連載「裏方物語」  2
                          

                                        国際情報専攻5期生  寺井 融

 

 

 

    

 

 

 学卒で入った(昭和46年)民社党本部での担当は、『組織局報』(月刊)の編集と業務であった。A5判80頁のタイプ印刷(1000部)。上司は出張でほとんどいなかったから、編集長兼小使いみたいなものであった。

 あるとき、大内啓伍教宣局長(後に委員長、厚生大臣)に呼ばれた。

「来年から、本格的な理論誌を出す」

「ハイ」(噂できいていたかから驚かない)

「そこで、君に実質上の編集長をやってもらいたいんだ」

「ハッ!」(これには驚いた)

「対外的には自分だが、全面的に任せる。責任はとる。自由にやってほしい」

 スタッフはどうなっているのかと訊ねると「男二人と女一人をつける。あとはアルバイトを使ってもよい」と言われ、「『前衛』(共産党中央理論誌)に負けない雑誌にしてほしい」と念を押された。同人誌や部内誌のささやかな経験があるものの、本格的な雑誌体験は皆無。不安である。でもね、「任せる」と言われれば、燃えましたね。A5判240頁、1万部発行の理論誌『革新』(月刊)が、わずか二ヶ月の準備で創刊となった。24歳の春。独身だった。

 中央理論誌委員長(発行人)は佐々木良作書記長、委員に竹本孫一政審会長、麻生良方機関紙局長ら国会議員、事務局長(編集人)に大内氏。それら党幹部を前にして、企画原案を提示し、説明するのが私。早い話、企業でいえば、常務会に入社二年目の若造が出て、提案しているのである。

 私はいつも特集提案を十本立ててのぞんだ。そのうち、密かに本命、対抗を各一本、穴馬を二、三本決めていた。ほとんどの場合が本命か対抗で決まり、はずれても穴馬。カスは分かってはいたのだが、入れとくのである。

「A案かB案だな、なんでE案なの? 意味がないんじゃない」なんて言われれば、内心“しめた”てなもの。「いやぁ‥」と不明を恥じて一件落着。

 芝居がばれていたのか、関心が薄れたのか、委員は一人欠け二人欠けし、ついには編集人とスタッフだけの編集会議となっていった。「紅旗を立てて紅旗を撃つ。毛沢東主義を掲げながら左派攻撃が始まった」という論文で、恵比寿から批判されたことも、また別の論文で、狸穴から「反ソ的だ」との声も届いたこともある。党大会で「党見解と違う論文が載っていた」とたたかれ、「多様な考えを載せるのがうちの方針」と大内さんが反論しておしまい。後の和田春生、吉田之久氏ら歴代編集長も、細かいことは言わない。自由に作らせてもらった。

 一番困ったのは、原稿書き換えのお願いだ。西尾末廣初代党首が亡くなったとき、追悼特集を編んだ。ある高名な硬派イメージが売りの政治評論家にも、追悼文執筆を喜んで引き受けてもらった。西尾氏の足跡を偲んだ文章に続き、公民協力批判もたっぷり書かれてあり、「西尾さんも草葉の陰で嘆いているだろう」と結んであった。いくらなんでも不味い。本人宅におじゃました。

「削っていただくか、書き直していただけないでしょうか」

「それはおかしい。この間、お宅の塚本書記長に会ったとき、今回『革新』に原稿を頼まれた。『思い切って書くよ』といったら、『ぜひ、よろしくお願いします』と言われたよ」

「エッ、そうかもしれませんが……」

「ところで、君のところは、役員より職員がえらいのか?」

「いぇ、そんなことはありません」と答えたものの、書き換えに応じてくれない。二時間ねばって、やっと当該「問題」部分削除の了解をとりつけた。

また、別のテレビでおなじみの評論家氏は「自民党の政策はすばらしい。それに比べ野党は」云々と書いてきた。これも困る。「うちも野党ですので……」

「民社を除く野党各党は」と表現を変えてもらった。

 編集者の楽しみといえば、執筆者の発掘である。大学の紀要、学会の研究会誌、そして企業のPR誌までアンテナを張って、新しい筆者を獲得した。一番供給源になったのは民社研(民主社会主義研究会議、現在は政策研究フォーラムと名称変更)の先生方である。総合雑誌には載りにくく、といって学術誌向きでないテーマでお願いした。そこから佐瀬昌盛氏の『ブラントへの道―戦後ドイツ社民党史』『チェコスロバキアの悲劇』、木村汎氏の『対ソ交渉のノウハウ』、関嘉彦氏の『ベルンシュタインと民主社会主義』といった力作が生まれた。

 現在活躍中の寺島実郎日本総合研究所理事長、伊豆見元静岡県立大教授、小林良彰慶大教授らも、若いころに登場している。ノンフィックションライターの塩田潮氏もそうだ。もっというなら、「拉致問題」を世に知らしめた荒木和博特定失踪者問題調査会会長(拓大助教授)も、目下、先鋭な指導者論で売り出し中の遠藤浩一拓大客員教授も、『革新』編集部育ち。民社党本部職員でした。

 さて、題号の『革新』だが、あるとき商標登録がどうなっているのか、気になった。調べてみると、かの著名な名誉会長が登録なされているという。慌てましたね。すでに創刊から十年近く経っている。クレームはきていない。でも……。そこで、急遽「民社党中央理論誌革新」で特許庁に申請。幸いにして認められ、異議の申し立てもなかった。

 編集者の賞味期限は三年だという。37歳のとき「いつまでも雑誌でくすぶらせておいてもいけないので、教宣本局に引き上げたから」と上司に言われた。「余計なことを」と思わぬでもなかったが、潮時であった。発行部数も2万4000部になっていた。その愛する雑誌も発行元も、いまはない。