古典のない身体 -九九なんか覚えなくて平気だよ-

 

                                                 人間科学専攻 5期生 杉浦 聡

 

1960年東京生まれ
日本音楽演奏家

三味線、筝、伝統的な発声法、作曲などの演奏教授活動とともに、俳人岡本千弥(おかもと・せんや)として句集「ぽかん」を三月書房より上梓するなど、多面にわたり活躍している。

近年は日本の胡弓(中国の二胡ではない日本の伝統楽器)の伝承保存につとめ、CD「日本の胡弓‐杉浦聡の世界‐」(エス・ツウ)をリリース。また、この夏より雅楽の楽器である笙の演奏活動も開始。

199293年にかけて永六輔司会のテレビ番組「2×3=六輔(にさんがろくすけ)で、麹町の若ダンナ役としてレギュラー出演し、その後の和楽器ブームの魁となる。

 

 

 
   


 お盆休みに知人の別荘に居候をしたのですが、そこの5年生になる弟息子が九九を覚えきっていない、という話題になりました。そこでわたしは一宿一飯の恩義についての返礼として、小銭を目の前にちらつかせながら、しちはごしゅうろく、というのをひとつ暗唱させて帰ってきました。

 ひとつしか暗記させられない、というのは情けない話ですが、お金が大好きな子なのにお小遣いを返してくるくらいに本人がやる気がないので、この結果になったのです。

あまりにもやる気がないので、なぜそのように嫌なのかをたずねると、

「一桁の掛け算はわかるから」

という答えが返ってきました。つまり、わかることをわざわざ覚える必要はないというのが、暗記を嫌がる理由だったのです。頭のよい彼はわかっていることを繰り返す、という行為も嫌いなようで、漢字の書き取りも嫌い、と自慢するようにいいました。

そして、紙の上で計算すればよいことを、なぜ暗記する必要があるか、とたずねてきたのです。

 わたしは学校のカリキュラムについては疑問を持たないまま今日まで過ごしてきたので、答えに詰まりました。

そこでふと思いついたのが算盤でした。わたしが小学校のころは算数の授業で算盤がありました。九九と一桁の足し算と引き算を暗記していないと算盤でも答えが早く出せないことや、桁数が多い場合、割り算の他の計算も左の桁からすると答えを早く出せる、というていどのことを授業の内容からではなく、肉体を動かすことから悟ったことを思い出したのです。

 電卓は便利ですが、実生活においては大まかな答えを直感的に出せるほうが便利です。大まかな答えを出すためには、一桁の加減乗除を、九九を唱える以前の、無意識的なレベルで答えられないといけないのはいうまでもありません。そういう頭になれば、直感的に酒席での割り勘の額を近似値で出すことができ、幹事をするときも短気な人に会計をせっつかれて損をすることもありません。その基本が九九の暗唱……。

と、ここまで考えて、なんだか説得力がないなと思った瞬間、敏感な彼は逃げていってしまいました。

 

話はかわりますが、わたしは日本の伝統音楽の演奏家です。

ステージで演奏するときは暗記です。三歳から楽器をはじめてから、暗記する、という行為は身近なことであり、動作を繰り返し、体を使って覚えるということも当たり前のことでした。ですから、わかることは暗記する必要はないという発想自体なかったので、彼の質問は意外であり、新鮮でした。

では、なぜそのような疑問を抱かずに暗記してきたかというと、音楽を演奏するときには曲を暗記していないと、芸術の世界に没頭できない、ということを幼いうちに直感していたからだと思います。

暗記での演奏は日本の伝統音楽のみならず、西洋のクラシック音楽のソロ演奏の場合も同じですし、世界のあちらこちらの民族音楽も同様です。

音楽演奏の場面で譜面を見るのは、伴奏するときや合奏するときというように、相手がある場合がほとんどです。これはなぜかというと、伴奏者や合奏するひとりひとりが暗記して演奏すると、自分の世界に浸り込んでしまい、相手の方が自分に合わせなくてはならない状態になってしまう可能性が出てくるからでしょう。

暗記するということは、強く自分の芸術の世界に没頭することですから、暗記している芸術家を支える立場や合奏する立場にある演奏家は、常に頭に冷静な部分を持っていなければならないのです。さもないと行くべき道から逸れかねない相手を修正できないので、わざと楽譜を見ることよって自分のポジションを明確にしている、のかもしれません。

 ちなみに音楽と同じ時間の進行によって芸術活動がおこなわれる、歌舞伎や能楽や落語講談などを含めた日本の芸能や世界中の演劇や舞踊も暗記を原則としているのは、芸術の世界に没頭するという共通の性格のためだと思われます。ただし、主役を支える場合やアンサンブルの作業において、譜面を見て頭を冷静にするといった行為に近いことをしないのは、根本的には楽器の演奏ほど複雑な肉体の動きをしないからということがまずいえます。そして、動作の単位が零コンマ秒単位である音楽よりも動作における時間単位が大きいということ……メトロノームで四分音符が60の場合、四分音符が弾かれると一秒一動作となります……があり、そのように0コンマ秒単位で楽譜に指定している音楽よりも動作においては即興性が強い……楽器は機械ですから何ミリ動作がずれだけで違う音を弾いてしまいする……などの理由が考えられます。

