国際情報専攻 池田昌弘

 

        「他山の石」

 

   


1.石の話

入学してからの2年は、短いながらとても急峻で険しい道のりであった。私は、半導体企業に所属する開発技術者である。この業界では、自ら設計・製造する半導体製品を、愛着を込めて「石」という。日本の「石」の競争力は1980年代に世界に敵無しであったが、1990年代後半には競争力を失い負け組となってしまった。ではこの「石」で儲けるにはどうすればいいのか。ちょうど3年前のこと、自分なりにこの閉塞した状況を整理する目的で、入学しようと思いたったのである。

 

2.石の上にも3年

テーマは半導体の製品開発戦略と迷わず決めていたことは、後で幸せと不幸を同時にもたらしてくれた。入学前の一年間は、技術的視点から離れて「石」を考えるよう心がけ、研究計画に盛り込み入試に臨んだのである。

修士一年目、ほぼ隔月で行われる五十嵐ゼミでは、各ゼミ生が、研究テーマの進捗を報告する。私は、入試で作成した研究計画書に従い、全体の論理構成、章構成を毎回微調整しながら発表していた。特に大きな問題点も指摘されず、ゼミの仲間からは順調と思われていた。内心では、指摘が無いのは進展が無いためではないかと不安を感じていたが、資料収集以外はほとんどできないでいた。修士一年はレポートを出すだけで手一杯であった。仕事で問題が続出し、23時前に会社を出ることが不可能であった。帰宅してから勉強を開始できるのは25時、土日もいずれか一方は出社という日々が続いていた。レポート提出後は、気力・体力ともに完全に腑抜けてしまっていた。

一点だけ心がけていたのは、五十嵐教授の選択科目は自分の修士論文研究と結びつけて考えろとの言葉であった。修士論文と選択科目を結び付けてレポート作成したことは、知らずに自らの研究課題の昇華に役立っていた。そして、思い立って3年目、まさに「石」の上にも3年となる修士の2年生となった。

 

3.石橋を叩いて渡る

 私は、パソコン暦20年の大ベテランである。学生時代の趣味はプログラミング、社会人になってからはパソコン自作を楽しみ、パソコンは生活の一部である。しかし、安心のそばに、落とし穴はあるのである。

修士2年に入り、統計データの加工を始めた。私は、この修士論文の最大の売りは半導体業界をシミュレーションにより実証することと決めていた。そのために必要と思われる数値(財務諸表や生産数)をHPや統計年鑑や新聞からとるのは、大変な作業で数値収集だけで10月になってしまった。従って、10月25日に行われた修士論文中間報告会は、4月の時点のゼミ発表とほとんど同じ内容であった。

しかし、11月の声も聞くとさすがにシミュレーションばかりともいかなくなり、半導体の開発やケーススタディなどを書き始めた。12月も終盤になり、二つの不幸がやってきた。まず、最初の不幸はノートパソコンが、まったく立ち上がらず、ハードディスクは異音を発生しはじめた。このとき、たった20ページの修士論文であったが、当時の私には全財産である。何とか修士論文を救わねばと、全精力をパソコン復旧に向けた。パソコンの解体をしたり、新規のOSや既存のOSインストールを繰り返した。復旧するまで、10日間を使用した。書き直せば、3日ですんだことを考えると、パソコン復旧は正しい判断でない。この時点でなんと12月28日である。

そして、二つ目の不幸がやってくる。翌12月29日に修士論文提出締め切りが1月15日であったと気づいたのである。「えっ、2月15日締め切りじゃないのか」、とんでもない勘違いをしていた。今日から、残り4分の3の60ページを二週間で書きあげ、シミュレーションを終了しなければならない。そこからは、一日おきに徹夜で、寝る日もソファで仮眠であった。世間の正月も終わり、まだ、シミュレーションは結果が無いが、五十嵐教授に論文を見てもらい本文や構成に手を入れてもらった。その後、300行のシミュレーションプログラムを1日で書き上げ、各種条件の計算に2日使用した。そして1月13日、体裁を整えてプリントアウトをし、何とか締め切りに提出できたのである。

当たり前だが、バックアップを取ることと、締め切り日時は確認すること、である。念には念を入れて、石橋を叩いて渡るぐらいの慎重さがあったら、こんな自体には陥らなかったであろう。

 

4.石頭

 色々あったが、修士論文の研究は、五十嵐教授の指導の下、ほぼ当初の目的どおりに書き上げることができた。私が石頭だったばかりにわがままを聞いていただいた点も多くあり、大変感謝している。それでも、業務を離れた客観的な目で、半導体業界を見ることができ、人間的にも成長できたと思う。以上、「石」のことばかり述べてきたが、修士論文をやり遂げるのに一番重要なのは、やはり自分の意思である。