国際情報専攻  佐藤勝矢

         「わが身の非力を思い知る」

       

   


 私が修士論文を書き始めたのは1年次の1月末だった。昭和初期の政府と軍の関係がテーマである。3月には第1章、4月には第2章の半分まで書き上げる快調な滑り出しだったので、正直なところこの調子なら余裕だと思った。しかしとんでもない勘違いであった。

 5月初め、いよいよ本題となる第3章に取り掛かっていた。途中経過をゼミで発表すると「これは論文じゃないな。読み物だ」と、乾先生からの厳しいご指摘。ゼミのみんなにも笑われた。私は頭を掻き掻きといった調子で、まだまだ危機感のかけらもなかったが、これがわが身の非力を思い知らされることになる転機だった。

 それじゃあ読み物から論文に軌道修正しようじゃないか、と思いきや、なかなか簡単にはいかない。一旦書いてしまった文章を一体どう修正すればいいやら。なんとか論文らしくしようと切り貼りを繰り返すが、思うようにいかない。資料は大体揃ったというのに、歩みは止まった。駄目だ、根本的な手直しが必要だ。

 また、気がつくまで時間がかかったが、実は随分前から病に冒されていた。私ではない。パソコンである。文章を打っていると突然電源が落ち、折角の苦労が全て水泡に帰すということが連日繰り返され、やり場のない怒りが募る。ヘルプデスクの八代さんに相談すると、何者かに遠隔操作されているという。八代病院で治療を受けて再出発。

 そして「読み物」原稿を破棄して初めから書き直すかどうか迷った末、強行突破を決意。全部でき上がってから推敲すればいいよ、と開き直って7月、強引に第3章を完成。

 さあ、第4章だ。私の場合、張作霖爆殺事件と統帥権干犯問題の2つの事件を軸としたため、目を通しておくべき先行研究や参考図書は多い方だったと思う。参考図書は古くて既に絶版になったものが多く、地元の大学や公立図書館、そして日大図書館に貸し出しや複写をお願いして送ってもらうなどして集めた。これをいちいち読むのも一苦労。この作業で第4章の統帥権干犯に入る頃には息切れが始まっていた。

この時が8月。明らかに進行速度が落ちている。私は4章まで書いてまとめる予定であったので、まだ焦ることもなさそうなものだが、まだこれから集めなくてはならない資料もある。

仕事の休みを利用して上京し、国会図書館の憲政資料室へ行った。とある軍人の日記を開けてびっくり。今まで殆ど活字資料にばかり頼ってきた私。あまりに個性的な字で判読不能。日記なんだから、人に見せることなんて考えている訳がない。書いた本人が分かればいいんだから当然といえば当然。資料を目の前にしながら為す術もない。

それならと、お次は政治家の書簡に活路を求めた。

「おおっ達筆・・・すぎて何て書いてあるのかさっぱり分からん」

 完敗である。何の成果もなく敗残兵のような惨めな心持ちで東京を後にし、日を改めて再度上京。今度は防衛研究所の史料閲覧室である。目を通したいものはたくさんあるが、ほんの数時間ではとてもメモしきれない。何度も通うこともできないので最低限の要点だけメモして、あとは全て複写を依頼した。後日に自宅へ郵送である。

ところが資料は待てど暮らせど届かない。電話で問い合わせると、1カ月ほどかかるのが普通という。がっくりと頭を垂れた。

さらに病気がちなパソコンが大流行の病気に感染し、再び闘病生活。気が焦るばかりで、原稿は一行も進まない。既に書き上げている部分をたまに手直しして、心の焦りをごまかす日々。こんな状態が1カ月以上続き、本当に完成させられのかと不安を募らせていた。

「逃げよう。まさか先生も追っかけては来ないだろう。去る者は追わずって言ってたし。通信制なんだから逃げるのも簡単だ」。気分的にすっかり追い詰められていた。 

更に会社からは転勤命令。もう論文どころじゃない。宿も探さなきゃならない。

ところが不動産巡りが意外にもいい気分転換になり、調子を取り戻し初めた。集めた資料を地道に吟味しながら、ゆっくりとではあるがようやく軌道に乗り始めた。

 10月下旬、中間発表に挑戦。質問に立ち往生しないか心配であったが、なんとか乗り切った。のみならず、嬉しいことに、ここで新たな着眼点を先生方から授かり、ここから一気に一応の完成へと向かうことができた。感謝感激である。

 12月初旬、ひと通り書き終え推敲に入った。ところがなんともお粗末。主語と述語の不一致や甚だしきは資料の読み違えや人名の誤りさえある。元々が悪文のため、とにかく思うようにいかない。一生懸命やっているようで、実は殆どが単なる校正作業である。最後に推敲をするのは当然として、やはり初めから完全原稿を心掛けておけばよかった。

また、資料の再確認が必要になると、その度に部屋中引っかき回していた。複写資料は極力整理していたつもりだったが、甘かった。資料の再発掘にとられた時間は大きい。推敲してるんだか、家宅捜索してるんだか分からないほどである。

とにかくできるだけ木を見て森を見ずにならないよう心掛けながら何度も推敲し、12月下旬に最終稿として乾先生に全文を送った。これで一段落。しばらくは殆ど風呂に入る余裕もなかったので、身体中が痒い。垢を落として久しぶりに湯船に浸かった。

数日後、朱の入った原稿が先生から送り返されてきた。表紙には「分量はあるが、よく見ると粗雑。自分で推敲するように」と記されていた。推敲などしていないも同然という評価である。「ううっ、頭が痛い」。でも滅入っている暇はない。年末年始も関係なし。「振り出しに戻る」か。正月だからって、双六みたいなことしてる場合じゃない。

改めて自分の文章を読み直すと、間違いがぞろぞろ。こんなものを提出するつもりだったのかと、ぞっとした。何遍読み直しても誤字や意味不明な文章が出てくる。まるで間違い探しクイズだ。段々と自分の文章を読み直すのが怖くなってきた。

それでも何回も繰り返すうちに何とか、さまになったような気がする。再度先生に原稿を送り、指導を仰いだ後にまた推敲。相変わらず間違いが見つかる。

「まあ、この程度なら許してもらえるんじゃないか」とようやく見切りをつけ、印刷して宅配便で送ったのは締め切り前日、吹雪の朝であった。到着予定は締切最終日。間一髪である。初めの頃の余裕は跡形もなくなっていた。こんな筈じゃなかった。

原稿を託して宅配会社の営業所を出ると先程の吹雪が嘘のような青空。眩い日差しに寝不足の眼を細めた。乾先生をはじめとする先生各位、そしてゼミのみなさん、本当にありがとうございました。お蔭様でなんとか完成させることができました。

いや、終わってなかった。レポートが・・・・・・。