『 戦争論』

 多木浩二 岩波新書 2002年4月5日 700+税

 

 

 

    
 

                                        人間科学専攻 4期生 長井 壽満

   

  20世紀は戦争の時代であった。世界を覆いつくした第一次世界大戦(1914年)、第二次世界大戦(1938年)は語るに及ばず常に世界の何処かで戦争が起きていた。日本をみると徴兵制度が明治5~6年(1872~73年)に設立され、徴兵された軍隊が明治10年に起きた「西南の役[i]」の勝利を収めた。明治政権が成立してから、西南の役、日清・日露戦争、中国への出兵、満州帝国創出、シナ事変、中国への出兵、第二次世界大戦の終了まで日本は内戦と外征、戦争の連続であった。

 多木浩二は文学部美術史学科を卒業している。美術という感性を扱う人間、多木浩二、が感性から発露した思考から20世紀の戦争とその前の戦争は違っていることを直観的に捉え、直観から事実に迫り、歴史と論理の積み上げから現代の戦争は人間にとってどのような位置づけなのか、読者に問いかけている。今我々が生きている時代の戦争が過去の戦争に比して異常な戦いである事実を多くの例を挙げながら簡潔・直截な言葉でグイグイと迫ってくる本である。鋭くも戦争は言語空間に生まれる言説から生じており、言語空間を越えたところの美、言語空間でいう「詩、思想、芸術、そして慎ましい日常性」でしか人類の未来の方向が見えないと断じている[ii]

 多木は現代の戦争に的を絞って議論している。有名なプロセンの軍人でナポレオン戦争を経験したカール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』で戦争の言説「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほからない」に多木は疑問を呈している。世界が国民国家で埋められる以前には兵役は無かった。兵役は一部の富める人間だけの問題であり、そもそも国民などというものは存在しなかった。君主制国家では、軍隊は国民全体とは無関係なのである。整備された近代国民国家とは、平時から、「暴力」(常備軍)/「非戦闘員としての国民」(いつでも兵士になる)/「経済」(生産、国債その他)の組み合わせにほかならないのだ。近代国家はいつでも戦争できるように油をさし、磨きをかけていたのである。これを「戦争機械」と呼んでもよかろう[iii]。日本を例にとっても明治維新までは武士階級が存在し、戦争は武士が行う仕事であった。

 二十世紀の大きな戦争は国民国家間で行われてきた。軍事的観点からみると、国民国家はすべての国民を戦争に巻き込む装置であった。したがって二十世紀の戦争を問うことは、国民国家とはなにか、またそれが軍事力をもち、いつでも戦争できる態勢にあるのはなぜか、を問うことである[iv]。日本では戦争という言葉は戦後意味もなく忌み嫌われてきた。平和憲法が有ったために、日本では平和が維持されていると勘違いし、戦争とはなんであるか、日本人にとって第二次世界大戦の意味を問うことをしないで済んでしまった。戦後生まれの者にとっては、戦争は観念上の言葉であった。日本人は戦後60年間戦争に対して思考停止の状態であった。憲法第九条を錦の御旗として、世界上位10位以内の軍事予算を使いながらも自衛隊は軍隊で無いと理解していた幸せな国民国家である。

イラク派兵が決まり、憲法改正が議論される今こそ戦争の意味を問う必要があるのではないか。戦争の意味を問うた結果の戦争肯定であれば選択の一つとして認識できる。しかし戦争の意味を問わないで戦争することは、戦争の責任を引き受けないと同義である。日本の戦後処理がまだ終わってないのは、日本人に戦争を起こした当事者である意識が無いのである。多木は「日本の場合戦争責任を問う上で少なくとも二つの障害があった。ひとつは同義的責任を問うにはほど遠いまで被害者意識が強かったことである。それには、われわれは騙されていたという意識が働いていたし、原爆の被害がおおきく作用していた。アメリカの戦略爆撃による被災も大きな要素となっていた。もうひとつは昭和天皇の責任を問わないですませたことである。常識で考えても、天皇は大元帥として軍隊の最高の責任者であった[v]」。さらに続けて、「日本人は都合の悪いことを選択的に忘却してきたのである[vi]」と多木は言い切っている。 

多木は今の日本に対して痛烈なエピソードを引用している。「何時も話題を呼ぶベネトンの広告写真家オリヴェィエーロ・トスカーニが、日本の若者をモチーフにするために、東京原宿あたりを徘徊している彼らを撮影しながら200人にインタビューをした。トスカーニいわく、世界中でこれほど悩みもなく生きているのは彼らだけでないか、そして、彼らは社会にも世界にも全く関心がないし、何も知らない、と。・・・・・トスカーニは彼らが天使に見えてきたと言う。しかもその天使は、これから我々が迎えようとしている悲劇を予告する天使のようだった、と。言い換えるなら、この危機の時代をまったく無知なまま生きている存在に、いっそう危機の世界が透けてみえたのだろう[vii]」。 

