『日本人画家滞欧アルバム1922』
C
アンドレ・ロートとの出逢い –前- 文化情報専攻 3期生・修了 戸村知子
モンパルナス停車場の脇、デパール街にある古い工場の2階。その大きな部屋はなんとか画室として使える程度のもので、しかもその部屋の天井には傾斜がなく、中央にある明かり窓は、お昼になるとモデルに光が直射して未熟な画塾生を困らせる。また一方の壁は、一面がガラス窓になっていて、近所の工場の屋根や煙突が見えている。これは習作を描くとき、背景の構図に役立っていた。1922年に始動したアカデミー・モンパルナスの教室の一風景より。
1922年5月。黒田重太郎は、アンドレ・ロートに師事するためにモンパルナス停車場近くの画塾へ通い始めます。アカデミー・モンパルナスです。黒田が初めてその画塾を訪れた日、そこの経営者であり生徒でもあるスウェーデン人の女性から、だしぬけに「何しに来た」、「指導者の名前を知っているのか」と尋ねられ、「先生の名を知らないで習いにくるやつがあるものか、知っている」と黒田が答えると、「ロート氏はえらい人だ、聡明な師匠だ」と新米に言い聞かせるように、言われたといいます。 じつは、黒田はその年の4月に開催された『フランス絵画の百年間』という展覧会に出展されたロートの作品に接し、また、同展覧会の目録に寄せられたロート氏の言葉によって深く感銘を受けていたことは、前回のアルバムにも綴ったところです。そのアンドレ・ロートについて黒田は、雑誌『中央美術』に「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」という一文を寄せ、このヨーロッパ滞在中に教えを受けた二人の師を紹介しています。また雑誌『アトリエ』の「ロートの人と芸術」もロートを知りうる貴重な記述と言えるでしょう。
アンドレ・ロート(André LHOTE)は1885年7月5日、フランスのボルドーに生まれ、1898年から1904年の間に美術学校で学び、このときは絵画ではなく装飾彫刻を受講したようです[i]。これは、後のロートの画風確立に深く関わっていったと考えられています。展覧会にその作品が並ぶようになったのは、1906年のアンデパンダン展、そして1907年のサロン・ドートンヌでした。 ちょうどその時代は後に「立体派(キュビズム)」と呼ばれる作風が幾人かの画家によって描かれ出し始めた頃です。中でも良く知られているのが黒人彫刻に影響を受けたピカソ(Pablo PICASSO 1881-1973)そしてブラック(Georges BRAQUE 1882-1963)やドラン(Andre DERAIN 1880-1954)ですが、当時彼らの住んでいたモンマルトル界隈だけでなく、ロートのようにモンパルナスにもキュビズの中心的な画家が住んでいたのです[ii]。そしてロートはその芸術を論じる理論家としても名を成した画家でした。 セザンヌの作品やその画論からも強く影響を受けた「立体派」の画家たちは「セザンヌ的キュビズム」と呼ばれますが、次第にそれぞれの求めるところにより「分析的キュビズム」から「綜合的キュビズム」へと変遷を見せます。その中にあってロートが求めたものは何であったのか、探り出すと本題からそれてしまいますから、機会を別にゆずることにしましょう。
ところで、画塾へ通っていた頃のことを黒田は次のように記しています。
かねて覚悟はしていたが、最初私に対するロオト氏の批評は随分手厳しいものだった。正直に云うと、私よりまづそうな画を描いているお嬢さんたちだって、こんなに手酷くやられたことはない。寧ろロート氏は多くの場合生徒たちのいい点をあげて、力づける方なのだが、何故こんなに私だけ仇敵のように扱われるのだろうと、時に馬鹿な嫉も起らないではなかった・・・[iii]
・・・やれ印象派だ、ゴオギャンだ、浮世絵だとやられたものです。断っておきますが、ここに印象派の、ゴオギャンの、浮世絵のと云ったのは云うまでもなくいい意味ではありません。色彩がクールで、描法がシエマチックで、表現が小さすぎる意味だったのです。[iv]
その習い初めの苦悩に満ちた黒田の様子を見かねたのでしょうか、例のその画塾の経営者兼生徒のスウェーデン人の女性(黒田の記述では”A嬢”となっている)が、「あれであなたが懲りてもうやって来ないかと心配した」と黒田に言ったそうです。そして通い始めて一月余りが過ぎた頃、黒田はようやくロートに認められるようになるのです。
・・・・「君も彫刻家のように描き出したこの彫刻するように描くと云う事を忘れぬようにしたまえ」と、始めて承認の言葉を与えられたのはものの一ヶ月も経ってからであった。 何でも六月の末近い或る週間であった。午後のクウルに男のモデルを使って、ドメニカン僧侶の風をさせた事があるが此アカデミイとしては少々珍しいものだったので、こうした題材に慣れない生徒は次第に仕事を中止して、二人減り、三人減り、しまいには私独り残ってしまった。その時氏は私にルーヴルへ行ってグレコやリベラ、ズルバランあたりのスペインのものをよく見るように忠告され、そして私の作とそれ等のものとを比べて、至らぬ所を指摘されたが、週間の終わりになって、「いろいろの小言は云うけれど、君の今描いているものは此アカデミイ始まって以来のメイユールだよ。いいかい。どんな場合にも失望しないで仕事を続けたまえ」と囁くように云われた。[v]
この時の作品が<一脩道僧の像>であり、はじめてフォルムが掴めたといってロートに喜ばれた作品でした。そしてこれ以後、ロートの指導はより厳格なものになってはいきましたが、師弟の絆もより一層、強められていったのでした。
[i] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、pp.4-5 ;Alexandre MERCEREAU,ANDRÉ LHOTE(Paris;Povolozky,1921),p9 アンドレ・ロートの修行中に関する記述には、次のようなものがある。 「・・・・小学校を中退し、装飾木彫の工房で10年余り働く。独学で絵を修得し、20歳のとき画家を志す。・・・・」(展覧会図録『モンパルナスの大冒険1910-1930』読売新聞社・美術館連絡協議会、1988、p.40) また、2003年6月15日から9月28日の間にMusee de Valence でアンドレ・ロートの回顧展が開催されており、美術館のホームページ上に掲載された展覧会の記録〔DOSSIER DE PRESSE、ANDRE RHOTE(1885-1962)RETROSPECTIVE〕にロートの略年表が含まれていた。(http://musee-valence.org/) その記載内容と先にあげたものとを総合すると、1898年に初等義務教育を中退し、装飾木彫の工房に従事しながら、ボルドーの美術学校で装飾彫刻のコースを受講しており、1905年に画家への道を志した、ということになる。
[ii] 展覧会図録『モンパルナスの大冒険1910-1930』読売新聞社・美術館連絡協議会、1988、p.171 [iii] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、p.18 [iv] 「ロートの人と芸術」『アトリエ』4-8、1927、p.49 [v] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、p.18
|
|
|