『日本人画家滞欧アルバム1922』 

   Dアンドレ・ロートとの出逢い−中−

 

                            文化情報専攻 3期生・修了  戸村 知子

 

   


 1922年6月初め ― 黒田重太郎が<一修道僧の像>を描く少し前 ― に、吹田草牧[i](1890−1983)が巴里に到着した。草牧は日本画家で重太郎の母方の従弟にあたる。今回の渡欧の計画が持ち上がらなければ、一緒に伊豆の真鶴で写生をすることになっていた。何ヶ月ぶりかで再会した二人は、早速、巴里の美術館や画廊を見て廻った。重太郎のホテルに戻った草牧は、興奮を抑えきれずにいたにちがいない。

草牧:「重さん(草牧は黒田をこう呼んでいた)、私はすっかりまいってしまいましたよ。今日、連れて行っていただいた、あのボエシィの通りの、そう、ロオザンベエル美術店で見た19世紀絵画の展覧会。セザンヌやゴオグ(ゴッホ)にゴオガン(ゴーギャン)、ルノアル(ルノアール)にピサロ、それからクウルベエ(クールベ)とモネエ(モネ)と、シスレエと、それから、、、。」

重太郎:「マネエもあったし、ロオトレエク(ロートレック)も。」

草牧:「まだありましたね、ルドン、ドガア(ドガ)、ルッソオ(ルソー)。そうだ、ミレエやコロオ、アングル。それにシャヴァンヌやドラクロア。ドオミエも見ましたね。すごかったなぁ。どれもこれも、私に強い力で迫ってくるのだから、ほんとうにすごかった。写真で見てよく知っている絵もたくさんありましたね。私は感心しきってしまいましたよ。でも・・・でもね、重さん。これだけの立派な芸術を本当に理解できるまでになるのも簡単じゃないだろうなぁ。」

重太郎:「そんなすぐにはわかりっこないだろうね。」

草牧:「・・・そうはっきり言わなくたって。ね、だからね重さん、私はフランスにできるだけ永く居て、誰かいい先生について、デッサンを充分に勉強しなきゃならないんじゃないかと思うんです。デッサン力の乏しいのが私の欠点ではないかと。」

重太郎:「デッサンは大切だからな。芸術の真の力に触れたいと思うなら、まずアカデミイにでも通って、真面目に勉強することだね。そうすれば、立派な芸術はきっと向こうから働きかけてくれるものだよ。」

草牧:「だ・か・ら、・・そこなんですよ。日本を発つ時は伊太利の古い芸術を見ることばかり楽しみにしていたのだけれど、こちらに着いてみて、どうも仏蘭西の近代美術の方が私には必要なもののように思えてならないのです。重さんの書いたものを読んだりして伊太利に憧れていたのだけれど、やはり今は仏蘭西で勉強しようかと、本当にそう考えはじめているんです。」

重太郎:「君がそう考えているのなら、誰か先生を世話してもいい。私も先月からアンドレ・ロオト(アンドレ・ロート)の画塾へ通っているが、これがなかなか勉強になる。だってね、今の仏蘭西の現代芸術が大きな仕事をなしとげつつあるように、確かにそう思えるんだよ。上手く言えないがね、ロオトは絵画の備えるべき必要条件を幾何学な理論で研究していて、絵画とは決して直観的な印象や感じだけで描くべきでないというんだ。ロオトの作品は、まず、その敏感性が私の胸を打ち、このうえもなく堅固な構成と魂の律動的なアラベスクに、それまで朧げながらにも、私が追究していたものを目の当たりに見る気がするよ[ii]。ロオトの指導はどうかだって?それは、それは、厳しいものだよ。それでも君、先生についてよかったとつくづく思うよ。だんだんではあるけれど、芸術観もはっきりとしてきたようだし。さて、まぁお茶でも飲みたまえ。羊羹もある。このまえ、このホテルのギャルソンはこれを鋏で切って食べていたよ。里見君と大いに笑ったものさ。明日はどこを案内しようか・・・」

 これは吹田草牧が姉(しず)宛ての書簡をもとにした[iii]想像の会話ですが、もとのその書簡を読んでいきますと、草牧もロオトの作品を見て感銘を受けたようですし、七月初旬には毎日午後にアカデミー・グランド・ショオミエールで、デッサンを研究していました。そして9月下旬から10月初め頃。さらに勉強ぶりを発揮する重太郎の熱心な姿を羨む草牧でした。

  ・・・・。相変わらず素張らしい勉強ぶりです。夏の間に田舎で随分かいて来ましたが、これから定めしいいものが生れるだらうと、希望を感じさせるやうな絵です。今、三十号くらひに、女を二人かいて居ますが、中々よくなりさうです。重さんは日本の洋画のために、きつといいものをもたらしてくれるだらうと思ひます。美術評論の方も中々勉強して居ます。帰朝後は現代のフランスに就いて著述するさうです。あの人の精力は羨ましくなります。[iv]

 重さんの今やつてる製作はだんだんよくなりさうです。日本人の絵としては、余程すぐれたものです。あのやうに勉強してだんだん効果の現はれて行く人を見ると実に羨しい気がします。[v]

 これは重太郎がアンドレ・ロートの画塾へ通って5ヶ月あまりが過ぎた頃の話ですが、すでに重太郎はその頃、帰国した後の美術雑誌へのヨーロッパ美術に関する寄稿を決意していたことがうかがえて、興味深い記述です。一人の画家として、ただ単に技術を磨くだけではない、なにか別な志を感じる一面であるといえるでしょう。それはまた、当時のロートの活躍ぶりに少なからず共通するものがあります。ロートもまた、絵画の制作のみならず、アカデミーでの指導や雑誌への執筆に情熱を持った画家だったのです。

 

 

 

[i]  大阪市生まれ、本名は憲一という。明治411908)年に京都へ移り、黒田重太郎の影響で洋画家を志し関西美術院で鹿子木の指導を受けるが、後に日本画へ転向。大正3年に竹内栖鳳の門下となり、先輩の土田麦僊の指導を受ける。国画創作協会・新樹社・帝展・に出品。戦後は日展に出品することなくと東京に移り住んでからは主に洋画を描いていた。

−近代京都画壇と『西洋』展図録、京都新聞社、1999p.110

[ii] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、p.15

[iii] 「吹田草牧のヨーロッパからの書簡」『美学美術史論集』第8号第3部.成城大学大学院文学研究科、19913月、p.58,59,63,77

[iv]  同注A、p.126

[v]  同注A、p.128