「平和を考える。イギリスの窓辺から」

―あるイギリス人将校の場合―

                          ―軍人たちの葛藤―

 

                            文化情報専攻 6期生  外村 佳代子

 

   

  我々日本人にとって、実感できる平和という言葉が、未来永劫不滅の物であるとはおそらく誰も思っていないだろうが、水や空気と同じレベルで手に入れられる物と思っているかもしれない。しかし、水も空気も自然に任せておくだけで満足が得られる時代はすでに遠のき、あらゆる科学と技術のイノベーションの上に成り立つ生活は、水や空気さえ手に入れるには代償を必要とする時代がやってきた。雨水を直接口にすることは出来ず、都市部では携帯型酸素の売れ行きが好調だという。だが、お金を出して手に入れられる物はまだいい。科学や技術の向上に荷担して生んだお金がある意味連鎖されているのだから。では平和はどうだろう。誰もが望むといいながら対岸の火事としかみれない現実をメディアとを通した表舞台ではなくそれにかかわる人を通じて考えてみたい。

 その前に平和の定義は何だろう。自分が立つこの場所が心地よい空間であることだろうか?個人の単位、地域の単位、国の単位、世界という単位。その定義となる範囲は各個人の意識の中にある。戦争しかりである。対、誰なのかによって関わり方が変わってくる。自分がどちら側のスタンスを取るかで敵と味方が決定づけられる。軍隊を持たない日本人にとってこれほど難しい問題は無いのではないだろうか?戦争に参加しないということは、そう、敵も味方もない、かといって中立という立場でもなくあくまで国際的優位国に追従する。と言ったら過言だろうか?

 〔自分の子供が戦争に行ったらどう思いますか?〕などと言うワイドショー的な台所的視野のイデオロギーで事の是非を問うのはナンセンス以外の何物でもないと思うが、感情こそが一番の原動力になると言う事実も否定できない。ただしそれは個人的レベルでの話しである。国益を際優先させる国のあり方とは当然隔たりがある。 

 国と言う概念自体、実はあいまいなのである。生まれた国を指すのか、育った国を指すのか、今住んでいる所をさすのか、日本人の中でそんな疑問を持ったことがある人はどれほど居るのだろう?スペイン系アメリカ人などと聞いてもあまりピンとこない。実際私の友人にもアフガニスタンで生まれ、シリアで育ち、ドバイの男性と結婚をし、数年前から経済難民としてイギリスに移住。彼女の息子は今のところイギリス戸籍を持っているが20歳になったら自分で選ばせるというのだ。ちなみにその彼女の父親はアフガニスタン人だが母親はトルコ人である。 彼女はナニジンなのだろうか?(ナニジン=どこの国の人という一般的な解釈で聞くと)パスポートはイギリスになっているわ。でも私はパシュトゥーン人よ。  ????????  彼女の話を聞いた数年前の私は、おそらく今このエッセイをご覧になっている大多数の人と同じ感覚であろう。周りを海で囲まれた日本と違い2メートルの金網の向うは別の国である大陸にとって、国という概念より人種や民族の繋がりに重きを置いていることもある。 私は日本で生まれ、日本で育ち、日本国の国籍を持ち、日本人のパスポートを所持している。出生地も国籍も人種もJAPAN(JAPANESE)と書くのである。

 こちらの公的書類記載欄にNATURAL MOTHERいう項目がある。そしてMOTHER、さらにGUARDIANともある。NATURAL MOTHERとはまさしく自分を生んだ女性(それを母親と呼ぶかどうかは意見がわかれる)MOTHERは自分が母親と呼んでいる人。GUARDIANとは保護者という意味で必ずしも親をさすものではない。私も息子もこの3つの項目には同じ名前が記入される。日本人の大半がそうであるように。そう、私達の無意識のなかにある国という定義のひとつである。

 今回私が書かんとしていることは、台所的視野のナンセンスである。外国に住み、文化の違いや人種差別も甘んじて受けて立ってやろうという心つもりでここにいる。少々現実離れした、あたかもメロドラマのような出来事に、もう少し学術的見地から筆を進められないのかとお叱りを受けそうである。 

