紀行文   スキーに連れて行ってアゲル

                           

            

                   国際情報専攻 4期生 長谷川 昌昭

 

   

 

 今回の紀行文は、前号や前々号では、国外の紀行文だったので、国内 ? はなどとのご示唆を賜わったこともあって、この度は新潟県の石打へのスキ−行とスキ−についての変遷や考え方を紹介させていただきます。

 

1       久々のスキ−行

それは去る27日の数日前『スキ−に連れて行ってアゲル』と嫁ぎ先の長女からの電話だった。

 

その時は、丁度後期リポ−トの提出も済んで、二年次へ向けての一年次で研究した教材・資料などを整理し、教訓事項抽出の作業が終了時期を迎えて、一段落したホットした時期でもありました。

 

私共家族四人は、一緒に出来るスポ−ツが四つあり、スキ−・テニス・水泳・ゴルフです。従って、早速誘いに乗じて準備にかかり、当日、早朝に長女が運転する長女宅の三ヶ月前購入の新車の助手席に座って、一路関越を新潟へ向かった。

 

平成1527(2003)

イザ上越石打スキ−場を目指して出発 !

 

ご承知の方々も多いと思いますが、石打の丸山スキ−場は、東京から近い上越方面では、4,000m級のダウンヒル・コ−スがあり、コ‐スは31を数え、リフトも21基設置された上越沿線最大級のビッグなスノ−エリアです。特に今年から山頂付近のリフトの新設で輸送事情か好転し、中央山頂付近ゲレンデには、四人乗りの高速リフトが新設され、スキ−ヤ−にとっては、将に、スキ−・アイテム満載の利便性と良い雪質に恵まれる気象条件と相俟って、楽しめるところです。

 

  久々である訳は、一昨年暮れに仙台への出張中に右肩骨折脱臼で、2シ−ズンを棒に振ったということです。その1シ−ズン前に散々検討の末に買い求め一度しか、雪を見ていない『カ−ビング・スキ−』は、倉庫で、「未だか」と夜鳴きしている夢を何度も見ました。カ−ビング・スキ−は、オリンピックやワ−ルドカツプのスキ−大会で、年々用具が改善される中で、一般用としても普及したものです。私は、新開発製品の危険情報などで通常タイプのロッシニオ−ルからは、中々踏み切れずにいましたが、三年前に娘夫妻が新婚旅行でカナダのウイスラ−へ行った際、「レンタル・スキ−でさえもカ−ビング・スキ−」との情報に決断・買換えをしたものです。

 

『カ−ビング・スキ−』は、従来のタイプのスキ−よりも、回転や急制動時の制御の容易性と長距離滑降時の疲労負担減とか高速滑降時の安定感等のメリットがあり、特に初心者や中高年者にも操作性の平易さは、定着しつつあります。この点に関しては、スキ−暦50年の30年前の日本スキ−連盟検定2級取得者として言えます。

 

  当日のゲレンデは、快晴に恵まれて、平日であったことと近時のスキ−人口低下によって、大変に空いており、綺麗に澄んだ空気と雪景色に映える上越の山並みを眺め、良質の190cmの雪にも恵まれて思いっきり、久々のスキ−を緩・急斜面を間断なく、疲れと年齢を忘れさせてくれる程に満喫できました。

 

  しかし 私は娘を幼稚園入園以前から志賀高原や野沢温泉のスキ−場へ連れて行き、ボ−ゲンで滑降する娘を後方から、衝突されないように寄り添って滑ったものでしたが、今度は、石打国体コ−スを滑降する際には、娘に置いていかれる始末で、こちらが後を追う態勢に何度もなる始末でした。娘は家内と同じ体育大学出で、当然スポ−ツ好きで、卒業後は世界屈指の総合スポ−ツ用品メカ−ミズノの社員を経て、現在は主婦業です。子離れしなければと思いつつも、親の心情を汲んでの誘いに感謝した。

 

平成1527(2003)

上越石打スキ−場頂上付近

 

