バジャーノフ博士の特別講義『現代ロシア論』で感じたこと
国際情報専攻 4期生 佐藤勝矢
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10月13日に日本大学会館で開かれましたバジャーノフ博士の特別講義に参加して、いろいろと考えさせられました。
博士の講義の最中、私はこの模様を写真撮影のためにファインダー越しに博士の表情を追っていたため、正直なところせっかくの貴重な講義にも気はそぞろでした。肝心な講義内容にはその一端に触れるのみでしたが、今まで意識したことさえなかった博士 のたたった一言に、講義から2週間たった今もいろいろと思いを巡らしています。それは、ロシア人は今まで自由というものを経験したことがなく、自由というものをなかなか理解できないということです。
現代の日本人なら自由というと人それぞれの感覚の違いはあれ、容易に思いつく何らかの共通したものがあるでしょう。しかし、よく考えてみれば日本でも明治維新のころまでは「自由」など という単語はなく、西洋から入った新たな概念を明治の日本人が表現した新語であって、当時の日本人が一般に自由の意味を正確に理解していたとは思えません。
帝政ロシアからソビエト連邦に至るまでのロシアは、我々西側諸国から見れば何だか国民が常に国家から抑圧されていたという印象があるのではないでしょうか。ロシア人自身も我々が想像していた通りの感覚でいたとすれば、彼らの思い描いた抑圧の反対の概念とは一体どのようなものだったのでしょう。
ひょっとして、そんなことはあまり考えず、西側諸国に感じた魅力は物資が豊かなことだけであって、西側の精神的な面も含めてその体制に共感した訳ではないのではないのでしょうか。いわば、資本主義を豊かな生活を実現する手段と考えただけであって。
思うように生活が向上しないことに国民が苛立ちを覚え、共産主義がいいとは思わなくとも資本主義よりまだましと思っても不思議はありません。ともかくソ連時代には、軍事力を背景に米国と並んで世界の超大国の一角をなしていました。そして資本主義やロシアなりの自由というものを経験しておよそ10年、プーチンが大統領に就任するときに標榜した「強いロシア」に国民が強い共感を覚えた訳です。自由を経験したことのないロシア人からみれば、今となっては豊かな生活の保障されない資本主義に魅力を感じなくなったということは全く自然の成行でしょう。これに対し、少なくとも共産主義時代には「強いロシア」としてロシア人は誇りを持つことができたのです。多少語弊があるとは思いますが、きっと今のロシア人の心境は「武士は食わねど高楊枝」に近いのではないでしょうか。江戸時代の日本の武士にしても、貧しくとも武士としての誇りを保てた時代に、現代の私たちが思うほどの不満は感じていなかったに違いありません。
ソ連邦崩壊を歴史としてではなく同時進行でニュースに釘付けになった私にとって、当時のゴルバチョフ大統領の外交顧問という要職にあった博士の講義を直に聴く機会を得られたことは誠に幸運でした。ファインダーからアップで覗いた博士にゴルバチョフ氏に似た印象を受けたのは私だけだったのでしょうか。いろいろな表情を捉えたかった私にとって、博士は終始真剣な表情に見え、凄みさえ感じたほどです。博士にとっても、この機会に我々日本人に対し、自らの背負った国家国民の誇りを訴えたかったのだと思います。 特別講義が終わってみれば理解できたことは一体何か、答えにはなりそうもありませんが、異なる文化や歴史を背負った者同士が理解し合うのは難しいということです。ひょっとして相互理解は無理なのかもしれない。それなら、多様な価値観が存在することにを念頭に、お互いの価値観を尊重し合うことに意を注ぐべきなのかもしれません。
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