連載「裏方物語」  5

 

         「選挙違反                                                                    

                                          国際情報専攻 5期生  寺井 融

                                                                                      

 

 

 

 

 

三分の一世紀以上、政治活動に携わってきたのだから、もちろん選挙運動の経験は多い。といっても、選挙違反は犯していない。

 

―と書いてきて、一つだけ思い出した。

 

 あれはたしか大学二年生のころである。参議院選挙に東京選挙区から松下正寿氏が立候補することになった。”事前運動”の時期にあたるころだから四月か五月のことだと思うが、長方形のステッカーと称するビラ貼りをやった。政治スローガンと松下氏の名前を書いたステッカー数種を、夜陰にまぎれて、電柱に貼って歩いた。

 

 東京葛飾区の立石あたりではなかったか。昭和43(1968)年当時は、住宅もそれほど建っておらず、金魚池もあって、卸売り業者もいた。糊バケツを持って、友人と二人歩いていると、自転車に乗った警官に呼び止められた。

 

 「君ら、何やっているの?」

 「えぇ、まぁ‥」

 「そのバケツ、見せなさい」と懐中電灯を点けられ、糊が見つかった。

「どこで、何を貼ってきたか」となる。

「‥‥」

 

黙っていると、「金魚泥棒じゃないようだし‥‥」と畳かけてくる。

 

そこで「冗談じゃないですよ」となり、泥棒じゃない証明として、ステッカーを貼ってきた電柱に案内する羽目となる。パトカーがやってきて、電柱の写真がとられた。そのままパトカーに乗せられ、本田警察署に連れて行かれた。

 

“現行犯逮捕でもないのに”と思ったが、もう遅い。電柱にステッカーを貼ったから“美化条例違反”、説諭で“始末書が相場だな”と踏んでいたら、いきなり取調室に入れられた。

 

まず「選挙の事前運動にあたる」とかまされる。

 

「政治活動です」と反論。

「いくらもらった?」とも訊かれた。

「学生党員ですから、もらっていません。党活動です」

「ウソを言うな。向こうの子はもらっていると言っているぞ」

二人は別々にされていたのだ。引っ掛けだと分かっていたから、それは食わない。

「そうですか、おかしいなぁ」ととぼけた。

「向こうの子は泣いているぞ。お前は、可愛げのないやつだなぁ」と言われた(後で友に確認すると、彼も「向こうは泣いている」と言われたそうだ)。

 

夜明け近くから始まった取調べも、お昼ごろになった。

 

「お腹が空いてきました。何か食わせてください」と言ったら、カツドンをとってくれて、「調書」をとられ、釈放された。

 

後に、霞ヶ関の東京地検に呼ばれる。若い検事に「お前は法科だろう。後輩のようだが、法の精神のなんたるかを知っているか」と説教をきかされ、簡単な取調べで「不起訴処分が適当」となった。

 

それにしても、たかがステッカー貼りである。仰々しい取り組みだが、検察側はわれわれの小さな“事件”から、松下選対全体のお金の流れをつかみたかったようだ。

 

“事件”のあと、北海道の母から手紙がきた。母の友人に小生に対する聞き込みに入ったらしい。「警察が、あんたのことを根ほり葉ほり聞いていったそうよ。学生運動がらみでないかと、心配しています」と書かれてあった。「私が入っている民社学同は民社党系で、過激なことは一切していない。電柱に、選挙がらみのビラを貼っただけである」と返事をしたためた。

 

「安心した」との短い便りが返ってきて、五百円札が一枚入っていた。

 

話は替わる。

 

民社党本部に入って、選挙になると本部詰めが多かった。

 

三日に二日ぐらい、泊まっていたこともある。ある日、『産経新聞』の近藤紘一記者(『サイゴンから来た妻と娘』の大宅賞作家)が本部にやってきた。彼が外信部から『夕刊フジ』にまわっていたときではなかったか。通産省(当時)に、堺屋太一氏の原稿取りに行ってきた帰りだ、と言っていた。

 

「ところで、寝泊りはどこでするんですか」

「ここですよ」

「ここって‥?」

 

夜になると、応接セットを横にどけて、即席のスペースを作り、そこにゴザを敷いて、貸布団で寝ると説明したら、「エッ」と絶句された。

 

翌日の午後、近藤さんが又あらわれる。

 

「これっ、差し入れ」と言って、オールドパーを差し出された。「僕、飲まないから」と続け、「もらいものだから‥」と笑っていた。ありがたくいただいた。

 

 外国土産の定番がジョニ黒にジョニ赤、角さん(田中角栄元総理)の愛飲酒がオールドパーで、庶民はレッドから角に格上げされてきていた時代の話である。

 

 選挙開票日は、その貸布団も充分な数がなく、机の上に横になり、新聞をかけて仮眠をとったこともある。それも、時代とともに、泊まりは本部近くのビジネスホテルが定宿となっていき、選挙も弱くなっていって、民社党は解散した。

 

近藤さんは四十五歳の若さで亡くなったが、自分はいま、彼が勤めていた産経新聞社で仕事をしている。実母は健在で、一緒に住んでいます。  (つづく)