『人間の条件』

ハンナ・アレント著 ちくま学芸文庫¥1,500(税別)
ISBN:4480081569

 

 

 
 

                                        人間科学専攻 3期生 河村俊之

   


 ハンナ・アレント(
19061975)は、ドイツ系ユダヤ人として生まれ、ナチスの台頭を契機にアメリカに亡命した社会思想家ですが、不思議な魅力をもった人です。

 「不思議な」という意味は、彼女にレッテルを貼ることが難しいからです。思想家にふれる場合、とりあえずは、政治的には左右どちら系なのか?反近代なのか近代擁護なのか?という分類やらレッテル貼りを、無意識的にもしたくなるところですが、そういう意味では、分類しがたい人だと思います。正確に言えば、彼女は幾重にも分類されてきたのですが、その言説の寿命の長さが、分類を無意味にしてきたというところでしょうか。

たとえば、代表作のひとつ『イェルサレムのアイヒマン』では、アイヒマン裁判を論評していますが、アイヒマンじたいは極悪人ではなく、組織の命令に従順であっただけで、むしろ、組織に属するがゆえに良心の麻痺が生じた所以を問題にします。極悪人を裁く歴史的裁判を期待していたユダヤ社会にとってはシラケた物言いだったはずですが、今日から見れば、組織の命令・要請にからめとられがちな近現代人の心性をはじめて解明した言説であるともいえます。これだけでなく、アレントは同時代の論壇からみれば、気が利かない、ときによれば「反動的」な役回りをも演じてきたわけですが、しばらくたって再評価してみれば、キラリと光る、そういう思想家であると思います。

 たとえば、エラスムスの中には、現代からふりかえると様々な要素を見ることができますが、しばらくは、プロテスタンティズムの陣営からもカトリックの陣営からも、「カメレオン」、「裏切り者」などと酷評されてきました。再評価には長い年月を必要としたわけですが、ちょうど彼女もそのようであり、それゆえに、さまざまな意味で息の長い思想家だと思います。

 アレントをめぐって、近年の思想界では、ちょっとした事件がありました。それは、マルティン・ハイデガーと彼女が恋愛関係にあったことが「判明」したからです。ハイデガーは短期間にせよナチス党にかなり肩入れしており、ファシズム批判では一貫していたアレントとは、政治的には水と油である「べき」関係、ありえない関係とみなされたからです。

 私も仰天したひとりですが、まあ、こういう生き様の面でも、彼女らしさがあらわれているような気がします。

 さて、本書は1958年に刊行されたアレントの主著のひとつです。論点は多岐にわたり、そのいずれもが21世紀になった今日においても新鮮な輝きを発していますが、最大の論点は、「労働」の意味に対して、初めて本格的な疑義を呈したことです。

 どういう思想であれ、彼女が登場するまでは、労働は人間の本質とされてきましたから、当時はかなり刺激的な言説であったと思います。近代産業人にとって、労働は神聖な義務であり、労働の意義は疑いようのない自明なことです。また、現代においては、労働を通じた「自己実現」(イギリスの倫理学における人間学的思想が産業主義的に変容した概念)を図ることが、半ば強迫的な課題となっています。また、左翼にとっても、「疎外された労働」から解放されれば、労働は楽しい人間的営みであるはずだとされ、このことについては、それこそ膨大な研究の営みがあります。

 彼女は、古代ギリシャ社会を現代的に仮想したうえで、それらに異を唱えます。アレントは、人間の「行為」を、「労働」(labor)、「仕事」(work)、「活動」(action)の3類型に分け、「労働」は生存のために必要な営みではあるけれども、「労働」じたいの中に固有の意義はないとしました。創造的な営みは「仕事」の中にあるけれども、概念的には「労働」と「仕事」は別であるというのです。まあ、両者が幸運にも一致すればいいわけですが、一致するとは限らない。これを混同するから思考の無理が生じる。そして、アレントが3類型のなかで、最も意義を認めているのが「活動」です。言論活動などによって形成される「公的」な領域における営みをさします。後に、ドイツの思想家ハーバーマスは、これを批判的に発展させ、「公共圏」、「コミュニケーション」という概念を提示しました。

 あらゆる価値の自明性が疑われる現代からみれば、ある意味で当たり前のことを言っているわけですが、これを精妙に仕上げているところが、読者にじわじわと効いてきます。

現実問題として、このように生きることはかなり「しんどい」ことかもしれません。私たちの日常はあくまでも「労働」を中心に回っており、「労働」のなかに意義を見出し続けていかなければ失速しかねないと思われるからです。余暇は疲労回復や趣味などの快楽的消費にあてるのがやっと。労働をこなしながら、労働以外の場でなにかしら創造的なことを営みつつ自己の生を認証し、かつ、ボランティアや市民運動などを通じて政治・社会に関与しなければならない・・・。やってみたい?

 そういう意味では、この本は「読んではいけない本」であるかもしれません。読んだら悩むであろうことだけは「保証」します。私にとっても、折にふれてつきまとってくる、やっかいな本です。

 アレントが言わんとしていることは、人間の「複数性」の意義であると言えるかもしれません。これは、様々な人間がいるという意味であり、同時に、個々人の中にも多様な「自分」があるということであり、「コンセンサス」や「精神の調和」にこだわる思考方法じたいに疑問を呈します。これも、我々の日常感覚にとっては違和感を覚えるところですが、アレントは日常の円滑な処理方法を問題にしているわけではありません。一種の、人類史的な課題として、葛藤と多様性に意義を見出しているわけです。

このような意味で、誰しもが思い当たる核心をついている本であるとも言えましょう。それゆえに息の長い本であると思います。