人間科学専攻 片岡公博
わが子に捧げる修士論文
このことばで1月12日、修士論文を結びました。論文最終提出〆切の3日前のことでした。何とか論文を書き終えることができました。実にこの半年間は短いようでとても長い道のりでした。 今回、電子マガジンに、修士論文執筆のさなか、私の身の上に起こったことを投稿することにしました。というのは、まことにおこがましいことですけれども、私の体験したことを語ることによって、仕事や家庭のさまざまな悩みに苦しみながらもそれぞれ学びを追求されている院生のみなさん、そして、これから学ぼうと志す方々にむかっても、自分なりにきっと何らかの貢献はできると思ったからです。どんなに苦しい状況下にあっても必ず希望の光は見いだせることを信じて。 それでは、私の「修士論文奮戦記」を語らせていただきます。 昨年の6月に3番目の子どもが生まれました。しかし、誕生してから約4ヶ月の長期入院。紅葉が散り始めた10月末にようやく退院。ところが、家族とともに順調に育ちつつあると思った矢先に、様態が急変。それは、ゼミ(特別研究)の修士論文最終発表会前日、12月19日のことでした。全くミルクを飲まなくなったのです。「なぜ、飲まないの?」と夫婦で喧嘩になりかけたとき、妻は、 「明日は大事な最後の発表会、今まで頑張ってきたんだもの、ここは私にまかせて。」 と子どもを抱えて救急に走りました。その日は、とても寒い夜でした。 妻のことばどおり、修士論文最終発表会は、ある意味、私にとっては、重要な意味をもっていました。1つには、10月25日(土)の大学院修士論文中間発表会で発表に臨んだものの全く不本意な結果に終わり、その反省にたって巻き返しを図る機会にしたかったこと、もう1つは、最終発表会を区切りに論文完成に向けてラストスパートをかけること。その2つが目下最大の目標になっていました。実は、その意気込みで臨んでいたところ、出鼻をくじかれた思いがあったのです。妻は、その消沈している私の姿をみて、「私が面倒をみるから大丈夫」と精一杯の思いやりのことばをかけてくれました。 「しかし、ここで明日東京に行くわけには・・・」という気持ちも一方ではありました。迷いました。上の子二人もいます。やがて、妻から電話があり、第3子は急遽入院することになりました。ところが、このときは、これから長い1週間が始まるとは到底予想できませんでした。 翌朝、大きな鞄を抱えて、上の子二人とともに新幹線に飛び乗っていました。やはり、妻のことばに甘えて、第3子は妻にまかせることにしました。妻はあれからずっと付き添いで病院に行っています。よくよく考えあぐねた結果、上の二人の子は、名古屋で途中下車させました。愛知に住んでいる義父母に改札まで迎えに来てもらい、最終発表会出席中、面倒をみてもらうことにしたのです。米原までは雪がちらついていました。そして、私は、関西とは打って変わって、晴れ渡った東京に降り立ちました。 修士論文最終発表会は2日間にわたっての開催でした。私の発表は2日目でした。1日目終了の夜、子どものことが気になってホテルから妻に電話しました。次の瞬間、衝撃が走り、凍りつきました。 「実はICUに入ることになったの・・・・・。」 妻のことばを疑いました。「なぜ?なぜなんだ!」真っ暗なホテルの一室で、家族で話し合った今後の目標も、修士論文作成の夢も打ち砕かれました。同時に、妻にまかせきりで東京にいることも悔やみました。「この電話のやりとりはきっと夢に違いない。」一晩中、ふとんのなかで何度もそう思いました。 翌日、私の発表の番がやってきました。入院したわが子のことを思う気持ちはやはり拭い去ることはできませんでした。そして、発表の最後で、指導教授の北野先生とゼミ生の前で思わず「この論文は1月の〆切日には提出できないかもしれません」と開き直り、告白している自分がそこにはいました。そのときの北野先生とゼミ生の温かく優しいまなざしは今でも忘れることはできません。 発表会終了後、新幹線の車窓には、今まで見たことない富士の雄姿がありました。富士山は美しく輝いていました。その雄姿に少々勇気づけられました。 しばらくの間、上の二人の子はそのまま、愛知の義父母にお願いすることにしました。 帰ってみると、わが子はICUで頑張っていました。妻と励ましあって、面会時間に臨む毎日になりました。職場には無理をいって、仕事を休む日々が続きました。 