車社会の「非社会性」                                    

        −ヘーゲルの『市民社会論』から現在のモータリゼーションを考える―

 

                                                                          人間科学専攻5期生   小林敦子

   

あなたはクルマ派?それとも電車派?

自家用車は便利である。電車に比べそのものの走行速度は劣るものの、電車のように乗り換えの時間は要らないし、比較的最短距離に近いルートを辿れるので、電車よりも早く目的地に着くこともある。出発時刻を気にする必要もない。自分で運転しなければならないが、たくさんの荷物を持っていてもトランクに積んでしまえば身軽に動ける。道路の構造も歩行者や自転車よりは、幸か不幸かおしなべて車の側に便利にできている。だから、人々が自家用車を持ち、気軽に目的地への移動に用いるのはごく自然なことである。

しかしながら、人々の自家用車の利用について、最近あることに気が付いた。それは、利便性だけで果たして説明ができるものだろうか。

私の周囲では、自家用車が生活の足として頻繁に使われている。しかし、その利用のし方は、目的地への移動手段として、公共交通機関と自家用車のメリット、デメリットを検討したうえで、最も合理的な選択を行った結果とは思えないものが多い。

例えば、電車であれば決まった時刻に到着できるのにも拘わらず、電車よりも多くの時間をかけて、時にはいつ解消するとも判らない渋滞にはまりながらも、自家用車で移動する。その結果、飛行機の搭乗時刻に遅れそうになったとしても、今後移動手段を改めようといった反省は起こらない。ほんの数十メートルの距離でも、車で移動するようなこともよく見受けられる。身体の不調や、荷物が多いという状況でなかったとしても。これらは、自家用車の利便性のみで、説明がつくことではないだろう。

 

クルマには部屋着で

それでは、自家用車の過剰な利用に、どんな理由が存在するのだろう。私は、このことを考えるとき、あることに気付かされる。それは、人々の服装の違いである。

大型駐車場を備えた郊外の大型店での買い物客には、スウェット・スーツ、トレーニング・ウェア、サンダル履きといった、部屋着の延長上のようなラフな服装が多い。一方、駅に降り立つ人に、このような服装は皆無である。即ち、自家用車を頻繁に利用する人は「部屋着」感覚の服装を、電車を利用して出歩く人は「外出着」を身に着けているといえる。

人は、目的やこれから会う相手に合わせて服装を選ぶ。したがって、服装により外出の目的や、会う相手との間柄を推し量ることができる。つまり、部屋着のような格好は、家族や親しい身内の人、より改まった服装は、初対面や敬意を払うべき人に会う場合に選ぶのではないか。

 

内向きな「クルマ型」

それでは、何故このような違いが出きるのかということについて考えたい。まず、状況により交通手段を選択する人を「電車型」、何が何でも自家用車で移動したい人を「クルマ型」と定義する。そして、電車での移動と自家用車での移動との大きな違いを、他者との関わりの度合いであると考える。

すると、次のように考えることができないだろうか。

まず、電車での移動では、駅から電車に乗り、目的の駅に到着するまでの間、全く見ず知らずの他者と車内の空間を共有する。プラットホームに立ち、電車を待つときは、順序良く並び、通行する人があれば道をあけ、お年寄りや足の悪い人がいれば気遣うといったように、駅を利用するための一定のルール(「公共的」空間で見ず知らずの「他者」との関り方を規制する規範)に拘束される。このことから、「電車型」は他者との関わりを厭わないことが予想される。

一方、自家用車では、目的地まで移動する間、車内には自分一人か、自分の仲間しかおらず、見知らぬ他者に気を遣う必要はない。つまりこれは、恰も自分の部屋にいたまま、部屋ごと移動するようなものである(「私的」親密圏の延長としての車内空間)。これについては、車にも交通法規という公共的ルールがあるではないかとの反論をいただくかもしれない。しかし、交通法規は、寧ろ、車同士の接触を避けるためのものであり、これさえ守っていれば、ウィンカー、クラクションといった道具による意思表示はあるものの、他の運転者と殊更に言語によるコミュニケーションを行う必要はない。したがって、見知らぬ他者のいない空間で、自分だけで、或いは仲間だけで気兼ねなく移動時間を過ごしたいというのが、「クルマ型」の大きな理由と考えられる。

そこで、次のように仮説を立てることができる。「電車型」は他者との関係を築けるが、「クルマ型」は他者との関わりが億劫である。

つまり、状況に応じて交通手段を選択する「電車型」の人は、必要に応じ見知らぬ他者とも一定の関係を築くことができ、それを厭わない。一方、「クルマ型」は、見知らぬ他者のいない空間で、仲間と気兼ねなく移動時間を過ごしたいという気持ちが利便性よりも優先する。この人たちは、見知らぬ他者との関係を築くのが億劫であり、普段からできれば仲間内で過ごしたいといった「内向きの態度」で生活している。

 

