『人間復興のメディアと民主主義への貢献を目指して

                  −ブラック・ジャーナリストを追放せよ−』

 

 

                           国際情報専攻 5期生  真藤正俊      

 

 

 

 

 

 

メディアについても論じないわけにはゆかない。メディアとくにテレビは、2つの意味で民主主義とかかわっている。

 第一に、すでに述べたとおり、グローバルな情報化は民主化の強い推進力となる。第二に、テレビをはじめとするメディアは、政治問題をとてつもなくつまらないものであるかのように、また自分たちの占有物であるかのように報道することにより、せっかくメディアがつくりあげた政治を議論する公共的空間そのものを破壊しかねない。

 そのうえ、メディア企業の多国籍化と巨大化は、選挙で選ばれたわけでもないのに強大な実権をにぎるメディア王を誕生させる。(注[1]

 

 メディアのあり方を再検討する必要がある。立法・司法・行政に続く「第四の権力」と言われるメディア。民主主義を推し進める役割を持つからには、営利目的でなく、「透明性」を要求される。それを再検討しなければならない。

 「メディアは直接的に『需要』に依存する(注[2])」。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(注[3])によれば、メディアは多くの国民の求める刺激を営利目的のために優先的に記事にすることが多々あるという。例えば、殺人事件や多くの死傷者を出した惨劇は新聞や雑誌の発行部数を大幅に伸ばすとして、雑誌の表紙や新聞の第一面を飾ることが少なくない。

 新聞報道や雑誌報道は事実を記事にするのが、主な仕事であるが、記事には、必ずと言っていいほどジャーナリストの「先入観」が存在している。もちろんメディアにジャーナリストの先入観が多少あって悪いわけではない。

 例えば天文学の発展についてだが、天文学者ヨハネス・ケプラー(注[4])は新プラトン主義という哲学思想の影響下にあった太陽崇拝者である。彼は占星術や錬金術などの「非科学的行為」に全力を傾けたルネサンス人であった。(注[5])歴史上の偉人でさえ、独特の先入観を持ちながら優れた功績を残したのである。だとしたら、ジャーナリストが先入観を持たずに、記事を書いているなどと断言できるのだろうか。それは有り得ないといえよう。

 ジャーナリストに先入観を持つなと言うのは無理ではないだろうか。新聞や雑誌には記者の先入観が存在していると言っても過言ではない。もっとも、この先入観がわれわれの今日の民主主義を推進・発展させるならよい。だが問題は民主主義を破壊しかねない先入観がメディアにある場合、早急に解決しなければならない。

 「ブラック・ジャーナリスト」、彼らは差別的表現をしたり、虚偽を捏造したりして記事にする。メディアという巨大権力を悪用して常に民主主義の破壊を企む連中である。ブラック・ジャーナリストは、多くの場合「利潤第一主義」であり、その精神年齢は極めて低く、自分の責任についての重さを知らず、また自分たちに責任があること自体にまったく気づいていないのである。

 それゆえ、記事を書く場合においては、(週刊誌などによく見られるのだが)調査をろくにしないで事件や事故の内容を記事にする。つまり、「捏造」「でっちあげ」を記事にすることが彼らの利潤第一主義に則った「伝統」である。

 

 1860年代、イギリス政府は、インドの「文化遺産」を保存するために、インドの大規模な遺跡のいくつかを考古学者に調査させた。地方の美術や工芸は衰退したとの確信のもとに、調査団は博物館に収蔵する文化遺産を収集した。

1860年までは、インド兵やイギリス兵も西洋風の軍服を着ていた。ところがイギリス兵にとっては、インド兵をインド兵らしく見せる必要があった。そこで、「真性インド」と称するターバン、サッシ(飾り帯)、チュニック(ひざあたりまであるシャツのような上着)などを生かしたインド兵用軍服をつくったのである。

 ねつ造された、もしくは半ねつ造された伝統のいくつかは、いまなおインドに残っている。長続きしなかった「伝統」が少なくなかったことは、もとよりいうまでもない。(注[6]

 

 アンソニー・ギデンズ(注[7])によると「捏造された伝統は長続きしない」という。それが事実であるならば、ブラック・ジャーナリストたちは滅びるしかないといえよう。彼らの記事は「天文学者と占星術師、科学者と錬金術師、宗教社会学者とカルト教団の教祖を同じである」(注[8])としているに過ぎない。そのような結果「名誉毀損」「人権蹂躙」を平然とする。

 特に、『週刊新潮』『フォーカス』(注[9])などは過去何度も裁判で「名誉毀損」「人権蹂躙」を記事にしたことで「有罪判決」を受けている。「第四の権力」であるメディアを民主主義破壊に用いる連中は一日も早く、この地上から消滅させる必要がある。

 ブラック・ジャーナリストは民主主義において“価値的な生産を何もしてはいない”のである。当然ながら、地位や名誉、富と名声、そして自身の幸福を享受する権利など少しもない。これについて、ジョージ・バーナード・ショーの言葉がぴったりであろう。最後になるが、それを紹介したい。

 

 「われわれには、生産することなく富を消費する権利がないのと同様に、自ら作り出すことなく幸福を享受する権利はない」(注[10]


 

[1] アンソニー・ギデンズ『暴走する世界−グローバリゼーションは何をどう変えるのか−』佐和隆光訳、ダイヤモンド社、2001年、155ページ。

[2] ピエール・ブルデュー『メディア批判』櫻本陽一訳、藤原書店、2000年、96ページ。

[3] ピエール・ブルデュー(19302002) フランスの社会学者。コレージュ・ド・フランス教授であり、世界的に影響力を持った知識人。著書に『ディスタンクシオン』『国家貴族』『世界の惨劇』等がある。

[4] ヨハネス・ケプラー(15711630) 天動説を支持したティコ・ブラーエの弟子。ケプラーの三法則の発見で有名。

[5] アンソニー・ギデンズ『暴走する世界−グローバリゼーションは何をどう変えるのか−』佐和隆光訳、ダイヤモンド社、2001年、69ページ。

[6] アンソニー・ギデンズ『暴走する世界−グローバリゼーションは何をどう変えるのか−』佐和隆光訳、ダイヤモンド社、2001年、80ページ。

[7] アンソニー・ギデンズ(1938〜) ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・ポリティカル・サイエンスの最高責任者。イギリスのトニー・ブレア首相の「お気に入りの知識人」である。著書に『第三の道』(日本経済新聞社)、『社会理論と現代社会学』(青木書店)等がある。

[8] ピエール・ブルデュー『メディア批判』櫻本陽一訳、藤原書店、2000年、111ページ。ブルデューは愚劣なジャーナリストほど、相手をわざと困らせる言動を好むと批判している。一つの物事を説明する際に、好ましくない前提条件を持つ者は、メディアに参加すべきでないとはっきり指摘した。

[9] 田島康彦・右崎正博・服部孝章編『現代メディアと法』三省堂、1998年、95ページ。1997年に起こった神戸の児童連続殺傷事件では、実名こそ出されなかったものの、写真誌『フォーカス』が被疑者である少年の顔写真を掲載し(『週刊新潮』も目線を付し、顔写真を掲載した)、少年事件の報道のあり方があらためて問題となった。法務省は新潮社に両誌に対して「回収勧告」を出すことになる。なお、『フォーカス』は現在は『廃刊』となっている。

[10] P・サムエルソン=W・ノードハウス『サムエルソン 経済学(下) 原書弟13版』都留重人訳、岩波書店、1993年、495ページ。