ICUで主治医の先生から聞かされることばで、日々ますます症状が悪化していることはわかりました。その内容は、医学現場の客観的なデータにもとづいてのものでした。そのデータは親としては目を疑いたくなる、信じたくないものでした。データや数値は便利で重要な情報を伝達すると同時に、その反面、結果を冷徹に伝える側面があります。子どもの症状が日々悪化しているのは現実としては紛れもない事実でした。不思議にも、身体にいったん悪い症状が生じれば、それに連動するように、さらに「これでもか」と新たな悪い状況がいくつも積もり重なります。まるで頭上に重たい漬物石が何個も落ちてくるような感じでした。けれども、そんな状況でも、必ずわが子は元の状態に戻り、生きてくれると親は固く信じるものです。 やがて、世の中がクリスマスでにぎわう夜、妻と私が見守るなか、わが子は静かに眠りにつきました。再び目覚めることはありませんでした。誕生後から主治医の先生や看護師さんとやりとりし、ともに記した交換日記がそこにはありました。交換日記は私たち家族にとって心を繋ぐバトンでした。妻は臨終まで、交換日記をわが子にむかって必死に読み聞かせました。そして、交換日記がすべて読み上げられたとき、妻も私も、息をひきとったわが子を目の前に黙ってうなずきました。臨終の際、主治医の先生が、妻とともに流してくれた涙は今も忘れることはできません。 翌日、霊安室を出るとき、産婦人科・小児科・ICUの看護師さん、そして医療に携わってくださった先生方が、お忙しいのに、亡くなったわが子をそれぞれ抱いてくださり、並んで見送ってくださいました。あの光景は決して忘れることはできません。わが子は自宅より、むしろ病院で過ごすことが人生のほとんどで、病院はある意味家であったことは紛れもなかったのです。 結局、第3子が自宅で過ごせたのは、1ヶ月半でした。今から思えば、11月21日に自宅で家族揃って祝った、2番目の子どもの誕生会は、まさしく、「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」そのものでした。 思い起こせば、出産予定日は実は8月2日でした。ところが、子どもがお腹のなかで心不全を起こす危険性があり、6月11日、その命を救うため、出産は早まりました。主治医の先生は、約2ヶ月早まって生まれた直後から長期入院中にかけて、そして、最期のICU入院までたびたび不眠不休の努力をしてくださいました。小さく生まれたことで、「命があぶないかもしれない」という、生死のさかいを幾度となくわが子は体験しました。そんななかでも、医学的な見地から、また人としても、先生や看護師さんは最後まであきらめずに最善を尽くす姿勢を私たち家族に示してくださったような気がします。その後押しもあって、毎日病院に足を運ぶ意味合いをあらためて噛みしめることができました(途中、家族全員がプール熱にかかって寝込んでしまい、病院に通えないときもありましたけど)。 通常、医師は医学的知識や客観的なデータを根拠に仕事するのが基本で、患者の死にいちいち涙を流していてはいくら涙があっても足りないことでしょう。けれども、先生も看護師さんもわが子の死を悼んで一緒に泣いてくださいました。今では、私は、これこそ、私の論文のテーマ「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」ではないかと感じています。 また、わが子の入院中、頭の中では、大学院の社会哲学特講スクーリングで学んだ「インフォームド・コンセント」や「同感情」のことばが繰り返し何度もこだましていました。 様々な価値観がせめぎあうのも病院だと思います。例えば、家族によっては、様々な価値観があります。病院側と患者・家族側の「同意」には、決してことばで簡単に片づけることはできない問題があります。私が一番大切に感じるのは、双方の話し合いが前提で、たとえそんなに猶予のない事態でも、互いがどれだけ信頼しあえるかにかかっているということです。お互いに「同意」の内容とそのありかたをいかに咀嚼し、納得し、判断できるか。本当に難しい命題です。私たちは神様や仏様ではないので、果たしてどの判断が一番正しかったのか、わかりません。例えば、修士論文執筆と同じで、書いた内容に納得いくかいかないかというところもあるのかもしれません。といっても、医療現場の判断は簡単に消しゴムで消して修正はできないのは確かです。実に難しいところです。 