軽井沢と日本大学研修所

 

 

                   国際情報専攻 5期生 高島政信

 

軽井沢での近藤ゼミに出席するため、20年ぶりに軽井沢を訪れました。以前訪れた時は、車で静岡から1日がかりでしたが、今回は東海道新幹線掛川駅で乗車し、東京駅で上越新幹線に乗り換え4時間あまり、この交通機関の便利さは、箱物行政の建築物の中でも役に立っているものの一つでしょう。

 

軽井沢駅に到着し、さっそく観光協会で日本大学研修所の位置等を確認、細かく親切に応対して頂きました。 駅でフト振り返ると、昔の軽井沢駅の姿が霧の中に浮かび上がりました。祖父が駅長だったこともあり、駅やレールに心を奪われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

研修所はタクシーにて駅から10分、軽井沢警察署の近く。軽井沢に来る前は、大学の研修所だから粗末な建物だろうと思っていたのですが、ゲートの中奥深く木立の中に現れた建物は、近代的なちょっとしたホテル並みの立派な研修所です。

 

 以前、南満州鉄道や鉄道院の総裁を務めた後藤新平が企画した「軽井沢夏季大学」(1)跡地に建ったとのことで、軽井沢の中でも良い場所に位置しているようです。

 

ゼミでは近藤教授のもと、各自の論文の内容を討議しましたが、今期入られた6期生の方々が、私が入学した同時期と比べると大変進んでいることに驚きました。1年前のこの頃、レポートの事で頭が一杯でした。5期生は、現在、課題を絞り、章立てと論文記載に入っている状況です。ゼミの昼食時は、「雲場の池」や「軽井沢銀座」を散策、時代が変わっても変わらぬ銀座の華やかさを見て安心しました。研修所は、宿泊施設も、充実、風呂も清楚で広く、快適です。夜は教授を囲み、日本全国から来た生徒の話しを交え笑いが絶えない時間を過ごしました。そして翌日、軽井沢ゼミを終了し、修士論文完成への新たな決意を致しました。

 

ここで、少々、軽井沢の歴史に触れたいと思います。

 

以下、軽井沢観光協会のホームページからの抜粋です。

 

軽井沢とは、”凍り冷わ”(こおりさわ)から転じたというものや、”軽石沢"からきたというもの、また水の枯れた”かれ沢” 、背負うことを「かるう」といったことから「かるうさわ」が「かるいさわ」に転じたとかハッキリした語源は分かりません。

 

この地は、鳥獣や果実・球根類が多く、古代の人々が住むのに適し、6〜7千年も前の縄文時代前期のものと考えられる土器や、同代中期・後期にかけての遺跡も茂沢南石堂の住居跡として残されています。

 

 江戸時代になると軽井沢は中山道の一宿として開かれ、更に北国街道の分岐点をもつ軽井沢高原には、浅間根腰の三宿(軽井沢・沓掛・追分)が形成され、街道筋の中にあって繁栄しました。明治17年碓氷新道(現在の国道旧18号線)の開通によって、中山道沿いの旧宿場町は決定的な打撃を受け、長く続いた浅間三宿の歴史に終止符が打たれました。

 

 

避暑地としての軽井沢のスタートは1886年(明治19年)カナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏が、その自然の素晴らしさに、夏この地へ避暑地に訪れたのが最初だと言われています。ショー氏の友人たちである宣教師の別荘が年を追って建ち始め、そして明治26年には初めての日本人所有の別荘が建てられました。軽井沢は、同年開通した碓氷新鉄道によって更にその発展の速度を早めました。

 

軽井沢は必然的にキリスト教的風潮の強い町になりました。ショー氏等宣教師は、軽井沢を永遠に明るく清潔で住みよい町にしようと心掛け、自ら率先し、住民たちにも「時間と約束を守ること、ウソを言わぬこと、生活を簡素にすること・・・」など呼びかけこれを励行し、「善良な風俗を守り、清潔な環境を築こう」という高潔な精神が避暑地軽井沢の輝かしき伝統と歴史を貫く「軽井沢憲章」の根底となり、この地を運営する思想の元になっています。また、彼らは、地元の農家の人たちに、清澄な土地に合った高原野菜(キャベツ・白菜)の栽培法を教え、いままでヒエ、アワなどの雑穀類生産の細々ながらの農業から今日ある高原野菜への転換にも大きく貢献しました。

 

大正の初期には、箱根土地(現在のコクド)・鹿島建設・野沢組などの大手資本の参入によって土地分譲がはじまり、いままで旧軽井沢中心であった別荘地が南へ西へと開発され、第一次大戦後の好況の影響を受けて日本人有産階級の人たちが盛んに訪れるようになってからは、日本人避暑客が外国人を上回るようになりました。

 

これら日本人避暑客の需要を満たすために各種の商店が建ち並び、軽井沢の中心である旧軽井沢商店街は、“軽井沢銀座”と呼ばれるほどの活況を帯び現在に至ってます。またゴルフ場、テニスコート、乗馬等のスポーツ施設も相次いで新設され避暑地としての機能がほぼ現在の原型として出来上がりました。(2)

 

多くの方々が、華やかで優雅な時を夏の間だけ過ごした町。名前の由来は分からないが軽井沢とはいい名前だと思いつつ、私は、帰りの新幹線あさまの中で「峠の釜飯」をほおばった。  2004年5月25日                                             
                                  


                                        


 

 

関連 Web サイト

 

(1) 軽井沢万平ホテル,
        http://asp.hotel-story.ne.jp/concierge/002_classic/004manpei_a.html

 [2004525]

(2) 軽井沢観光協会,

         http://www.karuizawa.or.jp/

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