  途中の昼食や休憩は、「そろそろ休むカ」と娘に配慮されながらも、何度か頂上からの連続滑降や国体コ−スへの挑戦などと多彩な滑り方を取り混ぜて、スノ−ボダ−の間を縫って、シニア割引のリフト代の元を採るほどに滑りまくり、楽しいウインタ−スポ−ツ漬けで、宿へ帰ってのお風呂の快適だったことと最上の新潟米を使った宿”Snow House Memory”の夕食が美味しくて、お替りをするほどでした。

 

  ”Snow House Memory”は、私共の30年来の定宿です。新幹線開通前は丸角屋の屋号の老舗の民宿で、親父さんは80を超えても元気旺盛な方ですが、帳場や食堂の現場は娘さんご夫妻が取り仕切っている明るく、清潔で親切なサビ−スの良いところです。

 

  

 

平成1527(2003)

上越石打スキ−場Snow House Memory 当主 高野健治郎さんと

 

親父さんは、高野健治郎さんという、戦前の日本軍の最強部隊として、その名を馳せた高田連隊の庶務班の勇士で、中国旧満州地区から仏印までを転戦した歴戦の勇士ですが、大変元気な明るいとても戦史に詳しい方で将兵のために補給に専念し、最強連隊の基となった方です。戦後は、村会議員や町議会議員を歴任し、石打丸山スキ−場の開発の際には自らの土地を進んで提供・開発に尽力したことで、スキ−場によせる思いは一入のようです。この方との話し合いがまた楽しみの一つでもあります。

 

2      何故スキ−が好きか

スキ−は、自然との対応で何が発生するか解らないところを時速50km余で滑降するスポ−ツで、対応力を培うことと健全な即断力の涵養には、欠かせないものです。

 

そして、自ら好んで寒冷の中を疾走し、自動車の速度に匹敵する早さを自分の勘と感覚で制御し、近代工学の粋を集めて研究されたメカニズムの制動装置による制動距離よりも、人間の体が制御するスキ−の制動距離の方が短いというところに、緊張感と魅力が潜んでいるように信じられてならない。 

 

しかしながら、それを維持し、継続するには、シ−ズン以外に、体力と気力の維持管理がなによりも大事で、健全な精神は健全な身体に宿り、将に『継続こそは力なり』であると信じ、決してスキ−用品の最新情報収集と愛護を忘れず継続することです。

 

3       私のスキ−変遷

 

  

平成1527(2003)

上越石打スキ−場山頂付近から上越の山並みと塩沢町町並み

 


 スキ−を始めたのは、小学校2年の冬です。当時戦時下の東京は、学童は、戦火を逃れて、東京から離れさせられました「強制疎開」です。私のその行先は、母方の実家である雪深い山形で、通学の必要上から憶えましたが、それが病みつきになり、夕方になって雪が凍って、跳ね飛ばされて転倒時に脳震盪紛いの大転倒をして担ぎ込まれたり、正月にお年玉で買って貰った、当時入手困難な新品のスキ−を使用開始の初日にリフト鉄塔橋脚に激突させて、一日でへし折ってしまい大目玉を食らったことなども、今にしてみれば楽しかった思い出です。

 学生時代にも一時期山岳部に所属した時もあったが、鹿児島や三重・京都等の同級生と蔵王や白馬へ、年末や学期末に行ったり、アルバイトで志賀高原の丸池スキ−へ今流のツアコン紛いのこともやった。当時の丸池スキ−場のスキ−リフトの支柱は、現在のような鉄柱でなく、木製のやや曲がった頼りない支柱であったし、同スキ−場のリフトは本邦初のもので、米軍専用で日本人はOFF LIMITであったと日本人初のスキ−メダリストの猪谷千春氏の母親から、伺った。千春氏の母親は、同所のスキ−インストラクタ−としてご活躍していた。 

 その後結婚後には、嫌がる東京以外は知らない江戸っ子娘の家内をも、
半ば強制的にスキ−を始めさせ、一シズ−ンで日本スキ−連盟3級(新潟県関温泉スキー場)を習得させたり、もしましたが、家内以外の子供達は、勿論子供二人はスキ−大好きです。しかし家内は、あまりスキ−には興味を示さない原因は、やや強引に誘ったこととスキ−指導の過程が、育った背景を無視したもので、効果が無かったばかりか、反感を買ってしまったとの反省もあります。