 その前にもうひとつだけ記して置きたいことがある。諸外国から見た日本のスタンスである。このエッセイを書くにあたり私の交友関係を書き出してみた。何ヶ国の友人が居るのだろう。―38カ国―。この中には名刺交換をしただけや単に挨拶だけの関係の人は含まれていない。親しくなりお互いに食事やパーティーに誘い合い、共に言いたい事をいい、ファーストネームで呼び合える間柄のみである。中には大変な親日家もいる。それとは正反対に日本が地図上のどこのに位置するかもわからない人もたくさんいる。だいたいの場所はわかっているが、近隣諸国、中国や韓国等との違いが分らない人、実はこれが大多数だと言ったら皆さんは驚くだろうか? 特に、ヨーロッパの人たちにとって日本は極東の国なのである。(極東の国。このいい方自体私は好きではない。極東?東の果て?どこから見て?中東?誰から見て?丸い地球のどこにも果てなど存在しない。そう、この言い方はイギリスから見た立地関係なのである。アメリカからだろうが、南半球の国からだろうが、日本は極東の国ニッポンなのである。それが世界的認識語録として使用されている。今更、その定着した言い方に問題を投げかける気はないが、さすがは7つの海を制覇したお国である。世界標準時もイギリスグリニッジなわけで・・。その一考査については別の機会に筆を構えたい。

 38カ国の友人達。学者、研究者、教授といった知識階級と呼ばれる人たちから、イギリス貴族、医者、弁護士、音楽家、軍人、難民、ジャーナリスト、企業人、先生、学生....などなど、さらにはホームレスまで多種多様である。書き出してみて正直自分でも驚いている。ホームレスのクリスマスパーティーに招待された日本人などおそらく私くらいのものだろう。  一様に彼らの目に移る東洋人、とりわけ日本人はわからないらしい。その理由の一つはもちろん社会全体が白人中心に動いている事実は否めない。そして次に挙げられるのは学校教育のなかでも、メディア等でも日本という国が全く報道されてないことである。

 報道がされていないのだ。全くと言って良いほどイギリスでは日本の報道がなされない。イギリスはTVでニュースを流す頻度が日本よりはるかに多い。映画の途中でもトレンディードラマの途中でも数分から数十分間ニュース番組に切り替わる。時には1つの映画のなかで2回も3回も変わる。同じ映像が流されることも少なくないのだが、ライブで社会情勢を国民に流している感がある。

 小泉首相が来英された際の新聞報道でも、行方不明になった猫の広告の方が大きかったことに、日本のある大学教授が驚いていた。テレビでもほとんど取り上げられなかったせいか、イギリス人から何しに来たの?と言う質問を受けたほどだ。(実はいつ帰ったかも私は知らなかった)

 他国が取り上げられるのに比べて、日本を取り上げる頻度は極端に少ない。この事実はイギリスだけではない。私の家では300局を超えるチャンネルで世界中の放送が見られる。それぞれの国がどこの国をどのように取り上げているか一目瞭然である。しかもたまに見る日本についての報道があまりに事実とかけ離れていて、誤解と言うより侮蔑がこめられているのではないかと思うときが多々ある。永田町より歌舞伎町、教育現場と題しては体育祭の時の機械体操や塾通いの子供たちばかりをクローズアップし、サラリーマンに焦点を当てたかと思えば満員電車や、過労死、リストラされた後スーツで職安に行くシーンなどばかりが映し出される。

 新聞報道でも同じである。先日もイギリス人の友人が、日本についてかかれた新聞を持ってきた。イギリス人ジャーナリストが10年ぶりに日本に行って驚いたこと、風呂についての記事である。 衛生面の向上、日本の家庭の90%に風呂が普及した、と言うものだ。それが写真付で六分の一ほどに掲載されているのだ。私の知り合いので、風呂の無い家は無い。10年前と比べてもその差に違いは無い。(共同のトイレや風呂を持つアパートや学生寮等の存在は世界中どこでも同じで、一般家庭のそれとは比較の対象にはならない)むしろ、日本人の衛生面での過敏さの方が、問題にされるくらいである。

 ラストサムライの上映は海外に住む者にとって厄介の種の一つになった。私のほとんどの友人がどこかの国で見ている。とにかく話題に上る。それぞれ違う文化の下地を持つ人たちだ。賛否両論どころか理解に苦しむのである。

 先日も世界の死刑制度を研究しているフランスの大学教授から突拍子も無い質問を受けた。日本人にとってハラキリは一種の美なのだろう。今でも死刑宣告を受けてハラキリを申し出る者は居るのか?―居たか、居ないか正直私には分らないが、死刑宣告を受けたから腹を切るというのとは少しニュアンスが違う。美徳とまではいわないが過ちに対する潔さ責任感の強さは、謝らない文化の人たちには到底理解できぬと言うのが私の持論である。別段世界中の人々に日本のサムライの文化を理解してもらわなくてもよいが、現代社会において日本の理解を得られぬのは時として大きな問題を招くことがある。最近特に多く受ける疑問は日本の戦争に対する考え方や自衛隊についてである。日本人同士でも日本語でも難しい答えを他国の人に、しかも英語で答えなければならないのは何よりも至難である。そして、それには危険が伴う。私個人の考え方であると前置きしても、彼らの中では一般的日本人の考え方としてとらえられてしまう。

