『情報と騙し』

 

 

                                                                                                

                                                                          国際情報専攻 4期生  長井壽満

 

 

 

 

 

 

IT社会といわれ久しい。日本のインターネット人口が6400[i]万人を越しました。この数字から社会構造が変わりつつあると感じられます。テレビが普及する前と後の違い、電話が「公衆電話の時代」→「一家に一台電話がある時代」→「個人に一台携帯電話がある時代」、この時代間の生活リズムの変化の感覚は、その変化の中に生きている人しかわからないでしょう。 変化後の世界に住んでいる人は文章、記録でしか変化を体験できません。戦争体験と同じように過去の体験の感覚は忘れ去られるものです。

 

我々はまさにIT社会の変化の真っ只中に生きています。我々が時代の主役というわけです。 ところで、今IT社会の主役であるという意識を持っている人がどれだけいるでしょうか? ITビジネスに関わりを持っている人以外は無意識にIT技術を受け入れているのです。皆が携帯持っているから自分も持つ。他の子供が携帯を持っているから自分の子供に買い与えています。子供の間の生活・リズムが携帯をもつことにより良くなるのか、悪くなるのか、本当に子供に携帯が必要なのか、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があります。これはほんの一例です。似たようなテーマは沢山あります。自動販売機が本当に必要なのか、これもちょっと立ち止まって考えてみたいテーマです。

 

我々の生活が現在進行形でどう変わってきているのか、良い方向に向かっているのか、どうもピンときません。身近に見えるのは携帯電話とメールです。考える時間、人々が交あう時間が増えた訳でもないようです。忙しくなっただけでしょうか?手を動かしている時間は確かに増えました。「情報量が増えた」=「生活が豊かになったか」、どうも疑問でしょうがありません。本当に正確で正しい情報が増えているのでしょうか? IT技術の成熟に伴い、そろそろ再考する時期にきたと思います。今までIT技術のハード面の技術革新に目が向きがちでした。人間にとって「ITという概念」を見つめなおす作業が必要です。マクルーハンが「メディア」を論じていますが、ITとはメディアを包含したもっと大きな概念、哲学と言えるまで昇華される概念となってもおかしくないです。

 

  ITとはInformation Technologyの省略です。IT社会は情報化社会と訳されています。「情報」という日本語を英語に置き換えると「information」と「intelligence」と二つの訳語が考えられます。前者は一般的な意味であるのに対して、後者は「(敵または敵となる可能性のある存在に対する)情報」と特殊化した意味になります[ii]。IT技術は軍事技術と一緒に発達してきた。コンピューターの開発も軍事的な必要性として、暗号解読の道具として第一歩が始まりました[iii]。世界で最初のコンピューターは公式にはUNIVACが最初に開発した「エニアック[iv]」といわれています。 しかし、コンピューターは軍事秘密に閉ざされた世界ではとっくに開発されていたのです。インターネットの仕組(TCP/IP)も軍事技術から始まったのは周知の事実です。 

 

 昔の通信手段は物理的(ハード)には、飛脚、馬脚、狼煙等、情報(ソフト)は手紙・文章の形で人の手を介在して交換されていました。文字が読めなければ情報交換も不自由でした。人々の多くは文書(本)に触れたことはありませんでした。現在と比べれば、情報ゼロといえる世界に住んでいたのです。人々にとって情報が身近になったのは、ヨーロッパではグーテンベルグの印刷機が発明された15世紀以降です。ヨーロッパ社会では教会が情報集積場所でした。中国では、科挙制度のおかげで、教養人(士太夫)階級が普遍的に各地に散らばって存在して、頭脳の中に情報が貯められ、情報が代々受け継がれていました。書道という芸術の域まで文字情報伝達手段が昇華されています。情報が宗教として操作されるとヨーロッパ型文明(真理とはなにか?)、情報が教養とした操作されると中国型文明(徳、芸)になるのかもしれません。

 

