北京便り(7)

 

                                     国際情報専攻 4期生  諏訪一幸

   

 

 11月7日、北京に初雪が降りました。いつになく早い冬の到来です。市の集中暖房システムは、例年通り15日稼働だったので、多くの市民が寒い一週間を耐えました。

             

(写真は、初雪翌日の北京です。雪の重さに耐えられずに折れた街路樹の枝が路上に散乱
  していました。全市で1347万株が被害に遭ったそうです)

初雪直前、日中関係に炎があがりかけました。我々日本人にも馴染みの深い西安で発生した「西北大学事件」です。発生から一応の決着に至る経緯は、概ね次のようなものでした。10月29日に行われた同大学外国人留学生による「文芸の夕べ」で4人の日本人が演じた劇に、中国人学生が激怒。翌30日、千人を上回る数の中国人学生らが留学生宿舎を取り囲み、謝罪を要求。その過程で、激昂した一部学生が宿舎に乱入し、事件とは無関係の日本人留学生2人を殴打するという事件も発生。また、その後、少なからぬ中国人学生が街頭デモを行い、多くの民衆を巻き込み暴徒化したことで、事態が悪化。しかし、4人が謝罪文を大学側に提出し、11月3日に帰国(実質的な強制退去処分)したことにより、事態は一応鎮静化。

 事件発生当初から、私は強い疑問を感じていました。ここまで事態が悪化した理由は一体何なのか。中国のお国柄を理解しない日本人留学生らの軽率さがきっかけだったことは否定できないにしても、「意外と脆い日中関係」という単純な枠組みだけでは全体像を把握できないのではないか。現場入りした同僚の印象や報告、各種報道をもとに、以下、「疑問」について考えてみたいと思います。多少の憶測が含まれているかも知れませんが。

前後逆になりますが、まず、事件の発生・拡大の背景には「日中」以外の要素もあるのではないかと思うに至った理由です。「日本人留学生らの下品な寸劇に中国人学生が激怒」との第一報に接した時の私の最大の関心事は、不謹慎のそしりを受けることを覚悟で申し上げると、「学生は一体どんなシュプレヒコールをあげたのだろうか」というものでした。そして、私は、「ハレンチ日本人。珠海の次は西安か!」とか、「毒ガスでチチハルを、亜流文化で古都西安を侵略する日本人は出て行け!」といったものをイメージしました。全く関係ない複数の事象に何らかの共通点や関連性を見出そうという中国人の思考様式、或いは、「歴史に対して反省しない日本人」というステレオタイプ的な対日イメージに基づけば、多分そんなところだろうと思ったわけです。しかし、私の予想は見事に裏切られました。「中国人を馬鹿にするな!」。これが回答だったのです。私は、「学生の抗議行動は反日という要素だけでは理解できない」と考え始めました。事態がその後、大方の予想をはるかに上回る程度にまで深刻化したのは、まさに、複合的原因が存在していたからなのです。 

では、反日以外の要素とは一体何なのでしょうか。私は、3つあると考えます。

第一に、中国人大学生に共通する特性という問題があります。「中国人を馬鹿にするな」。日本と異なり、中国社会において大学生は確実にエリートです。社会主義市場経済の荒海をこれからどうやって泳いで行くべきかを彼らは真剣に模索しています。政治、経済、文化、あらゆる領域からの情報収集に努めているのです。「文芸の夕べ」で彼らが期待していたのが宴会芸などでなかったことは、容易に想像できます。そして近年、このようなエリート意識に、自信と民族主義的愛国主義という2つの要素が新たに加わりました。自信は、国内的には猛烈な経済発展(その象徴が有人宇宙飛行船「神舟5号」の打ち上げ成功)に、国際的には国連安保理常任理事国或いはアジアの大国としての活躍(その象徴が六者協議のコーディネート)に基づくものです。民族主義的愛国主義は、私はこれを批判的にとらえていますが、近代中国の「屈辱と悲惨さ」を過度に強調した歴史教育と、唯一の超大国である米国への対抗意識から生まれた内政不干渉政策に基づくものです。異文化理解のTPOとして、自信と民族主義的愛国主義に満ち溢れたエリートである中国人大学生との付き合いには、それなりの心の準備が必要なのです。自省の念を込めて書きます。「もっと勉強しよう、日本人」。 