 自衛官は日本が作った英語では A(uniformed)menber of the self−defence Forcces.と紹介されている。しかし外国の新聞等ではJapnese service person−軍人、または、Jieikan(like a soldier〜兵隊のようなもの)などともあり、Jieikanというあたかも新しい職業かのようである。軍人ではなく民間人なのであると説明しても、民間人がミサイルを操ったり、ライフルを持って良いのか?戦車にはなぜウインカーがついているのだ!戦争はしない?ではなぜ武器を持つのだ?誰を相手に戦うのだ?戦場に行かない彼らは何をしているのだ?そして極めつけの質問は、自衛官の仕事はなんだ?

 実はこの種の質問は、知識人と呼ばれる人に多い。つまり、日本に興味のない人たちは自衛隊と言うその存在すら知らない。9.11事件の後のテロリスト対策であるアフガニスタン進攻の際にも同じ質問が投げかけられた。日本はどちら側につくの?と言う西洋人らしい白黒はっきりつけた質問である。アメリカ側かアフガニスタン側かという意味である。私が答えないうちにやはりアメリカにつくのよね。と簡単にかたずけられてしまうことも少なくない。

 こと、戦争や軍隊というこの種の話しには必ずアメリカと日本の関係がクローズアップされてくる。勝戦国側から見た日本は今でもアメリカに追従せざるおえない敗戦国なのである。このいい方も乱暴に聞こえるかもしれない。でも考えてみてほしい。戦争は必ず勝戦国と敗戦国のどちらかになる。イギリスのみならずアメリカやフランス、スペイン、ポルトガル、その他の多くの戦争を勝利した国は、破れた国をその国の植民地や統治国などの形での支配下に置いてきた。 イギリスに短期間でも住んだことのある人は一様に戦争ドキュメンタリー番組の多さに驚く。一日に全局あわせて有に10本を超える。その多くは動物を扱ったものと歴史ものである。そこには当然圧倒的な数で世界の戦争ドキュメンタリーが並ぶのである。毎日どこかの局で戦争について語られている。

 イギリス人の戦争にまつわる情報量の多さには驚愕である。正式な西暦から、参戦国、死傷者の数、軍を率いた司令官の名前からはたまた使用されていた戦艦やライフルの形式まで知っている人まで現れる。その知識や情報が正確な物かどうかはわからないが、社交場で交わされる会話の題材の大きなウェイトを占めているのは確かである。知らないとなるとたちまち無教養の烙印を押されかねない。彼らは今でも7つの海を制し、世界の四分の一を手に入れたことを事を誇りに思っている。世界最強の国、大英帝国(GreatBritan)の考え方は時代を超え息づいている。

 戦場で自国の為に命をかけて戦うことを美徳としているイギリス人にとって、イラク戦争、またその後の復興作業、民主化政策における日本の立場や自衛隊のスタンスは理解できない。日本が軍隊を持たぬこと。憲法9条の意味。戦争の放棄。戦地における後方支援。戦う気はないが戦地には行く。威嚇射撃はいいが人を撃ってはだめ。武装はするが軍事行為はしない。他国の軍隊が死者を出し命をかけて前線にいるのに対し、あいまいな日本の対応に国際的批判が注がれるのはやむおえない。(ちなみに永世中立国スイスの軍隊の考え方は徹底している。自分たちから戦争をしかけることはしない。でも、もし責めてきたら遠慮なく戦う。スイスにも徴兵制度があるが、徹底した愛国精神から生まれた軍隊に対する考え方により、徴兵制を持つ他国の軍人より意識にばらつきが少ないように思える。しかし日本は中立に立てない難しい政治的ポジションにいる。)

 日本人は死を恐れているのでもなく、臆病でも、ズル賢いのでもないのにそれを伝えられない自分とはっきり日本の立場を説明できない日本政府がもどかしい。 

 9.11事件から今日まで、おそらく日本にいたならば見る必要がなかったであろう現実を、ここイギリスで体験することになった。私の中の平和と命の意味があまりにちゃちなものであることを痛感した。

 私は軍人の友人が多い。イギリス、フランス、スイス、アメリカ、サウジアラビア、シリア、イラク、イスラエルetcである。志願して軍人になった人と、徴兵制で短期間の人と多少意識の差はあるが、それでも彼らは自国を含めた国についての知識が豊富である。ここでも、民族の違いや宗教感により命や人に対する違いが見え隠れする。軍人と政府の役人との立場は類似点が多い。自国といういう概念と自分の立場が明確である。先ほど述べた様に人によっては国より民族や宗教上の制約に重きを置いている場合があるが、戦争になると自分のポジションをはっきりさせないと敵、味方の区別がつかない。

