紀行文   ノモンハン紀行1

                           

            

                    国際情報専攻 2期生・修了 星亮一

 

   

 

 今年の夏、ノモンハンに出かけた。

 ノモンハンといっても若い世代には、もう関心が薄いかも知れない。

 全般的にはそうなのだが、例外もあり村上春樹が『辺境・近況』でノモンハンを取り上げ、この戦争で日本軍がソ連軍戦車部隊に完膚なきまでに蹂躙され、兵士二万人ほどが死傷したが、軍の首脳部はなんの反省もなく、二年後には太平洋戦争に突入、二百万を超す兵士が死傷したと書いた。

 昭和十四年に起こったノモンハン事件は、太平洋戦争の前哨戦であった。日本陸軍はそこで蒙った手痛い打撃をひた隠しに隠し、太平洋戦争に突入した。

 少年時代、身近に空襲も体験した私は、どうしてもノモンハンを見たかった。

 八月二十五日、私は一緒に出かける人々と新潟空港から中国東北部の国際都市ハルビンに飛んだ。ちょうど北朝鮮の万景峰号が新潟港に入る日で、混乱を心配したが、空港の周辺は平穏で、特に支障はなかった。

 飛行機は二時間半でハルビン空港に着き、夕方六時過ぎの列車で中国国境の町滿州里に向かった。

 寝台特急『滿州里号』は、四人一部屋、二段ベッドで、夕暮れの旧滿州の大地をひた走りに走った。

 中国の東北部、旧滿州国の地は五族共和の多民族国家であった。外見的には独立国家だが、実質は日本の植民地だった。戦前、ここに、多くの日本人が生活していた。今回もここで生まれた人、育った人が参加していた。

 私にとって今回の旅は三回目の旧滿州旅行である。

 旅の興味の一つは旧南滿州鉄道である。日露戦争で勝利したことで、ソ連から譲渡されたのがこの鉄道だった。昭和八年には世界に誇る大陸特急「あじあ」が、時速百キロで走り世界の注目を集めた。寝台特急は、特に揺れることもなく、快適だった。

 満州里は内モンゴルである。朝、目が覚めるともう見渡す限りの大草原が広がっていた。内モンゴル自治州の面積は日本の三倍、百十万平方キロである。走っても走っても見渡す限り草原が続いた。

 滿州里からノモンハンまでは、大草原を車で二百数十キロ走らなければならない。途中のアムコラン(阿木古郎鎮)に一泊して、そこからノモンハンに向かった。ここからだと六十キロの距離である。大草原のなかをマイクロバスは走った。

 目指すノモンハンに近づいた。国境紛争となったのハルハ河が遠くに見えた。

 ついに来たのだ。私は万感の思いで、ハルハ河を遠望した。

 写真は、「滿州里からノモンハンへ、延々と草原ハイウェーを走る」

「草原のあちこちに羊の群れがいた」