『世間を読み、人間を読む』副題:私の読書術
阿部 謹也 日本経済新聞社、2001年10月1日、(619円+税)
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国際情報専攻 4期生 長井 壽満
何の気なしに、巷にあふれている人生ガイドknow-how本だと思って、図書館で手にとってみた。気楽に読めるかなと目を通し始めたら、世間とはなにか、人間とはなにか、話は哲学まで飛んでいき、そして教養とはなにか、豊富な例を判りやすく噛み砕きながら述べており、引き込まれてしまった。阿部は、中学生の頃修道院に一年半生活した。キリスト教・ヨーロッパ文化の原点で思春期を過ごしている。知識と経験に裏打ちされながら、平易な文体で淡々と書かれている。仏の思想家ルソーが修道院に自分の子供を棄てている話から中世の社会状況、修道院、キリスト教文化の歴史、「世間」・「人間」とはなにかという命題に迫っている。私が知らなかった多数の中世ドイツの知識人・フランスの思想家、詩人金子光晴、竹林の七賢人、キリスト教等の考えを引用して、個人、世間、権威、とはなんだろうか?豊富な例でヨーロッパ中世を現代に投影していく語りではじまる本である。 現在世界に蔓延している西洋キリスト教文明起点がヨーロッパ中世の思想である。哲学は中世から始まったといえる。そのきっかけはキリスト教なしには考えられない。例えば、キリスト教は聖なる暮らし(財物をむさぼらない、性について非常に清く保つ)を指向していた。しかし現実の世界では修道院内では豊かな暮らし、ビール・ワイン・チーズをたくさんつくり、飽食し、肥満した体で「聖なるものを求めている」という欺瞞を常に説いていた(79−92頁)。キリスト教では親子の関係より「神と個」の関係が至上のものとされた。この欺瞞の生活をしていても天国へ行けるように毎週教会に行き神の許しを請う、これが礼拝である。「贖罪規定書」は現世の誤りをどう修正・贖罪すればよいか、牧師用のマニュアルである。「贖罪規定書」という牧師用の懺悔回答マニュアルが普及し、懺悔が制度として確立した事によって「個人」とういう概念を普遍化させるきっかけとなった。ここではじめて個人が自分の内面を他人に向かって明かす、という行為が制度として確立したのです(84頁)。中世社会はこういう欺瞞的な性格をずっと抱えて現在まで続いている。この中世社会で本当の意味で聖なるものを求めようとすれば「隠者」として暮らさなければならない。集団から離れて一人にならざる得ない。この過程で個人の覚醒が始まり、「個人」の概念が固まった、と筆者は述べています。 このように、個人という「概念」の歴史は意外と短いのです。今の日本「個」を大切にする論調が多いが、本当に人間は「個」で生存できるのでしょうか? 再検証が必要な時期がきたのではないかと思うこの頃であります。日本で「個人」という言葉はインディヴィデュアルの訳語として明治17年にうまれました。明治17年以前には、日本には西洋のような個人は存在しなかったと言えます(94頁)。今、ヨーロッパ文明が叫んでいる民主主義は、「個人」を基盤としながらも、実態は階級社会であるという欺瞞を抱えています。そしてEU統合の過程でトルコの加盟をめぐりイスラム文化とキリスト教文化が融合できるかどうか試されようとしています。 筆者はここで、舞台を日本に移しています。明治維新後「和魂洋才」・「脱亜入欧」と称して「西洋近代的な価値」を導入しました。しかし明治以来学校では建て前の世界しか教えていませんでした。例えば、先生たちは「自分が本当に正しいと思ったら最後まで頑張れ」等といいます。しかし、自分が本当に正しいと思ったことを、相手かまわず、どんな状況の中でもしゃべるのは利口でない、と私は思います。つまり、相手を見て言わなければならないのです。大切なのは「日本では基本的にそれは建て前にすぎないが、そういう建て前を実現すべく努力することであり、それには知恵が必要だ」ということなのですが、その知恵を我々は学校で学んでないのです。