 イギリス陸軍に籍を置くMは私の親友の一人である。彼はエリザベス女王から2つも勲章をもらったエリートで将来を有望されていた。彼には彼女がいる。3つ年下の彼女Sは偶然私の通うカレッジでArtを専攻していた。国籍を聞いて、彼女がハーフであることが想像できた。その国には見られない身体的特徴を持っていた。黒い髪と豊かでメリハリのある体つき。そして黒く大きなひとみが純血統種ではないことを示唆していた。よく笑うその口元から真っ白な歯が印象的だった。物腰や持ち物から彼女の国の平均的生活水準や階級でないことを物語っていた。MiddleEast(正確にはThe Middle and Near East)から留学中だった彼女Sには実家においてきた一人娘がいる。アルバムには敷地に放されているらくだと馬、14もある自宅の部屋とともにその娘と一つ違いのSの弟の写真があった。(そのシュチュエーション自体が難しい・・・)  赤いスポーツカーの似合うMと美しく聡明なS。毎週の様に遊びに来ては自分たちの将来を語ってくれるのだ。彼女の卒業を待って2人は正式に夫婦になる事になっていた。その雲行きが怪しくなった日付ははっきりしている。2001年9月11日。

  ニューヨーク ワールドトレードセンターに、一機目の旅客機が衝突した直後の映像を彼女と共に見ていた。私の自宅には3台のテレビがある。1台はJSTV(日本衛星放送)を、2台目はCNN(アメリカ国際的なニュース専門テレビ局、Cable News Network)をこの2台は1日中つけっぱなしになっている。見るともなく目に飛び込んできた映像はショッキングなものだった。しかしそれ以上にショッキングだったのは慌ててつけた3台目のテレビ、イギリスBBC放送でアメリカスポークスマンが流したコメント、テロリストの可能性。だった。(ちなみに日本の衛星放送がこのニュースを流し始めたのはだいぶ後から、他国の主要放送のほとんどはこのニュースに切り替わっていた。)

 全局がワールドトレードセンターやペンタゴンを映し出す頃、アメリカから留学中の友人がやってきた。自分の学生寮にはテレビも電話もない。実家や友人を気遣う彼は私の家からあらゆる場所に電話をかけていたが、そのほとんどはつながらない。Sは不安に青ざめる彼の肩を抱きながら、It will be all right.を繰り返していた。

 その後、アメリカは1部のイスラム教徒によるテロ行為と断定。テロリスト探しに乗り出した。そして周知のプロセスをたどることになる。

 その週末、予定していたバーベキューパーティーにイギリス軍人Mの姿はなかった。待機命令がかかったという。彼だけではなくRAF(Roiyal Air Forceイギリス空軍)に所属する何人かも来なかった。今から思えば、イギリスとアメリカの密な関係がよく伺える。戦争ではなくテロ事件でありながら、これだけの規模になるとすでにイギリスは何らかの出動体制を整えていたということになる。 

 新聞にその事件の一報を聞いたときの各国の首相、大統領の行動、言動が一覧になって掲載されていた。時差の関係から、深夜の国や食事中、会議中などまちまちである。今までテロの恐怖にさらされた経験のある国は、非常事態宣言を布告している。(日本、小泉首相のコメントはどの様に英訳されていたか覚えていないが、同じ内容のテレビ放送の時、小泉首相が沢山のジャーナリストに囲まれてインタビューを受けていた。第一声は、怖いですね。わが国も気をつけねばならないですね。だった。テロップでそのまま英訳されていた。その後の映像も、それについての司会者のコメントは何も無かった。)

 夜の街で異様な光景を目にするようになったのはその直後のことだった。当時アフガニスタンがテロリスト捜査に非協力であるとか、パキスタンの上空を軍用機が通過することを許可するかしないかで、ムシャラフ大統領が窮地に追い込まれた事など、遠いアメリカで起こった事件は大きな池に石を投げ入れたがごとくその水紋を広げていた。イスラム教徒やMiddleEast出身者に嫌がらせや危害が加えられるようになり、多くの女性子供は家から出ることに恐怖を感じていた。今まで水面下に押さえられていた人種差別や、宗教差別が表に出ることを公然と許されたかのようだ。何気ない言葉は普段なら笑って済まされる事柄をセンシティブなものに変えた。それは直接私の周りでもじわじわと広がり始めていた。

