の際ドライバーと会話をするのは好きじゃない。日本にいたときからだが、日本人は答えの感じでその意思を汲み取ってくれる。だが、外国で乗るタクシーにはその呼吸は伝わらない。 

イタリア人ドライバーは陽気なのはいいがしゃべりっぱなしで中には頼んでもいないのにカンツォーネを披露してくれる。大体が下手。スペイン人の英語は私のもっとも苦手な英語のひとつ。Rが強すぎて聞き取りにくい。フランス人は頼んでもいないのに観光案内を始める。中国では具体的に道順を支持しなければ遠回りをしながらにわか日本語教師をさせられる。ドイツ人は戦争の話が好きだ。先日もどこかでランチを。と頼んだらドライバーの集まる店に連れて行かれ2時間もの間10人以上のドイツ人相手に真珠湾で盛り上がった。代金は要らないわが同士よ!というのでランチ代もタクシー代も払わなかった。

 ブラックキャブの彼にも社交辞令で聞いてみた。「どこから来たの」 「*π□%#」 「えっ?」 「*π□%#」もう一度聞き返したが、4回目はやめた。黙った私にスペルで答えたが、やはり聞き取れなかった。もし聞き取れていてもおそらく、そんな国があったんだ。という顔は隠し切れなかったと思う。

 ロンドンは世界でも有数のコスモポリタン都市である。植民地政策を解除しつつあるとはいえ英国連邦とされている国は50以上にのぼり、また海外からの企業の進出も目覚しく7人に一人が外国人であるという。スーツにブリーフケースを持ったビジネスマンも多く見かけるが、それより目に付くのは道路の清掃員、ファーストフード店の店員、家族で営むミルクショップ(ニュースサージェント)、移動販売のケバブ屋、24時間営業のガソリンスタンド。また深夜の救急病院の医師や職員も一目でイギリス人でないことがわかる。

 ビッグバンを成功させた国イギリスの、もうひとつの顔である。

 多重民族すなわち、多重言語となる社会の問題点は、コミュニケーション不足から生ずるトラブルである。意思の伝達が難しい、正当な評価が受けられない、希望職種に就けない、またその意識は差別にまで広がっていく。

 ロンドンの公立小学校通う子供達、85万人に対して調査が行われた。家庭で話されている言語を調べた結果、67.86%が英語。それ以外は実に307種類の言語で話されているのだ。その結果は以下のようになる。よく使われている言語上位7位までは簡単な説明をつけてみた。

 

1位 英語     67.86%(しかしこれにはアメリカ、オーストラリア、カナダ他の英語圏
も含まれている
)

2位 Bengal    4.51% ベンガル語はインド亜大陸の東にあるバングラディシュ北西部のパキスタンの国語である。

3位 Panjabi   3.32% パンジャブ語はパキスタンとインド北西部の公用語。インドヨ
ーロッパ語族のインドアーリア語派に属す。シーク教徒との関係が深い。

4位 Gajarati  3.19% インド西部のグジャラト州の公用語。

5位 Hindi     2.91% インド最大の公用語。サンスクリットの影響を受けていることでも有名。

    ちなみにインド語と呼ばれるインドで使用されている言語は実に1600種に上る。

6位 Turkish  1,74% トルコ共和国で使用されている言語で、アラビア語、ペルシャ語の影響を強く受け、アルタイ語族のチェルク語派に属する。

7位 Arabic   1.23% アラビア半島、イラク、シリア、北アフリカにかけ約20カ国で使用されている。コーランに基礎を置き公式語として用いられていることからイランやパキスタン、東西アフリカにも広がっている。

 以下

8位 English-based Creoles         16  Spanish               

9位 Yoruba                         17 Tamil

10位 Somali                          18  Farsi

11  Cantonese                       19  Italian

12  Greek                          20  Vietnamese

13  Akan                      21  Igbo 

14  Portuguese                         22  French-based Creoles         

15  French                               23  Tagalog

                             以下略   


 
となっている。このデータは2002年度のロンドン教育委員会から監修発行されたものをベースにしているが、イギリスがEUに加盟し、今年5月に中・東欧5カ国、バルト3カ国、地中海2カ国が加盟し25カ国という大所帯になったいまではかなり古いデータになるはずである。当然新しいデータを、と確認を取ったが、毎日変わる人口動態に対応が追いついていない、次回の発行時期は未定という答えが返ってきた。

EU圏内では本来、加盟国の国民は城内を自由に移動して労働することが出来る。だが、高賃金での就労と、整った社会保障を求めてイギリスに移動してくる人たちに対する国民の反発は強い。政府は50万人の就労ポストがあると発表しているがその職種や賃金、保障、機会が英国民と同等であるとは私には思えない。(それほどのポストがあるのになぜ 3%近い失業率なのか?)

 トニーブレア首相の選挙公約の中に、就任2〜3年の間にはEMU加盟を果たすと公約があった。国内世論の感心がイラク問題で忙しい時期に其の問題を再燃(一部の指定箇所にのみ限定使用可)。今更という国民の声をよそに彼の声明は、EUの中でリーダー国として質実ともにイニシアチブをとるというもの。当然各国からの反発は生半可なものではない。現在、加盟をしているがユーロマネーは使えないし、留学生に対しても就労に対しても、社会保障に対しても、さらにレジデンシャルに対してもかなり高いハードルを設けている。リーダー国どころか、実際受け入れる気があるのかないのか、怪しいところである。

 タクシー(ブラックキャブ)の中は馴染みの無いニオイが染み付いていた。彼のつけているコロンのせいか、芳香剤のニオイか?それともカーシャンプーのニオイだったかもしれない。なぜここにいるのか聞いてみた。「子供の教育のためさ」とりあえず聞いては見たもののその答えはどうでもよかった。ミラー越しにこちらを見ているのはわかっていたが私は外の闇を見たまま目を合わせなかった。彼は続けた。「その為なら、俺はイギリス人の靴の紐だって結ぶよ」 それから彼は何も言わなくなった。話しかけられるのは好きではないが、なぜかその沈黙が妙に重たく、目的地のヴィクトリア駅ではなくだいぶ手前のソーホーあたりで降りることにした。ずらりと並ぶ高級ブランドショップは、昼間押し寄せた観光客とセレブな客たちで疲れた体を休めていた。少し大目の料金を渡すと彼は有難う、とは言わずにCheer UP!と言った。 彼がどこまで見抜いていたかは判らない。その日の私は、子供の次の学校選びで校長先生と面接の約束を取り付け出向いた。校長がいることはわかっていたが、応対に出たのはその秘書だった。アジア人は受け入れません。その言葉に一日中不機嫌だった。

 多重民族、多重言語を必然的に受け入れなければならない公立校と、あくまでも古きよき伝統を守り告ぎたいトラディッショナルイングリッシュな名門パブリックスクール。イギリスの階級制度やトラバリズムの増長を公然と認める社会構造に、疑問を持たずにはいられないが、(ドライバー)のように生きることに明確な意味を持つ人間のほうがはるかに強いと思った。

 

[参考文献]

Lyovin,D    Introduction to the language of the World

高津春繁    比較言語学入門

風間喜代三  印欧語の故郷を探る 

News Digest(2003)