川物語(多摩川編 その2) 

 

                   ――― 日陰の村と大都会 ―――

                                                                    

 

                                   国際情報専攻 2期生・修了 村上恒夫

                                                                                      

 

 

 

 

 

源流を下ると、小河内ダムのダム湖に行き着く。多摩川の水源地周辺は1000m級の山並みが連なり、川の水源地のみならず東京都に隣接する山梨、埼玉、神奈川を流れる種々の河川の分水界が複雑多岐に入り組んでいる。小さな支流が急峻なV字谷を蛇行しながら流れ、小河内貯水池に注いでいる。小河内ダム(貯水池)は、1932年(昭和7年)に計画されたが、その完成は1957年(昭和32年)までもち越された。

 

このダム湖を別名奥多摩湖とも言い、その湖底には3千人が暮らした村が眠っている。このダム建設時の出来事を石川達三は 『日陰の村』として一冊の本にまとめた。この本を読むたびに、国家の無慈悲さに流される善意の村人に、ただ涙するばかりだ。

 

計画から着工まで6年がかかり、その間に村は活力を失い自滅していった。活力を失った村は食いものにされ、人々は極貧化し、人心は荒んだ。

 

山の集落から奥多摩湖を見下ろす。

 

 ダム地点の流域面積262.88ku、満水時の湛水面積4.25ku、満水位526.5m、低水位425.0m、最大水深142.5m、有効水深101.5m、堰堤高149m、総貯水量1.89×108m3、有効貯水量1.85×108m3の規模をもつ。

 

氷川から大菩薩へ続く旧道からダムを見る。

 

小河内貯水池は日本最大の水道用貯水池であるが、その規模に比較して流域面積が狭く、かつ流量が少ない地域にあるために、満水になる期間は殆んどなかった。

 

1965年(昭和40年)、東京はオリンピックの開催地として脚光をあびていた。また、都市の人口が急増し、水の需要は当初の計画を大幅に超えて行った。その年に東京を襲ったのが水飢饉であった。その後、1971 (昭和46)にも貯水池が貯水率5%を切り、水不足は深刻化の一途をたどった。小河内貯水池の場合、1955年〜1965年(昭和3040年)までの間に満水であったことが3回しかなかった。

 

そもそも小河内ダムは、大正期に作った村山、山口貯水池が完成した時点で両貯水池では東京の水需要を賄いきれなくなり作ったダムなのだ。しかし、このダムも出来上がった時に既に水需要を賄いきれなくなっていた。

 

 行政の無能さゆえなのか。想像を絶する都会化が東京を襲ったのか。お粗末と言えばこれほど後手後手の策もないものだろう。現在では、土木国家日本の光の一面として、昔ほどの水飢饉と呼ぶほどの渇水はない。東京は多摩川を主たる水の供給源とはせず、活路を利根川水系に求め、その上流には数多くのダムが作られた。

 

 ダムの水が多摩川へ放流される。

 

 石川達三は『日陰の村』の中で、都会という大木の日陰になり枯れていく村を書いた。弱き善者が何か、わけの分からない巨大な物に押しつぶされていく。それは人の欲望で育つ大都会であり、乾いた人間の心なのだろうか。
 

その渇きのあまり水が不足するわけではあるまいに。