 今年3月にSCIP日本代表で、米国アナハイムの国際会議に臨むに当たって、帰路はカナダのウイスラ−経由のスキ−を密かに企図したが、家内に一蹴されて、没 イラク開戦当日をハワイのマウイ島のあのゴルフPGA開幕のメルセデス・ベンツクラッシック戦の場となるカパルアのプランデ−ション・ゴルフで迎え、念願のカナダスキ−の夢は消え去りました。でも再興を期する魂胆です。

 国外でのスキ−経験は米国コロラド州ヴェイルの一度だけです。ここは1989年に女子ワ−ルドカツプの舞台にもなった北米随一のウインタ−・リゾ−ト・エリアで、州都デンバ−から160キロほどの地にロッキ−国立公園の山肌に寄り添うよう広がり、その広さは5,722エ−カ−で東京山手線内のほぼ1/3ほどで世界一発行部数の女性週刊誌ファミリ−サ−クル誌は、ベストファミリ−スキ−場に選定している世界的に知名度の高いところで、訪ねたのは1991年春でした。リフト待ちの列は、とても整然と空港の出入国審査の列の様に前の人との間隔が保たれ、マナ−が良かった。リフトの終点は、途中でストックを誤って落下させた不幸なスキ−ヤ−への憎い心配りとしてリフトの終点には、片方だけのストックが数本無造作にたてられていて「FREE」の表示が強烈な印象に残った。見とれているうちに私も、ストックを落としてしまった。すると子供のスキ−ヤ−が、早速拾い上げて、上空を通過する私に親指を突き出して、合図し、リフトの終点に運んで、突き立てていた。親切でリピタ−を呼ぶ方法はここまで徹底すべきと感心した。 
 
 スキ−はレンタルで済ませたが、靴にスキ−一式で@$14で、誰にも信じてもらえないのでカ−ドで清算し、アルバムに貼っています。ちなみに上越のガ−ラは\16,000です。ヴェイル付近には知名度の高いアスペンや隣のユタ州のソルトレイクなどが並んでいるところです。

 職場でも、前々職時代に春の職場のレクで、幹事として野沢温泉や石打スキ−場へ職場の上司・同僚等を引率して行ったり、国の機関に出向していた時期には、上司が北海道からの方で、富良野のワ−ルド・カップ・コ−スなどへもお誘いいただいたりしたこともありました。

 さらにスキ−が出来ることで、ひょんな経験もしました。メキシコから国家秘密警察長官一行6名が、治安実態と警察教養実態の視察に公式訪日した際です。

 時期が冬でしたので、スキ−をどうしても体験したいとの強い要望があり、スペイン語と英語が若干出来て、スキ−が出来ると言う幹部警察官は、当時警視庁本部には桜井さんという方と私の二人で、引率して日光スキ−場へ案内したことがあります。

 本当に初体験なのに転倒せずに滑降するのです。彼らはスキ−場で30分ほど、スキ−ヤ−の滑り具合を熱心に凝視してから、頂上へ連れて行ってくれと言い出し、桜井さんと私がスペイン語と英語で、盛んに転び方が大事だから、まず基礎からと説明しても、聞き入れられず自分達は転ばない、絶対に滑れると譲らない、上司からは、外務省からの公式賓客だから、絶対に失礼と怪我があってはならないと厳命されており、ハタと困ってしまった。しかし 押し切られた形でリフトで頂上に達して、そこからの滑降となった。スタイルこそ違うものの転ばない、本当に初めてかと何度も訊ねても、yes yesと連発して、直ぐに頂上から滑る。最初は自然に停止可能なコ−スを選定していたが、午後に最高点からの滑降を記念にと懇願されて、滑降となった。

 当然相当な距離と速度を伴い、危険も増大することから、先頭の私に合わせて、年齢の若い順に列を編成し、長官殿は最後尾で桜井さんが後方からケアしての滑降態勢を四苦八苦して、納得させてのスタ−トでした。