 ヨーロッパの中世の絵で初期のもの、例えばミレーの「落ち穂拾い」の画質は暗く見えます。これは絵の具を混ぜて色をつくっているからです。印象派のゴッホの絵は明るく見えます。ゴッホの絵は「絵の具」を混ぜて色を作っていません。一筆一色で細かくキャンバスに色を張り付けているからです。目の錯覚(騙されている)で複雑な色調がつくりだされているのです。中学の理科で習いました。光の三原色をまぜると白くなります(明るくなる)。絵の具の三原色を混ぜると黒くなります(暗くなる)。ゴッホは自分の経験から画風をつくりだしたのですが、技術的には当たり前の理屈で描かれた画風です。ゴッホはこのような科学的な情報を知らないで自分の画風を生み出しました。中国に於いては絵から派生した象形文字(情報伝達媒体)が書道という芸術を生み出しました。IT技術から与えられる情報の洪水の中から、我々はゴッホや(士太夫)階級の人々のように、創造的・主動的に情報を取り込んで新しい概念を創造できるか、問われている時代に生きています。

 

 情報には芸術のように感性に訴える情報と、ニュース等事実を伝える情報と二種類あります。事実を伝える情報には「正しい情報か」という判断が必要になります。吉田和彦著『暗号解読戦争』を読むと、なにが本当に正しい情報であるか個人で判断するのが難しい時代になっています。今回のアメリカとイラクの戦争も、本当に大量破壊兵器が有ったのか・・・、まだ証拠はみつかっていません。暗号技術の進歩で、本当の情報(価値ある情報)はある閉鎖社会でのみ流すことも可能な時代になっています。

 

 情報とはなにか、「情報」の特徴を浮き立たせる面白い例があります。生物の間でも情報による生存競争がおこなわれています。例えばカッコウという鳥は、自分の卵(子孫)を他の鳥にそだてさせます(寄生する)。カッコウは自分の卵を他種(ウグイス)等の巣に生み、その種に世話をさせます。カッコウはまず宿生の親鳥のいないときを見計らって、その鳥の卵を一つ放り出し、そこに自分の卵をあっというまに産み付けます。帰ってきた宿主が卵を見分けられないとたいへんなことになります。カッコウのヒナは宿主のヒナよりも早く卵からかえり、まだ目も見えないうちに、宿主の卵を巣の外に放り出してしまいます。こうして自分だけになったカッコウのヒナは、宿主の世話を一身にうけて育つことになります。宿主の鳥はカッコウの卵を見分けようとしますが、カッコウもそれに対抗して宿主の卵と酷似した卵を生むようになり、見分けをますます難しくします。これは進化的軍拡・情報戦争といえます。自分に優位な情報をいかに発信するか、生物界でも日常行われているのです。カッコウのヒナは巨大です。宿主の親の数倍になることもあります。宿主がこんなお化けのように大きな子を見分けられないのでしょうか。一つの理由はカッコウのヒナの鳴き声は宿主本来のヒナの一腹分、すなわち五羽か六羽の全部が一斉に餌ねだりをしている声にそっくりなのです。もう一つの理由は、自分のヒナとカッコウのヒナをどうやって見分けるか。カッコウのヒナは、他のヒナを放り出してしまうので、巣のなかにはそれ1羽しかいません。しかも、ヒナの段階になってから、もしも識別を誤って自分自身のヒナを拒否することが起きると、それは宿主にとっては大変な損失です。そこで、宿主は中途半端なヒナの見分けはしないほうがよい。いずれにせよ、この情報戦争はカッコウが勝っている場合が多くなっています。一つの理由は、カッコウの方の事態が宿主より事態が切迫しているからです。ウグイス等の宿生は、カッコウにやられるチャンスは一生の間に二度はないくらいです。ところがカッコウにとっては、毎回の繁殖が成功するかしないかがすべて、騙しに成功するかどうかにかかっています[v]

 生物界で本能的に騙しをつかって生きている動物・植物がおおくあります。人間社会にも情報で他者を騙して生きている集団が居てもおかしくないはずです。我々は他者を騙しているのか、騙されているのか、それとも情報の海に浮いているのか不思議な世界に住んでしまいました。IT技術の進歩の結果、我々は情報の海に浮いている筏で昼寝しているのかもしれません。嵐がくるのを知らずに。

以上


 

[ii] 吉田和彦『暗号解読戦争』、(株)ビジネス社、2001年4月20日、3頁。

[iii] 同上135頁。

[v]長谷川眞理子『科学の目 科学の心』岩波新書 199971934-37頁。