「“青い花”またはキャリア・ゴール」

 

                             人間科学専攻 2期生・修了 笹沼 正典
                    
現在、シニアSOHOメタキャリア・ラボ代表

    

   

 詩人ノヴァーリスが1799年秋から翌年にかけて書き接いだ小説“青い花”は、肺結核による29歳前にしての彼の死により遂に未完に終わる。多くの詩歌や劇中劇に彩られた「壮大な万華鏡を成すこの小説は、・・・時代をこえて大きな説得力をもち、未来に託す秘められた信念が、それぞれの問題を意識する読者を鼓舞してやまないであろう」(青山隆夫)と言われる。私もまた、夭折した詩人の言葉に惹かれて、今の私の問題である「キャリア」を意識して幾つかの思いを巡らすことになる。ここでは、「キャリア・ゴール」について。

 “青い花”は、微熱をいつも帯びているような二十歳の青年ハインリヒが見た朝の夢の中に現れる。「いや応なしに惹き付けられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈が高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸び輝く葉が青年 の体にふれた。・・・青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。・・・花は青年に向って首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、なかにほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。・・・青年の心地よい驚きはいやがうえにも高まっていった。」実は青年の父親もまた同じ色の花をかつて夢に見たと言う。しかし、ハインリヒの“青い花”には、“青い花” 執筆直前に最愛の婚約者ゾフィーが亡くなるというノヴァーリスの痛烈な個人的体験が反映されている。父親が見たのとは異なり、「ほのかにゆらいで見えたほっそりとした顔」はおそらくゾフィーであるように思われる。

 いまや青年ハインリヒにとって、“青い花”は忘れがたいものになる。
 しかしながら、“青い花”は、青年にとって決して手にいれることができないものであり、それ故に生涯を通じて“未知なもの、無限なるものとして憧れてやまないもの”と定められる。青年は、父の奨めもあり、その時代の若者に義務づけられた定めに従って見知らぬ土地への長い遍歴の旅に出る。旅は、若者が「一人前の大人になる」ためであり、同時に、深い山の奥にではなく青年の心の中に咲いているであろうあの“青い花”を見つけるためにである。人は、どうしようもなく、その必然を生きてゆくほかないが、この青年もまたこのように定められた遍歴の旅を生きる。

 いま、若者が世に出てゆくということは、ハインリヒと同じように、これから一生続く仕事という見知らぬ土地への旅に出ることであろう。この旅程こそ、過去から現在を経て未来へ続く若者の「キャリア」をなす。若者は「一人前の大人になり、仕事に関わって生きてゆくことの自分にとっての意味」を探し求めてゆく。これが、「キャリア」の出発に当って今の若者を突き動かす動因になる。この動因が、これから一生続く仕事という見知らぬ土地を遍歴する「旅のテーマ」となり、「旅のテーマ」が「キャリア・エンジン」となる。

 ところで、若者にとって「一人前の大人になる」とはどういうことか。私は、「大人の世界の中で私は私としてある」という自己存在の確信をもつことであると考える。ハインリヒもまた、遍歴の中で「自己に目覚めて」行く。また、若者にとって「生涯にわたって仕事に関わって生きてゆくことの自分にとっての意味の追求」とは、「仕事の自分にとっての意味の最終的な姿、即ち、最終的な納得状態と満足感への到達」であると考える。前者は、キャリア初期の課題であり、その後も繰り返し取組まれるべきキャリア課題であるが、後者は、人の最終的に目指すべき姿としての「キャリア・ゴール」であると考える。私はここで、人の「キャリア・ゴール」とは、結局、ハインリヒが“青い花”を実際にはどの山の奥に行っても手に入れることはできない(とノヴァーリスが示唆する)ように、生涯を通じて“未知なもの、無限なるものとして憧れてやまない青い花”そのものなのだ、ということに気づくのである。世に軽々に「キャリア・ゴールの達成」などと語ることなかれ。“青い花”は手に入らないからこそ探し求めるのであり、その探求の旅程自体が「キャリア」そのものに他ならないと思うの である。(了)