稽古――伝統教育のキーワード――1  

 

                      人間科学専攻 5期生 杉浦聡

 

筆者について

1960年東京生まれ 日本音楽演奏家

三味線、箏、伝統的な発声法などの演奏教授活動の他に、日本の胡弓の保存伝承につとめる。昨秋リリースしたCD「日本の胡弓−杉浦聡の世界」は文化庁芸術祭参加作品に選ばれる。岡本千弥(おかもと・せんや)の俳号で、第一句集「ぽかん」がある。また、1992年ごろより麹町の若旦那としてマスコミに多く出演し、和楽器ブームの先駆けとなる。

 

 
   

 

こどものころになにかの習い事をしたことがある方、たとえば楽器を習ったことのある方でしたら、こんな会話を交わされたことがあると思います。

「あしたはバイオリンのレッスンよ、ちゃんと練習したの?」

ところがこれがお箏ですと、

「あしたはお箏のお稽古よ、ちゃんとさらったの」

となり、お箏のレッスン、という表現にならないのが、わたしのこどものころの一般的なあり方でした。

日本の伝統的な稽古事に縁がなかった方にとっては、このふたつのことばのニュアンスの差がわからないかもしれませんが、わたしのようにその世界に生きるものにとって日本の稽古事に「レッスン」ということばを当てはめると、なんだかミートソースで和えたうどんのように日本の伝統的なものを西洋風に味付けしているような気がして、違和感があるのです。

逆に洋楽器ではどうかというと、明治以降に稽古事として行われていたクラシック音楽などでは、バイオリンのお稽古などという表現も多くなされています。

ちなみにわたしの卒業した音大では、個人指導の実技授業はすべてレッスンと称する慣習があったので、在学中は箏や三味線の実技について何のためらいもなく、箏のレッスンとか三味線のレッスンといっていました。これは土足のままの椅子奏で、ふだんは着物でしか教えない先生でも学校の授業のときは洋服姿になるという教育環境でしたから、レッスンという外来語を用いても違和感がなかったためでしょう。もっとも、大学を卒業してからは畳に正座で習うという環境で行われているものを、あえてレッスンという外国語で表現しようと思ったことはありませんでした。

ここで、稽古とレッスンというふたつのことばの使い分け方をわたしなりに整理してみますと、まずその稽古事が生まれた場所が日本か外国かというアイデンティティに着目した分類のしかたがあると思います。つぎに、日本以外で生まれたものでも日本で稽古事として行われるようになった時間が長いか短いかという、時間の長さによる分け方があると思います。そして、最後の音大での例のように、教育の環境やシステムにおける分け方もあるようです。

さて、稽古とレッスンの使い分けはいずこに根拠があるか、などということをお話ししたのは、そもそも稽古とはなんぞや、ということを最近考えているからなのです。

「これからお茶の練習にいくの」

という会話を去年の秋ごろ、仕事帰りの名古屋の喫茶店で聞いたのが、その発端でした。

真後ろの席の中年の女性でしたが、私の中に何かの違和感を生じさせたそのことばは、しばらく私の頭に残り、帰りの新幹線の中でも、なぜ違和感が生じるのかということを考え続けさせたのです。

そして思い当たったのは、練習ということばの使い方が変だということでした。

ふつうお茶を習いにいくのだったら「稽古」ですよね。まさか「お茶のレッスン」ということばが一般的とは思えません。……もしかして最近は一般的に使われているのかな?

お茶の練習が変なのはなぜかと考えていて、静岡を通りすぎるあたりで思い出したのが冒頭で紹介した、

「あしたはバイオリンのレッスンよ、ちゃんと練習したの?」

という母のことばでした。

つまり、先生に習っている状態は「稽古」もしくは「レッスン」で、自分が復習している状態は「さらう」もしくは「練習」となるわけです。

家に帰って漢和辞書をひいてみると、日本語の稽古ということばは、むかしの中国では「古の道を考える」という意味であったものが、日本では学習する、復習する、練習する、という意味をもつことばとして使われるようになった、とありました。

言い換えれば稽古ということばは、新しいことを学ぶということは即ち今まで習ったことを復習しなくてはいけない、という深い意味と、新しいことが身につくまではひたすら練習するという意味を併せ持ったものである、といえるでしょう。

レッスンを英和辞典で引くと、学課、 学校の勉強、授業、学習の課題、稽古、教訓、戒め、叱責、という意味が紹介されていることからもわかるように、学ぶという意味はありますが、日本的な稽古という訳語 に内在している練習する、復習するという意味は強くないようです。おそらく、レッスンということばには、新しい局面に出会ったらば新しい解釈を創造する、という思想があるからだと思われます。

多くの日本の稽古事は、師匠のすることをまねることにはじまり、最終目標を師匠とそっくりになることに設定しています。これは個性と個人の想像力を重視する現代の教育とは全く方向性が違うため、没個人主義、あるいは封建的と評されることが多いのです。しかし、多少の弊害があっても、現在もこうしたあり方がそのまま残っているのは、稽古というものが日本の伝統的なものを習うのに際して、最も適しているからなのでしょう。

稽古においては師匠と同じ表現ができるにようになるための、肉体訓練を重視します。つまり、表現のための道具として体を作っていくわけです。この段階を「修行」といいます。最近では、陰山英男さんの百ます計算や、斉藤孝さんの大ヒット作『声に出して読みたい日本語』に代表されるように、考えるよりも動く、という旧来の稽古の方法と似た教育法も再評価されてきています。

稽古、修行といったことばの本質を探っていくと、日本の伝統的な教育のあり方と現代の教育についてのなにかが見えてきそうです。というわけで、結論らしい結論がない文章になってしまいましたが、「稽古」ということばの 今日的な意味を探るのも面白いとわたしの中では勝手に盛り上がっておりますので、ときどきここで中間報告ができればいいな、と思っています。