追及と帰結 〜責任ある社会の構築のために〜     

 

 

                                                                                                

                                                                 国際情報専攻1期生・修了  斉藤俊之

 

 

 

 

 

 


 信用、信頼が揺らいでいる。法律や制度を決める人が「制度が難しい」を理由に払うものを払っていなかったり。取り締まり、悪を退治することが使命、職責である人が裏金に組織で手をそめていたり。道徳や科学の仕組みを教える人が道徳を公然とやぶる。というニュースが絶えない。

 

 「またか」で済ませられないのであるがどうしたらいいのか、出口、解決策がわからずに、またたくまに列島を追及の波が押し寄せ、声があがる。しかし、しばらくすると時間とともに「あきらめ」「しらけ」で関心は薄らぎ我々には消化不良の感だけが残り、よくわからないで消えて行く。

 

 では、その問題の責任はどう誰がとったのかといえばこれが曖昧である。問題の追及の終わりには責任の所在と責任の取り方そして同時に赦しがあるはずだ。

 

 最近、よく使われることばが「自業自得」とか「自己責任」という言葉である。なにかにつけて「自己責任」ということばで追及の帰結が片付けられる風潮を感じざるおえない。この「自己責任」だが受ける行為を理解し自分の判断に否があったと理解した上でいわれるならよいが、実に理解できないことを耳にする。

 

 例えば、「盗難通帳による詐欺事件」。銀行の窓口で本人かどうかの確認ではなく、引出し払い出し用紙の記載事項と通帳の届出印章が合っていれば、落ち度は銀行にはありません。というもの。だまされて、自分の知らないところで一度に数百万円も払い出された方はたまらない。取り扱う銀行の使命、役割ってなんだろうか。

 

 さらに、医療現場における「インフォームドコンセプト」。確かに自らの病についてどういう状況にあってどういう処置法が残っているかを知るのはとても大切なことである。しかし、この制度の用い方、説明の仕方で様相がかわる。つまり、どちらの処置法を選ぶのが患者によいのかという判断。これは患者自ら決めるというより医者でなければわからない。医者でなければわからない処置法を患者に選択させ、本人がそう選択したのだからという発言はなかなか理解できない。よくわからずして結果、最悪の事態を迎え、それは自己責任ですといわれても納得できずに自己に責任を負うべきなのだろうか。医者の使命、職責ってなんだろうか。

 

 みなさんの声を議会へと訴えて当選した議員が、選挙が終われば地区を回りながらの地域の声も聞かずに、私利私欲で発言し、うまくいかないと「こういう議員達を選んだ有権者が悪い」と発言する。議員、政治家の使命、職責ってなんだろうか。

 

 これらの原因はそれぞれの職業(仕事)における使命や役割がそれに就いている本人が理解していないのか自覚していないのかあるいは職責というものが判らないのかであろう。責任という投げられた玉を最終的に誰が受け取るのかがはっきりしていないことにある。いや、追及のあまり責任を取りづらくしているのかもしれない。

 

また、追及する方もどこまで追及しどこで赦すのか、そのタイミングがわからない。問題が発生したと同時に一斉に追及の論調となりそして不思議と時間の流れとともにいつしかその問題への関心は薄らぎ「どうでもいい」になってしまっていることが多い。ポイントは、どこまで追及しどこで止め、お互いの納得する点を求めるのか。どこで責任をどう取るのか、どこで赦すのかを見つけ出す努力と技術を互いに持つ事ではなかろうか。

 

情報化時代の中で今や情報の共有化はかなり進んだ。知りたいこと、興味あることはインターネットにより瞬時に大量に得られるようになった。情報を得る技術はかなり浸透している。結果、問題の追及も容易い。しかし、忘れてはならない。物事を為す際には必ず責任がつきまとう。その最終責任は誰にそしてどこにあるのか。責任を追及する手法、責任の取り方、そしてどう赦すのかという事は常に裏腹にリンクしている事にもう一度気づくべきであると思える。特に「赦す」ということ。この着地点をどこに持つか、探す努力、見つけ出す、いや見つけ出そうとする積極的な気持ちを持つ事が何よりも大切だ。このことこそが責任ある社会の構築には不可欠であり、「信用」「信頼」の回復の一助につながるのではないか。

 

追及の仕方上手と赦し方上手であることが今、我々に求められているといえよう。