それでは、どんな戦争が迫っているのだろう。20世紀の戦争は死と暴力の戦争であった。第一次世界大戦と第二次世界大戦で数千万人の人が死んだ。その死に様が過去の戦争と違っている。技術の進歩により、大量生産・大量破壊のシステムが完成していた。意味のない死の大量消費システムが「アウシュヴィッツ」であり、大量破壊は「ヒロシマ」であった。現代社会では価値を生まないシンボルの大量生産、大量消費システム(メディアもそうである)が正常な状態になってしまった。戦争は戦後の様相を先取りしていたのだ。「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」の記憶が薄れていく中で多木は「しかし、戦争は経験したものにしか分からないとういう議論には賛成しかねる。われわれは歴史を学習し、その意味を考えることはできるのだ。それが歴史の現在を生きることである[viii]」と人類が共有する歴史の連続性からの世界認識が必要であることを示唆している。

ソ連が崩壊し冷戦が終結した。冷戦とは「誰が敵なのか」という政治的決定がすでになされている関係である。それでは冷戦後に戦争はおわったのか?毎日各地で紛争が起きている記事を目にする。冷戦から内戦と戦争の様相が変わっただけである。まさに第二次独立戦争が始まったと言ってもおかしくないだろう。アフリカでの内戦、ヨーロッパによって引かれた不自然な国境、及びグローバル化に伴う先進国と同期された社会・経済構造から生じた民族間の緊張関係から内戦が生じている。多木はルワンダの内戦の遠因は「ヨーロッパ人による歴史の捏造であった。それは、歴史の捏造がなにを引き起こしたかを理解することが、現在の歴史を認識しそこなわない第一歩であることをわれわれに教える[ix]」と歴史認識の重要性を強調している。 

ユーゴスラビアの崩壊にともなう、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は、バルカン半島で他民族、多文化を穏やかに維持してきた地域で、民族的に均質な国民国家を目指す動きのためであった。多木は「民族のアイデンティティは積層してきた文化や政治の記憶に依存している。この記憶を現在において構成することが歴史になる。だから民族を否定するには、その民族の記憶の蓄積を壊滅させるという手段がある[x]」。ボスニアの内戦ではこの事が実行された。ヨーロッパが何故ボスニア内戦に関与したのか多木は「ヨーロッパの中核諸国はすでにグローバリゼーションに適応する道を選んできていた。どんな先進国家も、資本から文化にいたるまでの領域でグローバルゼーションの圧力を受けているため、国民国家から先へのさまざまな選択を迫られてきた。そのもっとも効果的な方法として、国家の消滅する危険を冒してでも、未来に向って現状を超えることを選んだのがヨーロッパだった。EUの中核をなしている国家がたどっているのはこの方向である。・・・・・EUがバルカンに干渉するのは、・・・、その版図内に、均質な国民国家にこだわる国があって内戦にまで発展する地域が存在することに、秩序の危機を感じとったからだ[xi]」、と説明している。いいかえると、民族と国民国家の間に矛盾が生じたときに、世界は「可能性」として戦争化しているのである。 

同時にテクノロジーの異常な発達から、今やかってないほどの殺傷力をもつ軍事力が世界中に過剰に蓄えられ、同時にいちはやく老朽化するようになってしまった。軍事力の消費自体が、戦争を行う合目的性のひとつになりつつある[xii]。過去の戦争は欠乏が戦争の原因であった。今では過剰がそれに取って代わった。このように多木は現代の戦争を複眼かつ多方面から捕らえて議論を進めている。

最後に多木はEUのユーゴへの攻撃がEUのいう「想像の共同体」の未来に、アメリカが主役で参加している点に疑問を呈して、国民国家を超えた「共同体」という政治モデルはひとつではなく、EUの上にはNATOを通してさらに大きな帝国(アメリカ)が被さっているように思える。しかしグローバル化のなかにあってさえ、地球規模での帝国の維持は不可能である。戦争そのものの発生する条件が未知のものを含んでいるように思える、と多木の感性が吐露されている。日本にとって戦争は遠い存在に思えるが、多木は「戦争が世界性をもつということは、金融や為替のレートが世界性をもっていること以上のものである[xiii]」と断じている。戦争と為替レートとの対比、この感性は多木という芸術家が持つ直感でしか得られない表現である。多木は戦争を正面に見つめながらも、将来の希望を冒頭に述べたように「詩、思想、芸術、そして慎ましい日常性」でしか人類の未来の方向が見えないと我々の進む方向を示している。

どうも、きな臭い匂な?と感じている人にお勧めの一冊です。    以上


 

[i] http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-seinan.html 

『西南戦争 概説、明治維新と全国の暴動』、2004219日アクセス。

[ii]多木浩二『戦争論』、岩波新書、200245日、191-192

[iii]同上13-14

[iv]同上、22

[v]同上、83-84頁。

[vi]同上、85頁。

[vii]同上、86-87頁。

[viii]同上、120頁。

[ix]同上、140頁。

[x]同上、147頁。

[xi]同上、172頁。

[xii]同上、175頁。

[xiii] 同上、188頁。