 私の友人に軍関係が多いことは先ほど述べた。それは単なる偶然で、英会話学校のクラスメートであったり、OXFORD UNVでイスラム教学を履修していた時知り合った者、Pubで相席になった者、近所に住む者、また、友人の彼氏やご主人だったりと場所も国も年齢もまちまちである。当時の私は無意識の部分と意図的な部分とで彼らを引き合わせていた。どうもよそよそしい2人の関係の理由が、国同士の政治的背景にあったり、いまだに植民地支配の意識の呪縛めいたものから抜け出せない者もいた。しかしその意識は一部の人だけではない。また、日本人に関係ないことでもない。4年ほど前になるが、私は1度だけ某日本近隣諸国のアジア人にワインをかけたことがある。大人気ない、誰が見ても大人気ない最低の行為である。私にとってたった一度(であってほしい)恥づべく行為である。

 彼も私も共通の友人宅で開かれたボジョレーパーティーの招待客だった。普段おとなしく無口な彼はアルコールの勢いに任せると、私に日本の戦争責任について語り始めた。本来なら、このような場でタブーとされるその話題を、初めは小声でまわりを気にしながら、何となく私とそういう場を求めていたかに思えた。だが新物のボジョレーワインは彼の鬱積していた重い心の内を爆発させたのである。声を荒げ、私のCalm down please.も聞こえない。そうなると周りも黙ってはいない。オリーブを持ってきてくれたり、私の援護に回るものや、話に割って入りどうあっても関係ない飼い犬の話をしたり、直接彼を制する者すら出てきた。周囲の不快の目が気になり、外に行こう.別の日に会おうと言ってみたのは彼の戦争節が最高潮になって30分を超えたあたりからだった。自国語とたまに知っている日本語を交えながらの彼の英語は聞きづらく、やけにののしりの汚いワードだけが耳につく。日本は謝れKayokoも謝れに発展し、彼の手からグラスを取ろうとするホストの胸にヒジを入れた.。これはおさまらないと外に連れ出そうとすると、おまえも日本政府と同じで逃げるのか!と。 天皇、政府、国民、マスメディア、学校教育ととにかくよく日本のシステムを知っている。わたしの知らないことまで同年代の彼はよく知っている。(歴代の首相の名前と失脚した理由まで言えた)よくぞここまで日本についての知識を叩き込まれたものだと感心すら覚える。1時間を有に超えたとき、彼の口走ったBrute(鬼畜)の言葉で私だけではなく他のゲストの酔いもいっぺんに覚めてしまった。一瞬波を打ったように静かになった。そこに居合わせたもう一人の彼とは別の近隣諸国の男性が、自分の持っていたワイングラスを私に渡しながら、小声でつぶやいた。 もう怒ってもいいんじゃない?私は反射的に目の前にいるアンチジャパニーズの顔をめがけてグラスを空にした。

 この話には、後日談がある。3つある。まず1つ目はその場に居合わせたゲストたちの反応である。彼らは私の受け答えから、日本人の忍耐強さ、芯の強さを感じたと言う。そして、誤った歴史的解釈があるのではないかと口々に言っていたというのだ。私があまりしゃべらなかったのは、そんな意図をもくろんでのことではなく、単に英語がわからなかった事と面度くさかっただけのことである。沈黙は金。すばらしい言葉である。(ただ、あまりに反撃しなかったことで、私の日本に対する愛国心が疑われたと言うのも事実)

 2つ目は私にワイングラスを渡してくれた大学教授。彼の本心は日本人が嫌いである。彼は西洋における東洋の植民地支配、サイードについての研究者である。彼はたびたび私に意見を求めてくる。Kayokoの国もおれたちの国を支配していたことがあるよなあ。わかった。西洋人ブリたかったのだろう。などと、冗談なのか、本気なのかわからないことを言って来る。 −ポジティブじゃないよね。聞いていて腹が立ってきたよ。いいかげんに終らせたいな・・−

 驚きである。ワイングラスを渡した国とワインをかけられた国。関係がどのようになっているのか興味の湧くところであるが日本に対する戦争責任でタッグが組めるお国同士である。その彼がぽつんと言った言葉。私も本当だ。と思う。彼もまた、自国を離れ三者的な目で自分の国と未来が見れるようになったのだと思う。

 もう一つ、ワインをかけられた男性。翌日巨大な花束とホストを連れて謝罪にやってきた。彼はジャーナリスト(カメラマンだったかもしれない)の卵で妻子持ちだった。娘さんはキムタクの大ファンで日本に留学すると言う。(今ごろ留学中かもしれない) その後彼と連絡をとっていないが、キムタク似の日本人が彼の息子になるなんてことになるかもしれない。娘さんの目を通して今の日本を愛してほしいと思う。