公共スペースを「ウチ化」するクルマ型

また、それぞれの服装の例に戻ると、公共スペースで「部屋着」を着ている人は「クルマ型」であり、「外出着」の人は「電車型」である。そして、「部屋着」が、家(=ウチ)の中で寛ぐ格好とすれば、このような格好で出歩く人は、見知らぬ他者に会う可能性が全くないか、或いは、見知らぬ他人を全く無視しているかのどちらかである。勿論、彼らが車で移動後、闊歩することになる道路や店は、不特定多数の人が行き来する公共の場であるから、間違いなく前者ではない。したがって、公共スペースで「部屋着」を着る「クルマ型」は、公共の場を「ウチ化」しているということになる。つまり、「電車型」=「外出着」=「他者との関わりを厭わない」。「クルマ型」=「部屋着」=「他者との関わりを避けたい」といった図式が想定される。(下図参照)

 

フローチャート : 処理: 電車型

フローチャート : 処理: クルマ型

 

社会的共存共栄システム

さて、ヘーゲルは人間の社会の在りかたについて、次のように述べている。「市民社会においては、各人が自分にとって目的であり、その他いっさいのものは彼にとって無である。しかし各人は、他の人々と関連することなくしては、おのれの諸目的の全範囲を達成することはできない。だからこれらの他人は特殊者の目的のための手段である。」(『法の哲学』、182節・追加)これは、人間の社会は、各人のおのおのの目的を達成するために必要であるという点に着目し、その機能性について述べたものである。つまり、社会とは、単なる個人の集合体であるばかりではなく、究極的には、おのおのの人間の特殊的目的を達成するために働くのである。

ところが、ヘーゲルは上の文章に続けて、次のように述べている。「特殊的目的は、他の人々との関連を通じておのれに普遍性の形式を与えるのであり、自分の福祉と同時に他人の福祉をいっしょに満足させることによっておのれを満足させるのである。」したがって、社会とは、各人おのおのの目的達成に必要なだけでない。各人は自分の欲求充足だけを目指している。しかし、それにもかかわらずその充足のためには、意識するといなとに関りなく、他人の生産の成果に預からなければならない。そうであるから、他者の存在を承認しなければならない。そして、それは他者との関わりに入ることであり、他者の欲求を同時に充足させることによって初めて、自己の欲求もまた充足される。こうした関連が出来上がって人間の社会は網の目のように形成される。このように、社会全体の利益を満足させて、初めて個人の真なる目的を達成させるものなのだ。

換言すれば、人間が市民社会を形成するためには、他者の存在を承認し、他者と関わり、社会全体の利益を満足させようとする性質を持つことが必要であり、これを「社会性」ないし「社交性」と呼ぶことができる。

 

行き過ぎたモータリゼーションの危険性

さて、先に述べたように、自家用車という移動手段の選択は、単なる利便性からだけではなく、自分ひとりの時間や、仲間との気兼ねない時間を満喫すること、或いは、見知らぬ他者との関わりという面倒を避けたい、できれば関わりを持ちたくないといった態度の現われである。

したがって、このように移動手段として自家用車を無闇に選択する態度には、「社交性」ないし「社会性」が備わっていないといえる。また、これが常態化することにより、その人自身の「社交性」が損なわれていくこと――「非社交性」が亢進すること――が予想される。即ち、自家用車という「ウチ」の中にいたまま、他の場所に移動することで、「ウチ」を外へ持ち込む。徐々に麻痺してきて、自分では社会の中に「ウチ」を持ち込んでいるのだという感覚が無自覚になるという事態が生じる。外の社会を「ウチ」化し、自分と自分の仲間しか眼中にない、非社会的な態度変化が起こる危険性を孕んでいるのではないだろうか。社会自体が、バラバラな「原子的」個人に分解されていくという事態、社会的関係性の崩壊現象が進んでいくのではないか。

こうして「クルマ型」という、「社交性」を失った人間が増えることによって、最終的には、まともな在るべき「国家」に到達するための「絶対的通過点」としてヘーゲルが位置づけている、市民社会そのものの形成が阻害されていくことが懸念される。

 

道路行政に必要なあたらしい視点

私は、以上のように、このまま自家用車の過剰な利用が進むと、人々の社交性が麻痺し、社会が社会として機能しなくなる危険性について述べた。だから公共交通機関を整備させずに、日常の生活のあらゆる局面で自家用車利用にのみ頼らなければならないほどモータリゼーションが過度に進展した現在の日本の状況について、警鐘を鳴らしたい。

 私たちは経済的に豊かになり、誰もが自家用車を持ち得るようになった。このことは、公共交通機関という他者の力を借りなくても、自分だけの力で目的地へ到達できることを意味する。しかし、これが過ぎると社会はどうなるだろうか。人々が他者との関わりを億劫がり、過剰に他者を避けるようになる(非社交的になる)。すると、人々は市民社会の形成に必要な「社交性」を失い、社会は社会たり得なくなる。一見不要に思える場合でも、他者との関わりを避け続け、関係性自体を遮断することは危険である。なぜなら、他者との関わりは、社会との関わりであり、実は個人の生活にとって真に必要なものだからである。

 

引用文献

ヘーゲル 藤野 渉・赤沢正敏(訳) 2001 『ヘーゲル 法の哲学T』 中央クラシックス