病院スタッフの、最後まであきらめずに医学的に命を救う使命。その医療現場に立ち向かっておられる懸命な姿を伺い知ることができました。そのとき、本当にわが子にとって何が一番いいのか、親として悩みました。なぜこの世に生を受け、なぜ今こういう状況になっているのだろうって。でも、そんな結論を冷静にくだせるほど家族には余裕がないのも実状です。片や、病院スタッフには医学的な事実は告げ、説明しなければならないところもあります。本当に死を定義づけるのも、その生死にたちむかう判断も難しいと感じました。今回の入院で、私たち夫婦に、厳しく難しい判断の局面があったのはまさしく事実で、その一方では、何ともいえない感情が残っていました。 年末ぎりぎり、内々で葬儀を執り行いました。本当に長い1週間でした。家族の心模様も大きな変化のうねりが起きた1週間でした。まさしく12月の修士論文最終発表会前日からの1週間は、私の人生にとっても1つの大きな節目になったのです。第3子の最期の1週間は苦しい痛みを耐える入院生活でした。それでも、親としてはなんとしても生きてほしいと願いました。でも、子ども自身にとっては、その身体ではその痛みは耐えるにはやはり限界があったのは確かです。今回、親の思いとして、子どもにとってよき方向を願うことがいかに難しい営みであるかを痛感しました。また、これほど生と死の間の選択や判断が迫られる場面を体験したこともありませんでした。今回はいろいろ学ばせていただきました。ちなみに、名ばかりの加入でしたが、今では、大学院サークル「ケア問題ネットワーク」に入っていて、本当によかったとも感じています。 わが子は、たった6ヶ月の命でした。けれども、彼は、私たち家族にかけがえのない様々な出会いを運んでくれたのです。心をわが子と私たちに向けてくださった病院のスタッフ、一緒に気にかけ病棟で声をかけあった人々や偶然病院で出会った方との交流、職場の温かい配慮、自分のことのように一緒に悩み励ましてくれた友人達、そして大学院の先生・先輩・北野ゼミの声援。様々な方々に出会い、より一層ふくらんだその関わり合いのなかに私たち家族はいました。ともに涙を流してくださった人々と出会い、そして、支えられました。本当にみなさんには、お世話になりました。 葬儀後の年末年始は、あの1週間にくらべ、時計の針がまるで倍速になったような感じでした。そんななか、やはりわが子の最期まで頑張った姿を何度も思い出し、 「最後の最後まであきらめずにやれるところまで取り組んでいこう!」 と決意を固めようとしていました。残された時間は確かにわずかかもしれない、ほんの少しの残された時間だが、しかし、最後の最後まで自分の可能性を信じて修士論文を何とかして1月15日の〆切日まで書き上げようと。たとえ、その論調やアプローチに揺れが生じても。最終発表会前に抱いていたとりまとめの構想に近づくことは難しいかもしれないけれど、最後の最後まであきらめずに。もしぎりぎり間にあうなら、〆切日当日に大学院事務課に持参提出することも念頭に入れて。 同時に、わが子の遺影は、 「お父さん、最後の〆切まであきらめずに取り組んで!」 とも語りかけてくれているようでした。同時に、大学院の先輩が以前メールで語ってくれた「『自分の意図したこと』『自分の気持ち』に忠実であること」ということばが頭の中を駆けめぐっていました。
そんなさなか、1通の手紙が届きました。指導教授の北野先生からでした。 早速、手紙を家族で読ませていただきました。妻も子どもたちも、 「お父さん、本当に大学院で学んでいてよかったね。」 と声をかけてくれました。北野ゼミに所属でき、北野先生やゼミのみなさんと出会えたことを感謝しました。
あなたのお父さんとお母さんは、大変、立派に生きていらっしゃいますよ。お 父さんの取り組まれている研究は、とても密度の濃い、立派なものですよ。どう か、見守っていて下さいね。