 本筋のMとSの話に戻りたいが、その前にこの一件について一言だけ申し上げておきたい。海外に住むとこの手の話にはよく遭遇する。戦争は過去のもの、過去は水に流して…などと言う日本的考え方は他国の人には通用しない。だが、私はこのような場合でも彼らには謝らないことにしている。それは戦争に対する責任逃れでもなく、私には関係ないという無責任な気持ちからではない。事実にわからない部分が多いこと、私は国の代表者ではないということからである。私が謝ると言うことは日本中の国民が該当国の国民と会うたびに謝罪しつづけなければならなくなる。私の子供も、孫も、そのまた子供も、未来永劫その呪縛から逃れられないことになる。そしてもうひとつ。戦争で死んでいった人たちを英雄視するつもりはないが、その死を無駄で意味のないもの、彼らは誤りであったとと宣言することなど到底出来ない。個人レベルで謝ると言うのはそういう事なのである。どう対応するのがいいのか今ここで言及は避けたい。そしてもうひとつ、日本の学校教育の場で戦争についての説明が不充分であることは否めない。しかし、エスカレートしていく被害者意識は時として架空の事柄を真実と受け止めてしまうことがある。一つだけたとえ話をすると、ある20才代前半の中国人(あえてここでは国名を記す)から戦争当時についての質問を受けた。あくまでも質問だ。誤解のないようにしていただきたい。 戦時中、捕虜の中国人を日本に連行していき山に置き去りにし、トラに食べさせたというのは本当か?と。怒りより笑いがこみ上げてきた。日本の山中に野生のトラなどいない。その話しの出所を聞いて驚いた。学校の先生から聞いたと言うのだ。授業中の話しなのか、日本人を怖がらせるための冗談めいたものなのかわからないが、明らかに捏造された作り話であることは確かである。(そういえば、ラストサムライの初めにもトラの映像がフラッシュされていた。)

 イギリス軍人Mは不在がちになった.。どこでどのような活動をしているのか聞かないことにしている。TVでアメリカファイヤーファイターの死者の数が見るたびに増えていく。誰かの涙を映し出さない日はない。アフガニスタン進攻は着々と進み各国から兵士たちが集結していた。アメリカ側の映像は悲しみに暮れる人達を映し出し、それとは対照的にイスラム圏では男達がアメリカの国旗に火をつけながら歓声を上げていた。アルカイーダ一掃作戦はここイギリスでも行なわれていた。家のすぐ近所でも、オサマ・ビンラディンに関係するアジトの発見で日に日に警察官の数が目に付くようになった。

 そんな折、Mの留守を預かるSがやってきた。国に帰るという。このままではイギリスからの出国も危ぶまれるので今のうちに.と。日毎に高まる一部のイスラム排除運動が私も気になっていたので、治安が正常化するまでそれもいいだろうと思った。しかしSはもう帰ってこないつもりだと言う。黒いひとみがやけにはっきりしている。だいぶやつれていた。Mのことが心配なのだろう。国にいるご家族が心配なのだろう・・・。すでに嫌がらせの言葉を浴びせられたり、国に帰れと近所のティーネージャーに言われたりしていた。だが、Sの顔色から事はそんな程度のことではないと直感した。聞くとMのご両親からキリスト教に改宗するようにと再三促されたと言う。Sが断ると、一人息子Mの出世の妨げになるので拒否するのならば別れなさいという。Mの父親は退役軍人である。イスラム教徒である事と、MiddleEast出身であることが問題なのだ。もしイギリスとあなたの国が戦火を交えることになったらMはどうなるのか・・・と。親ならばして当然の心配事である。ご両親を責める言葉などなかった。Sもそれはよく心得ている。

 彼女の帰国のタイミングは正解だった。日を追うごとにチケットは取れなくなり飛行機のキャンセルが相次いだ。 そしてこの時期私の家には毎日の様に来客があった。帰国の為に皆が別れの挨拶にくる。彼らの多くは英語を学ぶためとヨーロッパの文化を学ぶために来ていた。

