『千のプラトー 資本主義と分裂症』

  ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(共著)

   宇野
邦一 他訳
   河出書房新社(
1994
   ¥7,035(税込み)

  ISBN4309241514

             

                                                        人間科学専攻 3期生 河村俊之

   
 


 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと、精神分析家フェリックス・ガタリの共著です。哲学書として読むべきか、副題の「資本主義と分裂症」に留意して社会臨床的な試みの著述であるとみなすのかは悩むところですが、一般的には哲学書、分類上はポスト・モダニスム系の哲学書とされています。なお、本書は「資本主義と分裂症」の第1
部をなす『アンチ・オイディプス』(1972年)の続編として1980年に刊行されました。

 ポスト・モダニスムとは、近代の負の側面に執拗に光を当てようとする一群の哲学ですが、思考の射程が時にギリシャ・ローマに遡ることがあるとはいえ、扱われることは主に近代のありようであり、今日、普遍的ないし自明とされるものは近代社会の産物であるということを明らかにすることが共通しています。ただし本書は、世界史的な視野で人間の深層心理を課題とする点で、単純にポスト・モダニスムの書として分類づけられるべきものではな いのかもしれません。

 前編である『アンチ・オイディプス』は頗る読みにくい本ですが、大まかに言えば、分裂症を忌避してきた精神分析学に対するアンチ・テーゼが主題となっています。分裂症こそが無意識の意味を最もよく示す。そして、無意識を欲望の源泉として肯定します。無意識・欲望を抑圧するものが「オイディプス・コンプレックス」であり従来の精神分析的な見方に代えて「スキゾ(分裂状)分析」を提唱します。「スキゾ分析」とは、抑圧への抵抗、従属からの逃走の意思を選びとるあり方を意味します。対峙のための分析姿勢とでも言えましょう。著者の表現によれば「破壊せよ、オイディプスを、自我の錯覚を、超自我のあやつり人形を・・・」ということです。1980年代に「スキゾ(分裂)」対「パラノ(偏執)」というフレーズで現代思想の流行語になりました。結局は「とらわれずに自由に生きよう」くらいのポップ感覚で受容されてしまったようですが。

さて、本書ですが、邦訳本では2段組で640頁もあって、厚手の文庫本・数冊分の量になりますし、『アンチ・オイディプス』という、これまたハードな前編があるので、労力的にはおすすめしにくい本です。お値段もはりますし。ただ、近代の次のステージにおいて、人間の在り方はどうなるのか?というテーマが扱われるときは、頻繁に引き合いに出されますから、未来に向けて確実に寿命の長い本だと思います。

標題の「資本主義と分裂症」の意味ですが、資本主義の分裂的なダイナミズムに一定の意義を見出しつつ、巧妙に組み立てられていく管理のメカニズムのなかで、多様な生のあり方を模索する、というような意味合いだと思われます。 


 「千」の「プラトー」の意味は、多様体としての生命力の(強さの)高原(プラトー)がリゾーム(地下茎)状に連結される状態をイメージしています。15章で構成されていますが、比喩的に「千」もあろうかという高原地帯のうち、いくつかを出してきたということでしょう。15を貫流する統一主題は見当たりませんので、構成の意味についてはあまり考えなくてもいいように思います

 序章では、有名な「リゾーム(地下茎)」という概念が提示されます。中心なく茎を伸ばしていく蘭のイメージ、幹という中心のある「ツリー(樹木状)」への対抗概念です。近代人の心性は、太い幹のような心の支えや首尾一貫性がないと安定しないものですが、それをあえてひっくり返してしまいます。「植物の智慧」と呼ばれ、「リゾームを作り出すこと、脱領土化によって領土を増やすこと、逃走線をそれが一個の抽象機械となって存立平面全体を蔽うまで広げること。」、「多様体であれ!線を作れ!」を意味しています。「脱領土化」や「機械」という用語には注釈が必要ですが、言わんとしていることのニュアンスはお分かりいただけるのではないでしょうか。要するに、幹・枝・葉という階層秩序意識、どこかに根を張って動けないという心性が問題にされているのです。この概念は、臨床心理学に新鮮な衝撃を与えました。これまでは例えば「自己同一性」という安定的な心性が「落しどころ」だったわけですが、「生成変化」する人生の在り様が研究されるようになってきました。危機回避の手法としての「同一性」概念の効用を否定するものではありませんが、「本当の私はどこにあるの?」という偏執的な自分探しの思い入れからはいったん自由になるわけです。

 次に有名なのが「ノマド(遊牧)」という概念です。これは定住志向的な精神への対抗概念です。遊牧を「ノマド」と呼ぶことはドゥルーズの造語ですから、例えば音楽家の坂本龍一氏が「私の芸術はノマド」という際の典拠はこれです。これはかなり激しい概念です。というのは、ノマドは「戦争」との強い連関において語られるからです。ただ、戦争の類推から説き起こすにしても、ドゥルーズは章の初めで注意深く将棋と碁の違いを引き合いに出しています。将棋の駒には役割が与えられているが、碁にはそういう役割の制約性はない。「軍隊的」ということでなく「遊牧的」な戦争のイメージに、創造的な移動の力を見出そうとしています。ここでは「戦争機械」という独自の概念によって世界史が、また、「王道科学」と「遊牧科学」という用語によって科学する精神じたいにも秩序維持の科学と創造的な科学の対比があることを考察していきます。まあ、この章は単純に「遊牧的ライフ」を勧めているようには思えないのですが、遊牧民との類推で西欧中世の石工、大工、鍜冶師といった移動の自由をもつ技術者のあり方を述べてはいます。また、「職人は同時に材料を採集する者でなければ十全な職人とは言えないのだ。」とも述べていますから、技術的自立性が「遊牧」のための「武器」であるということは暗示されていると思います。いずれにせよ、「遊牧」にせよ「逃走」にせよ、「国家」に代表される定住的支配からの「脱出」ではなくて、平原を支配した遊牧民のポジティブなあり方がイメージされていると言えましょう。

他にも、「強度」という興味深い概念が提示されています。「生命力」や「耐久性」という意味では必ずしもないのですが、これも有名な概念です。また、本書を芸術論として読んでも興味深いと思います。実際、芸術家の人々にはインスピレーションを与えているようです。

ポスト・モダン系の思想は、晩年のフーコーが「性欲」をキーワードに生の豊穣を考察していった以外は、概して、未来に対する袋小路感やペシミズムが漂っているのですが、ドゥルーズ+ガタリには、ペシミズムは漂っていません。その意味で、『資本主義と分裂症』の第3部が書かれることなく、二人が亡くなったのは残念なことです(ドゥルーズは、肺の機能が停止し、人口呼吸器に依存する闘病生活の後に1995年に自殺)。

ただ、広大な知の空間の可能性を呈示し、未来を考える意欲を切り開いてくれたことは、確かです。もちろん、未来社会を構想する前に、先に、人間の在り様を考えるという意味においてですが。