世間を構成している人間の「自分の自然的真実性」、つまり食べたり、飲んだり、子供を生んだりするとういう素朴な生活があるはずなのに、その上に出世とか、金とか、名誉とかいろいろな餌さがつりさげられて、そのために餌さに擦り寄っていくときに、自然的真実性を偽の部分が圧倒してしまう。すると、人間もその世間も「偽」になる(166頁)。だから、いい年になっても建て前としての正義や、公生の原理を主張し振り回す人が意外にいるのです(125頁)。自分の周りを見れば、一人や二人こんな人を簡単に見つけられます。世間に本物と偽ものがあり、両方とも存在し正しく、自分の「個」の部分にからんできます。筆者は「偽」の存在と上手くつきあいなさいと述べています。 日本には「神」と「個」の対応は無いが、「世間」と「個」の対応は時代の変化と供に代わっているが存在しています。でも知恵は学校で教えられるものなのか、学校に期待しすぎではないでしょうか。知恵とは経験と環境をとおして身につくものであり、体系的に学べるものではないです。もう少し、筆者はもっと「世間」に対して突っ込んだ議論が必要でないでしょうか。中世のキリスト教を根にもった「共同幻想」と、日本人が持っている「共同幻想」を同じまな板で比較できるのか、大変な作業ですが、今後の筆者の努力に期待したいと思います。 ベストセラーになった『ソフィーの世界』を例にあげソフィー自身が一番最初に「あなたは誰?」という手紙をもらうところから始まっています。「自分とはだれか」という問いかけが「個人の教養」の出発点になっているからです。つまり、職業選択を含めて、自分は何者であり、何をなすことができるかという問いです(138頁)。日本人の場合「あなたは誰?」という問いに対しては、まず、自分が生きている日本の世間のなかでの、自分の位置を知ることから始めるしかないのです。その上で世間の仕組みを解明し、自分の位置をはっきりさせることです。 ここに、著者が研究している中世の考え方「二元論」の発想があります。あちらが立てば、こちらが立たずとういう状況を想定してないのです。キリスト教では最後は「神」に委ねてしまいます。しかし日本、いや東洋はそうはいかないのです。矛盾を含みながらも「面子」をたてて、「世間」を渡る知恵、これが東洋の「教養」ではないでしょうか。 筆者は「偽の意識」という概念を説明しています。これは人類のみが持っているコミュニケーション能力、言語を獲得した時点から発生した「共同幻想」につながる考えかたです。この「共同幻想」がなければ、「国家」は生まれてきません。「学校」も存在する必要がないのです。人類だけが「学校」を通して次の世代に物事を伝える術を持っているのです。 筆者は「偽の意識」に関して「・・・そして、基本的には「偽の意識」というものが全体を支配していますから、その「偽の意識」を知ることが大切なのです。このようなことを教えてくれる本こそ、私たちの読書の基本となるべきものなのです(172-3頁)。」と述べています。さらに歴史の意味を一言で「自分の中の歴史」しかないと断言しています。「自分」とはなにか、筆者は18歳くらいの学生たちに「まず、自分と親との関係、兄弟との関係、友人、高校の教師たちとの関係を整理してごらんなさい」、と言っています。18歳までの自分の対人関係を中心に整理するなかで、自分というものが良く見えてくる場合もあるし、悪く見えてくる場合もあります。それが「自己発見」のきっかけとなるのです。「そこから社会をいうものを見ていけ」という話をしています。社会を見る事から、日本の世間のなかでの、自分の位置を知ることができ,自分の歴史をつくることになるのです。 豊富な例と平易な文章で、今の西欧哲学の出発点、中世西欧思想をベースにして、何を読むか、読むとはどういうことか、教養とはなにか、生きる知恵(哲学)とは、歴史と図書館、文化とは、文明とはと、非常に幅広い話題をコンパクトにまとめてあります。学びを目的に大学に入る人、知識で糧を得ようとしている人にとっては、入門的参考書としてお勧めの一冊です。
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