 パーティーを開くたびに新顔が増えていく。国同士のからみがあり始めは目も合わさなかった者同士がいつのまにかいっしょに食事をする中になり、冗談を言い合い、自国の自慢話や、気になるところを言葉にするようになり、母国語で女のこの口説き方を教え合う。それにはかなりの時間を必要とした。誰もがここは不思議な空間だと言った。国にいれば決して交じり合うことのない人たち、軍人同士が心を通い合わせ友人になっていくのだ。それぞれの国での軍の話を聞くのが私の楽しみになった。サバイバル訓練でトカゲを食べた話しやヘリコプターから海上への降下訓練の際、新人はサメのいる海域に連れていかれそこに降下されるというのだ。新人は青ざめ大騒ぎになるという。(その程度ではサメは襲ってこないというが….)初めてのパイロット訓練で意識を失った話し。女っ毛のない宿舎で新人に女装をさせた話し。何を聞いても新鮮で身を乗り出して聞いていた。もちろん彼らは私にいつも気を使っている。聞かせたくない話はしないし、私が同席している時と、彼らだけの時と話しの内容が違うようなのだ。

 しかし、ワールドトレードセンターでの出来事は彼らの間に修復の出来ない亀裂を生んでしまったのだ。最初に帰ると挨拶に来た友人はサウジアラビアの軍人だった。自分の国がどちらにつくかなんてたいした問題ではないと言っていた。自分は敬謙なイスラム教徒だから・・・と。私は彼にもSと同じことを言った。落ち着いたら帰っておいで、新年会をやるから。−彼が返事をしたかどうかは覚えていない。でも彼はわたしの知らない何かを予感していた。その時の私には世界がこれほど大きな事態に発展していくとは思いもよらなかった。

 次に別れの挨拶に来た友人もMiddleEastから来ていた。数週間前に、返す気はないからと言いながら持っていったCDを返しに来たのだ。持ってていいよ、と言う私の言葉に多分もう返せなくなるから.と言った。そして彼は新年会の誘いをはっきりと断った。その時私は、初めて彼らが戦地にいくのだと理解した。それからどれだけの人が会いに来てくれたのだろう。政府関係の職につくある者は政府から危険だから帰ってこないようにと命を受けた。またある学生は危険な状況だからこそ母国へ帰るのだと私の制止を聞かなかった。

 柄にもなく花を買ってくるものや、今すでに空港にいると電話をくれるもの。口々にありがとうを言う。電話もかけられないし、住所も教えられない。Kayokoに手紙も書かないと言う。この先何が起こるのだと誰に聞いても曖昧なことしか言わない。

 ある日、アメリカに帰る友人が来た。仕事できている彼は何度もアメリカとイギリスを往復している。軍でどのような職務に従事しているのか聞いたことがない。興味もない。私にアメリカがよく言うFreedomの本当の意味を教えてくれた。同僚が彼の名前の前にタイトルをつけるところから下級兵士でないことはわかっていた。彼も帰るという。どうしてなのか彼になら聞いてもいいような気がして、はじめてこれからどうなるのかを聞いてみた。普段から穏やかな彼が一段とゆっくりと話してくれた。でもその内容は私の期待していたものとは違う。おそらく私は半狂乱状態で彼に問い詰めたのではないかと思う。実は彼が何をどう説明してくれたのか覚えていない。一度も視線をそらすことなく、なにか運命の話をしていた様に思う。私の質問は避けられた。

 その時またの来客だった。玄関先で話し始めたので中へと促すと少し躊躇し中の様子を探っている様だった。いつもなら、ノックもせずに入って来る。自称女の子に大もての彼が女の子連れで来たことはついぞなかった。無言で居間の方向を指差して、黒く太い眉毛を持ち上げた。どうしてかわからないが、誰を指しているのか直感的にわかってしまった。いるよ。と私は答えた。一瞬ためらって、今日は帰るという。そして少し声の調子を上げ、よろしくと伝えてよ。そう言いながら下を向いてしまった。最近よく見る光景、背中を丸めた大の男は急に小さく見える。顔を上げずにそのまま歩き出してしまった。居間に戻るとFreedomのアメリカ人は突っ立っていた。彼もまた小さく見えた。急に涙が止まらなくなった。もうすでに彼らは友人でいられないことは無知の私にも悟ることが出来た。 たまらなくなって聞いてしまった。撃つの?戦場で会ったら撃てるの?友達撃てるの?  軍隊を持たない平和ボケの国から来た日本人。決して言うまい、聞くまいと思っていた言葉が口をついて出てしまった。どれだけの暴言を吐いたのか記憶にないが、2階にいた息子が慌てて降りてきて私を制した。背中を丸めた彼は一言も発せず黙っていたが、そのまま玄関から走り出ていった。 その間、次から次へと自国へ帰っていった彼らの顔を思い出していた。もしかしたら、会えないのかもしれない。初めてその現実を肌で感じた。

 数分後アメリカ人は帰ってきた。濡れたブルーアイはいつもより細く見えた。私よりはるかに彼らのほうが心に痛手を受けていると気がついたのは、ずっと後になってからだ。先に出ていった彼と何を話したのだろう。

