川物語(多摩川編 その1) 

 

    ――― 源流を見たことがありますか? 水資源と住民 ―――

                                                                    

 

                                    国際情報専攻2期・修了 村上恒夫

                                                                                      

 

 

 

 

 

 

  (写真1)へとへとになりながらも源流に登りつめた著者

 

 「多摩川」、それは山梨県笠取山の水干(標高1,667m)に源を発し、延長約138km流域面積1,240kuに及ぶ一級河川である。

 

 飛行機で羽田に降りたことがある人なら、滑走路の横に広がる河口を見たことがあるだろう。あの河口を遡れば多摩川の源流、山梨県笠取山の水干に行き当たる。源流に滴る一滴はその後、山間の集落を流れ川を形成する。その川は他の支流を統合し、さらに大きな川となり多摩川となる。

 

 (写真2)幾筋かの支流が重なり集落へと流れる

 

修士論文のテーマに多摩川を題材にしたので、在学時に源流を訪ねたことがある。場所は山梨県なのだが、歴史的な経緯から実質的な管理者は東京都がおこなっている。東京都の水道局が水資源確保を目的とし、源流一帯の植林などの営林作業を行っている。東京都は明治維新時に東京の水資源確保のために多摩川流域を全て東京都(当時は東京市)に編入を試みたといわれる。確かに、現在の多摩地区の多くは神奈川県から編入されたものだ。源流部も山梨県から編入を試みたが、周辺には黒川金山があり、この利権のためか編入計画は頓挫したが、営林作業は東京都が行うこととなった。実際、江戸時代から多摩川の上流は江戸幕府が江戸市民の飲料水確保のために営林作業が行われていた実績もあった。水資源確保が、為政者の大きな使命であったことが伺える。

 

 もっとも、神奈川県からの編入については、政治がらみの話も有る。当時、自由民権運動は現在の多摩地区で盛んであった。当時の神奈川県の北西部である。江戸時代に天領であったため、自立意識も高かったのかもしれないし、明治政府に対しては快い心象は抱いていなかったかもしれない。神奈川県の自由民権運動を分断することを目標としたとも言われている。ちなみに「五日市憲法」も多摩川の支流、秋川の上流で起草されている。

 

 古くから、稲作を基本にしていたためか、水についての争いは多々あった。また世界的な巨大都市江戸を下流に持つ多摩川は、玉川上水の掘削により巨大都市の飲料水確保の大きな資源であった。

 

 源流の一筋の流れが大河になる。この感動とロマンには計り知れないものがある。全ての事物は始めの一歩から始まるからだ。たとえどのような大きなことであっても、最初は非常に小さな、微かなことを起因とするのだ。宇宙しかり、大河も、この歴史そのものがだ。だからこそ川は面白い。始めの一歩を見るには川ほど適したものはないだろう。

 

 (写真3)源流付近、後方に微かならがら富士山が見える

 

たとえ近所を流れる小さな小川にも必ず源流がある。川の源流に思いを馳せれば、必ずや川を身近に感じることができるであろう。

 

 

 

 

参考資料
(1)新多摩川誌編集委員会『新多摩川誌/本編 [上]』(河川環境管理財団、2001年)
(2)新多摩川誌編集委員会『新多摩川誌/本編 [中]』(河川環境管理財団、2001年)
(3)新多摩川誌編集委員会『新多摩川誌/本編 [下]』(河川環境管理財団、2001年)
(4)河川環境管理財団 『多摩川水系河川整備計画読本』(河川環境管理財団、2001年)
(5)田辺薫 『たま河源流地誌考』 (近代文藝社、1995年)