第二に、「古都」、「学園都市」、そして、「内陸都市」という3つの顔をもつ西安という街の土地柄です。まず、「古都」についてですが、ある中国人の友人は、「西安人は古い歴史を誇りとしているだけに、中国で最も保守的な人々」と断言して憚りません。私には「最も保守的」であるかを判断する材料はありません。しかし、海外との交流の盛んな沿海都市(例えば上海)にある大学での出来事であれば、今回程度のパフォーマンスなら、学生達はこれを受け流していたでしょう。次に、「学園都市」西安の顔です。全国の大学卒業者数が今年から大幅に増加し、しかも、就職率が余り高くなかったことから、内陸屈指の学園都市である西安で学ぶ多くの大学生は自分の将来に強い不安を抱いていたと想像されます。これも導火線のひとつだったのだと思います。最後に、「内陸都市」についてですが、今回の事件は、内陸都市一般が抱える「現代中国社会の陰(治安の悪化や公序良俗の衰退)」の部分が瞬間的に噴出したのだと考えられます。ある中国誌によると、今年1月から8月中旬までの間に西安では4件もの爆発事件が発生、とりわけ、7月14日の事件では5名が死亡しています(犯人は既に逮捕)。いずれも、個人的恨みが原因のようです。また、昨年3月には、サッカーの判定を不満とする約3万人の観衆が暴徒化し、スタジアムに火を放つなどの騒ぎも起こっています。内陸に位置するという地理的制限と厳しい風土とにより、高い知名度が与えるイメージほどには経済発展を遂げることができない。そのような悶々としたムードが街を覆っているのかも知れません(事柄の性質上、厳しい内容になりましたが、私の意図は決して西安批判にはありません。西安は私が好きな中国の街の一つです)。

かつては可能だった、自らの境遇を厳しくさせ得る事態を未然に防ぐ、或いは火種のうちに収拾するということが、当局にはますます困難になってきているという一般的状況があります。これが第三の理由です。寸劇を演じた当事者にはそのつもりはなかったようですが、それを見ていた中国人学生が抱いた「馬鹿にされた」との怒りは、インターネットを通じて、瞬く間に中国全土に広がりました。サイトの書き込みは、日本や日本人への痛罵で溢れました。そして、意外にも、中国政府から日本政府に対して申し入れが行われましたが、それは、「政府としてもっと留学生を教育して欲しい」という趣旨のものでした。これは、「子供の喧嘩に親」的な、双方にとって非常に恥ずかしいやりとりだったわけですが、中国政府がこうした措置をとった理由は、一義的には国内世論の鎮静化にあったというのが私の判断です。ひと昔前であれば、「良好な日中関係に影響を及ぼさない」ことを理由に一部の過激な意見を封殺することも可能だったでしょう。しかし、IT革命の波に洗われているのは、中国とて例外ではないのです。「軟弱な対応は許さない」という民衆の声(そのほとんどがネット上での匿名意見)を当局は無視することができなくなってきているのです。

民の側に立つ姿勢を示すことで大衆的支持を得ようとしている、そして、かなりの程度支持を獲得してきた胡錦濤・温家宝指導部ですが、大衆の声を重視するが故に対応に苦慮するという事態が今後今後一層増えていくかも知れません。警察力の早期・大量投入に学生が反発したことも事態悪化の一因だったようです。「ガス抜きはかえって危険。そうなるうちに芽を摘み取る」。逆説的ではありますが、今回の対応は取り締まりにあたる現場責任者がそう考えた結果だったとも思えるのです。 

以上見てきたように、「西北大学事件」発生・拡大の背景は複雑かつ多面的なものです。しかし、事件のきっかけをつくったのが日本人でなくても同様の経緯をたどったでしょうか。私はそうは思いません。やはり、日中関係における政治の現状といった要素抜きには今回の事件は語れないのだと思います。国交正常化から既に31年もの歳月が流れましたが、歴史認識問題を背景に、「“日本”が理由なら、政府も多少のことには目をつぶるだろう」といった政治的土壌が今でも中国社会に根強く存在していることは否定できない事実です。私がこう述べる主たる目的は、中国の人々や中国政府を非難することにあるのではありません。交流の土台は相手の実情の正確な理解にあるということを言いたいのです。互いの相違点を認識し、しかも、それを尊重しつつ交流を行えるほどには、日中関係は未だ成熟していないのです。政府として成すべき仕事は少なくありません。 

89年、私は北京大学に語学留学していました。ですから、4月中旬に始まった学生運動を内部からつぶさに観察できる立場にあったのですが、それが「6・4」天安門事件という形で悲劇的な結末を迎えるなどとは、全く予想できませんでした。背景も、また、性質も、「6・4」とは全く異なる今回の事件ですが、事態の展開を正確に予測できなかったという点では、私にとって同じ結果でした。中国人大学生の「てごわさ」を改めて痛感した次第です。

                                          (2003年11月2日記)