連載「裏方物語」  3
                          

             公募をしてみれば・・・

                                    国際情報専攻 5期生  寺井 融

 

 

    

 

 

 日本で、テレホンカードの発行が始まったのは1982(昭和57)年のこと、電電公社の時代である。あれはNTTとなった85(昭和60)年のことか、民社党教宣部長であった私は、民社テレカ≠作ろうと考えた。当然、お金がかかるので、「稟議書」を通さなければならない。

 「五百円分しか使えないのに、なぜ七、八百円で売ろうというの。売れないんじゃない?」と、「稟議書」を見た党幹部(国会議員)が反対する。

 「いや、デザインが良ければ売れます。悪ければ、五百円分使えるものを『定価五十円です』といっても売れません」と私。

 「カードが使える公衆電話は、田舎では見かけないよ」

 「だから、田舎で売れるんです。都会ではこういうものを使っているって…」

 幹部(患部?)をなんとか説得して、日本の政党で初めて(土井テレカは数年後)のオリジナルテレカ≠千五百枚作った。うち千二百枚は金沢の党パーティのお土産で使った。残り三百枚を八百円で販売した。一部マスコミで話題となり、流通枚数が少なかったためもあって、テレカ市場では八千円までになった。その成功を受けて、テレカと同様に新体操するデザインで、オリジナルカードラジオを五千個作った。千五百円で販売したけれど、今度はサッパリ売れなかった。在庫となったので、パーティ土産用として売りさばいた。

 広報宣伝担当となって、一番気を使うのは党の広報ポスターである。政治家はポスターが命みたいなところがあり、関心が高い。

選挙間際に急にポスターを製作することになった。時間が足りない。写真を貸し出すラボで、バスト豊かな女性がマラソンしている写真を借りてきて(用途によって値段は違うが、当時は五万円であったと記憶する)ポスターを作った。評判が良かったのだが、後に、その写真は、サラ金業者のチラシにも使われていることが判明した。これでは党のイメージが悪くなる。慌てましたね。

あるとき、某大手広告会社にポスター製作を依頼。デザインほかで二百万円の請求書がきた(もちろん印刷代は別)。明細を見ていくと、カメラマン代、スタイリスト代、ヘアーメーク代などに続いて、モデル代が十万円とある。もっとも高額であったのは、製作管理代の八十万円であった。次回は、これをケチろうと思った。カメラマンやスタイリストなら知っている。スタジオの手配も簡単だ。問題はモデルである。

そこで、キャンペーンガールを募集した。プロアマ問わず、優勝者に百万円。一年間、写真モデルやイベントの司会などを務めてもらう。二百人を超える応募者があり、写真誌やスポーツ新聞の話題となった。初代のTさんは、選挙応援まで熱心にこなしてくれ、評判が良かった。

結局、五代のキャンペーンガールが生まれる。二代目のIさんは、NHK「朝の連続ドラマ」のオーデションにも合格した。政党の現役のキャンペーンガールであることが問題となり、降ろされるハプニングがあった。真相は、同じころ関西の民放テレビ局のオーデションにも受かっており、NHKを優先したため、スポーツ紙にリークされ、たたかれたということらしい。

 応募すればどれも受かるということは、彼女自身、つまり素材そのものが素晴らしかったということだろう。だが、その後パッとした活動が伝わってこない。アマ野球の選手が好きだといっていたから、結婚して引退したのであろうか。このケースは、売り出しに焦ったプロダクションに問題があった。

 その点、四代目のKさんは違う。当時は、アフリカで井戸を掘りたいと語る私大工学部の学生さんだった。応募のきっかけは、夏休みの帰省中に父親がとっていた『週刊民社』の募集要綱を見たため。モデルやタレントの卵だらけの中で、素人っぽさがひときわ目立った。後に彼女は映画女優となり、ブルーリボン主演女優賞を獲得する。一人のスター誕生に役立ったと思えば、感慨深い。

 ポスターといえば、コピーである。選挙用ポスターの「コピー公募」を提案した。「コピーって複写機のことか」とは、海兵出の上司、いまは亡きY代議士のご下問である。るる説明すると「あっ、スロガーンのことか」だって…。糸井重里氏や林真理子さんが脚光を浴び、『萬流コピー塾』なる週刊誌連載があった時代の出来事である。Y氏は、バランス感覚のとれた常識人だった。しかし、このときばかりは“政治家は世事にうとい”と思った。妥協の結果、「キャッチフレーズ募集」ということになり、賞金は百万円とする。

プロアマ問わずのはずだったのだが、ある労働組合の幹部から「一本百万円ではなく、たくさんの応募者に賞金がいくように、優秀作品に十万円。十本出したらよい」との意見があった。結局、身内(民社・同盟系)だけの“公募”となってしまい、当初の狙いである、マスコミを通じての盛り上げは、薄れてしまった。それでも、約六千通の応募がある。「汗と税、ムダにしません。民社党」などが生まれた。そのときの選挙は、勝利した。

 公募といえば、もう一つ。結党二十周年懸賞論文を募集した。最優秀作には西独行き航空チケットと賞金七十万円。当時、民社党の月刊誌に関嘉彦都立大名誉教授が「ベルンシュタインと民主社会主義」を連載しており、先生は原稿料を受け取ろうとなさらず、ならばそれを生かそうと、原稿料を賞金の原資として実施したのだ。党幹部に交渉して、党側にはチケット代と選考経費を持たせた。当方は一次審査を厳粛にやりたい、と主張し、ホテルオークラの和室を借りてこもった。檜風呂が気持ち良かったことだけを覚えている。(つづく)