 さっきの質問だけど・・・彼は言った。 We can fire.(撃つよ)

 Sが国に帰った後しばらくしてMから電話があった。自宅に戻るとSが居ない。帰ってしまっていたというのだ。連絡が取れなかったから仕方ないでしょう。と言った後でMはご両親の一件を知らないのだろうか?と気になった。私がしゃしゃりでることではない。とは思うものの、私しか知らなかったら後からMに恨まれるかもしれないと思った。案の定、彼は詳しいことを知らなかった。自分が不在の間、Sを実家で見てほしいと頼んだらあっさりと断られたという。そのご両親の口ぶりから、結婚にあまり肯定的でないことは気がついたという。イギリス人は結婚問題や離婚問題に親が介入しない。驚くほどクールに割りきっている感がある。相談などもしない。事後報告が通常である。ではあるが、やはり人の親。息子の将来が危ぶまれればこのようなこともするのである。

 翌日、Mとサンドウィッチハウスで待ち合わせをして会うことにした。5部刈りかと思うほど短く切られた(剃られた?)髪の毛で一瞬誰だかわからなかった。話しは想像を超えるほど複雑なものになっていた。Sには言えないが、Mのご両親のみならず上官や友人にいたるまで皆この結婚には賛成しかねているというのだ。もし私がティーネージャーや二十歳そこそこだったら、愛があれば大丈夫!なんてくさいことも言ったかもしれない。しかしそこはキャリアをつんだ大人の世界。しかも一朝一夕に登ることの出来ない階級社会である。この機会をすてて、二人の愛を貫けなんて無責任なことは言えそうに無い。

 まるでロミオとジュリエットだね。と言ったら、彼はTo be or not to be....とうす笑いを浮かべながら言った。(ちなみにそれはハムレットの台詞)正直、心のどこかで恋愛ごとき・・・と思っていた。何人もの悲しい別れを経験した後だけに、この非常時に慌てて結論を出さなくてもいいでしょう。というのが本心であった。他人の不幸の疑似体験は出来ないが、自分に当てはめてみると・・・・。辛いものである。では息子に当てはめてみると・・・親御さんの気持ちがよくわかる。軍の上下関係の難しさは到底理解できないが20年以上かけて築き上げたMの を、無かったものにすることなど簡単に出来るものではない。何とか上手い方法はないものだろうか、彼の立場も、彼女の気持ちも親御さんの気持ちも全て丸く治める方法などあるのだろうか?上官の意に反すると言うのはどういうことになるのだろうか?それぞれからかかってくる電話やメールで二人の気持ちが痛いほどわかる。

 それから暫くの間私は、誰と話す時でも言葉を選んで話さなければならなくなった。このようなテロ行為や戦争行為には、両側それぞれの言い分や立場がある。テロ行為や戦闘行為は否定できても、それにまつわる本当の姿や話しはなかなか真実として伝わってこない。私達が受ける情報ソースのほとんどは西側からのものと考えてもよい。偏った報道のあり方にも1問を投げかけたい。

 結局2年後、Mは結論を出した。Mは配置転換を願い出た。エリートコースから外れた道を選ぶというものだった。遠征も無ければ命の危険も無い。家族との時間を手に入れたと同時に、将来の王道を捨ててしまった。親とはギクシャクしたままだと言う。

 スコティッシュキルトを身にまとったMの訓練所時代からの親友のベストマンと、Sの弟の弾くピアノでウェディングセレモニーは行なわれた。その小さなパーティーに驚くほど軍関係の友人は少なかった。もちろん上官の姿も無い。初めて見る正装の軍服の胸には、2つの勲章が誇らしげだった。愛用のそして2度と使うことの無いサーベルでケーキ入刀は行なわれた。そして今年4月に二人の間に子供が生まれた。2人はMの父親の名前を息子につけた。

 人を幸せにするはずの宗教は時として人生を狂わせてしまうことがある。別れた友人達からの連絡は無い。信じたくない連絡も受けた。生死の確認すら取る方法が無い。今回のエッセイはどこか映画や小説の世界の話しのようだと感じる方もいるかもしれない。だが、全ては現実である。こうしている間にも世界のどこかで戦争は起こり、尊い命が失われているのだ。日本人にはとかく弱い。宗教や人種、民族といった複雑だが避けてとおれない問題を、出来るだけ早く学校教育で本格的に取り扱ってほしい。そして、国際舞台での発言権を持てる様、力をつける必要があると感じる。また、泥沼化していくイラク情勢の一日も早い復興と友人達との再会を心から願ってやまない。