今から思えば、この手紙にいくら感謝してもし足りません。また、先生ご自身の体験とともに「自分に一番大切な人を最優先してください」というメッセージも添えられていました。手紙を何度か読み返し、霊前に供えた次の瞬間、修士論文のことが頭をよぎりました。 「そうだ!論文が完成したあかつきには、同じようにわが子の霊前にそれを捧げよう!」 もう焦りはありませんでした。家族全員のプール熱が治った9月中旬から、本格的に修士論文を書き始めていました。実は、そのときからずっとへんな焦燥感にかきたてられ、論文執筆を苦痛に感じる毎日が続きました。実際、あの最終発表会までは、大胆にも次のような目標を掲げていたのです。 @ 毎日、一枚ずつ楽しみながら書くこと A 毎月、一章は仕上げること B 計画どおり執筆が進まず遅れたら、すぐに軌道修正をすること C 目的にそって要点を整理して(取捨選択が大切)、一次資料を読み直すこと D 毎日、先行研究1つか、もしくは、テーマと関連する著作に目を通すこと しかし、もはやそんな縛りや計画にもう拘束される必要もありません。また、いとまもありません。自分の納得のいくところまで頑張ろうと。常に最悪の状態を想定していれば、仮に日々少しでも状況がよくなることで幸せは舞い込み、幸せを引き寄せることができる。もし論文が〆切日ギリギリにでも完成すれば、どんなに喜ばしいだろうと。この2003年度にこそやはり、何らかの足跡は残しておきたい。このまま、2003年度を終えることはできない。 第3子の霊前に論文を供えるという誓いをもとに、1月11日(日)・12日(祝日)の連休中に論文を何とか仕上げることができました。毎日論文に全力を投入できるように、家族が全面的に協力をしてくれました。また、数多くの方々から励ましの声をかけていただきました。 そして、プリントアウト、製本。提出〆切日の15日、仕事を休んで所沢の大学院事務課へ。交通の便が順調であることを祈りつつ、早朝電車に乗り込みました。幸いにも新幹線が米原付近で雪による徐行運転をしているのみ。無事、論文の持参提出を終えました。そして、その足で論文提出の報告のため、北野先生の研究室に向かいました。
人生、いろんなことがありますね。 いろいろな苦難や試練は、「乗り越えられる人のみに与えられる」。 自分だけがなぜ・・・、と人は思いがちですが、それは「さだめ」です。 その「さだめ」から逃れる人、逃れたいと思う人には、苦難も試練もありません。 ただ、「逃げ回る」のみです。
この温かいエールも受けて、1月19日提出〆切の後期レポートもギリギリの最終提出。そして、口頭試問、修士論文正本提出。また、以前、大学院の先輩が主張されていた「正本提出までが勝負」ということばも、最後の最後まで自分の可能性を広げてくれました。 「もしかして、これで、修了証書も霊前に捧げることができるかもしれない。」 第3子は、輝く人でした。「輝人」と書いて「てるひこ」と名づけました。生後6ヶ月の命とはいえ、名前どおり、「生きる喜び」という輝きでもって私たちを照らしてくれました。 「人の命は時の長短のみで意味づけられるものではない」という後期レポートの先生のことばにも支えられました。輝人を通しての様々な出会いが今も光り輝いています。 葬儀のあと、夜空を見上げながら一番上の子が言いました。二番目の子も口をそろえて、繰り返しました。「てるひこは、お星さまになったね。ほら、あそこ。」そこには、ひときわ夜空に映える星が光り輝いていました。 その冴え渡った夜空をみて、私は思い出していました。大学院入試を終えて見に行ったプラネタリウムの夜空。大学院科目を通してふれあったアダム・スミスの「天文学の歴史」。そして、修士論文執筆とともに歩んできた輝人との道のり。まさに冬の夜空に輝くオリオン座の真ん中の三つ星のごとく、輝人とともに上の二人の子どももきっと輝いてくれるでしょう。 「できれば、プラネタリウムにまた行きたいなあ。」 1月31日の口頭試問終了後、入学試験後に行った方角に足が向いていました。しかし、プラネタリウムは閉鎖されていました。「これも時の流れなんだなあ〜」としみじみ感じた次第です。 年があけてから、妻は言いました。「輝人、本当にありがとう。小学校に戻って、子どもたちに『生きる喜び』を今度は自分のことばで伝えます。」 そして、妻は小学校教員として、この1月から職場に復帰しました。今回の体験を踏まえて様々な状態下にいる子どもたちと必ず向かい合ってくれると私は信じています。その妻の姿をみて、輝人もきっと喜んでくれるでしょう。そして、今度は私が、妻や子どもたちの学びを支える番です。 こんなに書くつもりはなかったのですが、ついつい筆が進んでしまいました。いかなる状況にあっても、今後も引き続き研究に取り組んでいきたいと現在考えております。私の学びは、ほんの今、始まったばかりなのです。
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