 途中順調でしたが、最終地点に近づくに従って、先頭の28歳の警部補さんのスピ−ドは、落ちないばかりか勢いを増してきて、私との距離は縮まり停止地点でも止まらずに目前の林の樹木へ激突は避けられない事態に陥り、上司の顔が脳裏を掠めた瞬間に、私は樹木と彼にはさまって、二人とも衝突停止した。
その時怪我はなかったこととなり、宿へ帰り、部屋で当時TV広告のサントリ−レットが飲みたいとの希望で大瓶を取り寄せ、彼ら持参のメキシコのテキ−ラをメインの酒盛りと帰路東武電車ロマンスカ−内でのカンビ−ル空カンにピ−ナッツを入れての即席マラカス演奏などで、他の一般乗客からも喝采を浴びるなどして、私共に示した友情が思い出される。

 矢張り怪我はあった。私に衝突した当人は浅草に到着した時は、右足首捻挫で相当痛そうだったが、メキシコ到着時のタラップで転んだというと気にはしていない様子だったし、上司の長官殿も私共は騎馬経験があるので、足首と腰と対応力が優秀だから、転ばないし、メキシコでは億万長者しか体験出来ぬ貴重なスキ−を経験出来てと、とても大満足でした。暫らくして、帰国後に詳細な礼状が届き、上司は怪我の件を知り大目玉を食らったが、医者にも行かないので、「怪我ではない。」と当時教養課の主任警部補のであった私は言い張ったが、所属部の筆頭課長の佐々淳行人事第一課長からは、何のお咎めも事情聴取も無く経過した。 後年私は国際関係や私的なことや詳細なこととニッチな事項は、「ご承知と思いますが、参考まで報告」というエレベタ−ブリフィングや3ミニツッブリ−フィングの必要性と報告を受理時の姿勢を佐々淳行著の本から学ぶこととなった。

  宿でのテキ−ラの強烈さは、スキ−で衝突された時よりも、最初の一杯が激烈でした。彼らは乾杯のビ−ルのジョツキにサントリ−・レットを注いで、お茶碗にテキ−ラでしたが、私共はお猪口でやっとでした。

 地域社会では、ボ−イスカウトの冬期スキ−合宿の指導員としてボランテイアで10年近くも楽しく子供達と滑ったりもしました。東京下町での署長時代は、管轄地外には出られない私に替わり、家内が管内のボ−イスカウトへの支援活動を行いスキ−靴やウエアなどの子供用を数点提供したりしたところ、7年経った現在でも、逢えば家内に必ず「宜しく」と地元の方々はお礼を忘れないスキ−のリ−ダ−が健在です。

 今後も『継続は力なり』を実践します。

 フランスの不敗の名将フォッシュ将軍の言葉で好きです。(先日ブッシュ米大統領がイラク戦終結宣言したのは、エィブラハム・リンカ−ン空母で、フランス唯一の空母名はフォッシュです。)

4 あとがき

 電子マガジン誌上に何度か、拙稿を掲載させていただき、国の内外の思わぬ方々からご叱正とご指導を賜わり、その過程においてご激励や励ましまで頂戴し、電子マガジンの広域性と国際性には、感嘆すると共にわが身の足らなさを自覚し、一層の研鑽を痛感致しました。米国アナハイムやホノルルで大学教授や警察本部長から、日大の大学院電子マガジンへの関心を示されました。

 それは一重に日本大学 大学院の名声と信頼性に基づくものと確信するものであり、そこには多数の教授陣と多くの先達の諸先輩方が本研究科の目的である一層高度な専門的知識の探求・研究・提供と再教育の改革・実践・検証に特化し、寧日のない注力のお陰と感謝しております。

 今後は、更に決意を新たにして初心を忘れずに、初期の目的であります。研究計画提出時の決意と合格通知を拝受した際の感激を念頭に研鑽・研究に励む所存であります。どうか ご指導を宜しくお願いします。

 駄文に最後まで、ご傾注下さりまして、ありがとうございました。