連載「裏方物語」  4

 

         「随行さん」                                                                    

                                            国際情報専攻 5期生  寺井 融

                                                                                      

 

 

 

 

 

 源氏鶏太の短編に『随行さん』があった。社長の鞄持ちの若いサラリーマンが主人公。失敗あり、女性にもてる話もありで、いま手元に残っていないので、確かなストリーを覚えてはいないが、ユーモアあふれる佳品であった(と思う)

 当方の「鞄持ち」の第1回目は、昭和56(1981)年のこと。佐々木良作民社党委員長の訪米である。団長が佐々木委員長、団員が大内啓伍政策審議会長(後に委員長、厚相)と神田厚農林水産対策委員長(後に国会対策委員長、防衛庁長官)、随員が私であった。

 

委員長のあだ名は「瞬間湯沸かし器」。大内氏もどちらかといえば「完璧主義者」である。「気が休まるときがないだろう」と、職場の仲間に同情された。

 準備を進めていると、委員長に呼ばれた。「航空チケットの手配は、どうなっているか」のご下問である。「ファーストクラス3枚とエコノミークラス1枚を用意しています」と答えると、「駄目だ」という。いぶかっていると「君は仕事で行くのだ。僕の傍にいる必要がある。ファーストを4枚にしろ」との指示であった。当時、党の「海外出張旅費規定」では、飛行機はエコノミー、ホテルは一泊百五十jから二百j(国によって違っていたはず)ではなかったか。差額は当事者払いで、団長が面倒を見るのが慣例であった。佐々木委員長の配慮で、初めてファーストを経験した。

 

 まずロスで一泊する。次にニューヨークで一泊。そして、ワシントンに入った。レーガン大統領の時代で、ブッシュ副大統領(後に大統領、現大統領の父)、ワインバーガー国防長官らと会談をし、小生はもっぱら写真と記録を受け持った。

 通訳は、日本大使館にお願いする。沼田貞昭一等書記官(後にパキスタン大使)が務めた。借り上げ車代等は、実費を払った。

 

 最後の晩、日本食レストランに行った。江戸前寿司が出てきた。大変な美味なので「シャリが、一粒一粒が立って、光り輝いているでしょ。日本からの輸入米ですな」と神田氏は力説する。「果たしてそうかな」と懐疑的なのは、委員長であった。奥で確かめてみると、カルフォルニア米と分かり、「とんだ農政通だな」と冷やかされていた。

 

 またニューヨークに戻る。観光をし、お供の当方に「千jで、黒のハンドバックを三個選べ」とご下命する。「一つは大内に、一つは神田に、残りは君だ」と手渡される。辞退すると「お前にやるんじゃない。奥さんにだ」ときつくたしなめられた。旅で初めてのお叱りだった。

 

 ニューヨーク総領事主催の晩餐会の後、ピアノバーに行った。委員長は「荒城の月」を朗々と歌った。十時前にホテルに帰った。前日のマッサージ師に「明日の十時に、また来い」と予約していたそうだ。「俺の英語で通じたかな」と心配していたが、まもなくマッサージ師はやってきた。「お休みなさい」と言って、神田代議士と夜の街に繰り出して、飲みなおした。

 

 ハワイで時差ぼけをとり、十日間の旅を終えた。

 

目の衰えが目立つ委員長のため、拡大コピーで資料をつくって、フロントページに概要をつけていたことや、両手に腕時計をはめ、現地と日本の双方の時間を、瞬時にわかるようにしていたこと、それに1jのチップのはてまで、克明に出納簿をつけていたことなどが評価され、以後信頼されるようになった。

昭和62(1987)年の3月、佐々木常任顧問を団長とする第7次訪中団が派遣された。団長は佐々木、団員が橋本孝一郎参院議員、随行が佐々木夫人の総子さんと当方であった。

 

北京では、李先念国家主席との会談もあった。記者会見は「君がやれ、俺がついているから」と言われた。佐々木団長か橋本議員がやるものとばかり思っていた当方だが、無難にこなせた。

 

某全国紙の「佐々木手記」の第一稿は、当方が書いた。広州から深圳までの列車の中で、常任顧問は朱を入れた。しまった文章となり、「中国は蛇行しながら前進する」と論じた。胡耀邦総書記が失脚し、また紅(教条派)と専(実権派)の対立が起こるのでないか、と見られていたときだけに話題を呼んだ。ある党本部の幹部職員が「あれは良かったですね」とゴマをすったところ、「そうだろう、あれは寺井が書いたんだ」とおっしゃったそうだ。

 

香港で、奥様が当方にネクタイ、妻へと、またバックを買ってくださった。

旅の最後に「今回は、最高のメンバーで来たかったんだ。どうもありがとう」と手を握られ、「もう、中国に来ることがないかもしれないな」と涙ぐまれた。衰えを感じていたのかもしれない。やがて病に倒れ、長い闘病生活の末、平成12年3月13日に亡くなられた。享年85歳だった。

 

『産経新聞』の社会部記者となっていた私は、ニューヨークの夜の「荒城の月」独唱についてふれ、「旧制高校時代の心を忘れない人だった」と書いた(『産経』平成12年3月15日付「葬送」)

 

それを読まれた総子夫人から「主人は、人様の前で歌うこともあるんですか」と訊ねられた。「もっと、主人の話をおきかせくださいね」とも言われた。「はい、お宅にお伺いします」と答えたのだが、それも果たせぬまま、三年半後、奥様も亡くなられた。同行の橋本議員も、既に鬼籍に入られている。

 

さて、「随行さん」は塚本三郎委員長、大内啓伍委員長などで、何度か体験している。そのエピソードは、別の機会に譲りたい。        (つづく)