 さて、少しまえで芸術の世界に没頭するといいましたが、単に曲を暗記するだけでは芸術の世界には没頭できません。曲を充分に表現できるだけの楽器を演奏する技術力がなければ、弾きにくい部分で意識が現実に戻されたり、弾き損なった部分を反省して意識が覚醒したりと、音楽へ集中する意識が浅くなります。

つまり、表現を充分できるだけの技術がないと芸術に没頭できないのです。

完璧に肉体訓練がなされてあれば、多少ひっかかっても芸術に没頭した意識が現実に引き戻されることはまずありません。これは自分に対する信頼ができているからです。それゆえ、自分への信頼を得るという高みへ到達するために、肉体訓練が必要になるのです。

肉体訓練といっても意識して何かをコントロールしようとするレベルのものではなく、漠然としたイメージを意識しただけで肉体が複雑にコントロールできる状態になることを目標とします。

少し説明しますと、舞踊で右手を出すAというポーズがあるとします。ポーズというものは、人指し指の第一関節、第二関節、第三関節、中指の……、薬指……、手首の形、腕の角度、肘の位置、肩の位置、上体、腰のひねり、下肢、重心の位置といったこまごまとしたものが決まってはじめて成立するわけです。そこでまず、指の形、手首の形といったものをひとつひとつ意識してその形になるように稽古し、それらが一瞬で表現できたときにはじめて、さまざまな筋肉の運動の集合体としてのポーズが習得された、といえるのです。

そうなれば本番のなかでAというポーズをしようと意識しただけで、そのポーズをとるために人指し指はこうで、手首の形はこうで、というように意識することもなく、瞬間的にAというポーズがとれるのです。よほど難しいか苦手なものであれば別ですが、本番では振りのなかの一部分であるAというポーズに焦点を当てて意識することはありません。

そうです。音楽を含めた時間芸術での暗記という概念には、稽古して体の中に物差しを作っていくことも含まれているのです。

これは、肉体訓練をし尽くした状態の身体であれば、曲なり、振りなりを暗記するだけで芸術表現の99パーセントが完成された状態になるという事実からも裏付けができます。このことを理解やすい例としては、体操競技やフィギュアスケートなどがあります。オリンピックでの勝者がいかに練習してきたかということを見せるドキュメンタリー番組がそうです。

その顰みに倣って説明しますと、演奏家は譜面のなかで弾けない部分を繰り返し練習します。つぎに曲想を想定します。そして想定した曲想通り弾けるように稽古します。曲想を考え、その通り弾く練習をするということは、いいかえれば、肉体の動きの設計図を作り上げる、ということになるのです。そして、その設計図を暗記するのです。

この作業は「曲」ということばを「振り付け」や「台本」などに置き換えれば、他の時間芸術についてもいうことができます。

そして設計図を作り上げること、いいかえれば第三者が作ったものをいかに自分で表現するかという作業(芸術の再創造ともいいます)ができるか否かということが、芸術の才能ということになります。

ちなみに、さきほど肉体訓練をし尽くした身体であれば、曲を暗記したら芸術表現が99パーセント完成されるといいましたが、芸術表現の残りの1パーセントがいわゆる天分と称されるもので、これがないと上手いけれど心がない、いうなれば「職人芸」とされてしまうのです。

 

頭でわかればそれでよしというだけでは、価値観はともかく身体の中に「ものさし」がない人間ができてしまうのではないかと、九九を暗唱しない少年が逃げ出したときに、「古典のない身体」ということばが閃いたのです。

古典という熟語は大修館書店の中漢和辞典によると、@昔の法度・制度、A昔の書物・典籍、B昔の書物で長く後世に伝えられる価値があるとして評価の定まったもの、とあります。また、古典の訳語であるクラシックという単語には、日本語の古典に似た意味のほかに、第一級の、とか、最高、という意味があります。

古典としての価値観には、そうした古典としての文芸や、動作の基準としての礼法、などの本来の意味での古典を暗記して身につけた思考の土台となるものもありますが、芸能と稽古の関係にあるような身体的能力としてのものもあるわけです。

われわれが無意識に行動していることも、そこには必ずなんらかの裏付けがあるものです。本能に基づく行為もあれば、何らかの物差しがあっておこなわれる行為もあります。そして、そのものさしも「俺様」仕様のものと、「他人の視点」の入った仕様のものと、「古典としての価値観」に基づくものなどいろいろあるわけです。

古典というと古くて現代に役に立たないものとして排除しがちな風潮がありますが、実務レベルでも古典的物差しには便利なものも多いのです。

と、ここまで考えたことをどのようにやさしくおもしろく小学校5年生の彼にわからせるかが、当面のわたしの課題となっています。