川物語(多摩川編 その3) 

 

                   ――― 知られていない玉川上水 ―――

                                                                    

 

                                 国際情報専攻 2期生・修了 村上恒夫

                                                                                      

 

 

 

 

 

 東京の西部を総称して「多摩」と呼んでいる。東京都の1/3の人口を有している。東京と言うと、23区の事を言うようで、多摩を東京と呼ぶと違うと言われることがある。いわゆる大都会と多摩ではイメージが違うようだ。多摩に住んでいる人間も23区と違い、緑が多い街を誇りにしている。

 

 最近、NHKの大河ドラマで新撰組が取り入れられた。新撰組は多摩が生み出した英雄である。坂本竜馬と同じように、いや、それ以上に親しまれているのかもしれない。少なくとも、ただの人切り集団だと言うイメージを抱く人間は少ない。

 

 江戸時代、多摩の人々は江戸に生産物を売りに行き生活の糧にした。また、天領であったためか、過酷な年貢取り立てなどもなく、比較的に自由であった。もっとも、水資源に乏しく、米作に不向きであった。そんな多摩地区に大きな土木計画が実行された、玉川上水である。多摩川の水を江戸まで引き込む巨大事業だ。これらの話は非常に有名なので、改めて語る必要もないと思い、今回はあまり知られていない、玉川上水にスポットを当てたい。

 

 玉川上水の土木工事を手がけたのが、玉川庄右衛門と清右衛門の玉川兄弟だといわれている。多摩川研究の大成である「多摩川誌」によれば、「玉川兄弟の出身については,江戸の町人説と多摩川沿岸(羽村付近)にかかわりがあるとする2説があり,必ずしも明確に断定するに至っていない.」と言われている。また、この事業を挙行した玉川兄弟のその後あまり知られていない。玉川兄弟の2代目は玉川上水の管理不行き届きを理由に、お役御免、江戸所払いを言い渡されている。この理由には諸説あり、上水管理に於ける賄賂授受あるいは、管理費の引き上げを嫌った幕府から無実の罪を着せられた等等。

 

 明治維新後、一時期玉川上水に船を水運に利用する計画が起こったが、上水としての質が低下し、水運は禁止された。本来の上水としての役割をその後も継続することとなった。太平洋戦争が始まってしばらくすると、上水施設に対する米軍からの攻撃の対策が施されることとなった。玉川上水や多摩川周辺にある浄水施設は偽装網や塗装が施され、村山、山口貯水池(多摩湖)には延べ幅53m、最大厚さ2.25mのコンクリートによる耐弾層が作られた。

 

 現在、玉川上水は上水としての機能を終えている。一時期、流れも途絶えた玉川上水だが、高度処理された下水を流し、その清流を回復した。