北京便り(6)

 

                                     国際情報専攻 4期生  諏訪一幸

 

   

 

 6月24日、WHOは北京をSARS感染指定地域から除外することを決定しました。北京、そして、中国は、約2ヶ月間に及んだSARS禍からとりあえず脱したのです。今月16日には、最後の患者の退院が伝えられました。
 北京は急速に元の姿をとり戻しつつあります。前回の便りでご紹介したゴーストタウンのような王府井にも、多くの観光客が戻ってきました。変化もあります。
最も実感するのは、朝夕の交通渋滞が以前にもまして激しくなったことです。北京の人々もそう感じているようで、SARS期間中に公共輸送手段の利用を避けた多くの市民が自家用車を購入したのが原因だ、と彼らは言っています。
 
前回は新指導部(胡錦濤・温家宝体制)に対する期待感を表明しました。今回は新指導部が進める外交、内政政策の特徴について、極力感情を抑えつつ、考察してみたいと思います。

 執務スタイルのことを中国語で「工作作風」と言いますが、現指導部には前指導部と異なった作風を見てとることができます。それは、大衆との近さや実務性を強調するというものです。「SARS撲滅の最前線で陣頭指揮をとった胡錦濤総書記(国家主席)と温家宝総理、そして呉儀副総理こそが3つの代表だ」との声も聞こえてくるように、この作風は一般大衆から好意的に受け止められていま
す。江沢民中央軍事委員会主席(前国家主席、前党総書記)が提起した「3つの代表」というやや抽象的概念を、「この3人こそが大衆の代表だ」と読み替えているのです。
 
新たな作風には次のような具体例があります。
内政面では、昨年12月、胡錦濤総書記は同職就任後初の視察地として、50年前の革命聖地である西柏坡を選び、ここで「2つの責務」(謙虚さを失わないこと、刻苦奮闘の精神を保持すること)を提起しました。これは、幹部(とりわけ党内高級幹部)に対し、襟を正し、大衆の身になって職務を遂行することを求めたもので、民衆の間に広く存在する幹部の汚職や腐敗に対する強い不満を念頭において発言したものと思われます。また、今年1月に内モンゴルの寒村を視察した折にも、胡総書記は「3つの代表とは結局のところ人民大衆の利益を守ることだ」と述べ、大衆の側に立ち、大衆とともに歩もうとする指導部の姿勢をアピールしました。中国のテレビニュースというと、これまでは主要指導者の活動紹介がメインでしたが、新指導部はこのような方針を改めることを決定しました。また、共産党指導部は毎年、概ね7月中旬から8月中旬までの約1ヶ月間、避暑地で、人事問題や経済政策をめぐる密室の会議を断続的に開催してきました。これが世にいわれる「北戴河会議」ですが、この会議の開催が今年は見送られました。SARSの影響から完全には脱していない現状に鑑みれば、賢明な判断だと思います。
 このような新たな作風は外交分野でも確認できます。党・国家指導者の外国訪問に際しての儀式簡素化が決定されました。5月末から6月初めかけて、胡錦濤国家主席は初の外遊を行いましたが、恒例となっていた人民大会堂での見送りと出迎えは実際行われませんでした。外国要人との会談でも、新たな作風は感じられます。私は仕事柄、中国の指導者を近くで見る機会が少なくありませんが、胡錦濤主席は「淡々と」会談をこなし、温家宝総理は「丁寧に」議論を展開します。二人の作風は、外国語の歌を披露するといったパフォーマンスを好んだ江沢民前国家主席や、時として相手を威圧するような雰囲気を持っていた朱鎔基前総理とは、いずれも違ったものです。
新しさはこんなところにも窺えるのです。

 新指導部のこうした実務重視、大衆重視の新たな作風は、ある程度まで実際の政策にも反映されています。
 SARS関連事実の隠蔽や潜水艦事故の発生を理由に大臣クラスの幹部を引責辞任させたことは、幹部に対し明確な説明責任を求めようという新指導部の厳しい姿勢を実践に移したものだと考えられます。解放軍の実態は今でも依然として厚いベールに覆われていますが、このような解放軍において発生した事故という不祥事を公にし、関係者の責任を追及したことは、国内世論に新作風をアピールすることとなりました。
 現指導部は、国内における経済建設のため、良好な国際環境を構築すること、とりわけ、周辺国との関係強化を積極的に推進しています。胡錦濤主席は、国家主席就任後初の公式訪問先として、隣国であるロシア、カザフスタン及びモンゴルを選びました。また、インド首相の訪中が10年振りに実現しました。焦点となっている北朝鮮の核問題についても、同地域の平和と安定は中国にとって不可欠であるとの認識に基づき、大きな注意と努力を傾注しています。その結果、第二回北京協議(前回は三者協議、今回は六者協議)が間もなく開催される運びとなっています。

大衆を重視し、実務を重視するという新たな作風の登場にはどのような背景があるのでしょうか。私は、共産党政権の正統性保持に対する指導部の危機感の表明であると認識しています。
 70年代末以降の改革開放、とりわけ92年初のケ小平南巡以降、高度成長の道を歩み続けた中国は、国際的地位を徐々にではありますが、確実に高めてきました。しかし、このような成長は、多数の弱者を切り捨て、ごく一部の富める者に依って実現した「いびつな発展」であるというのが実態です。地域間、業種間の貧富の格差は縮まるどころか、逆に拡大しつつあるのです。労働争議や住居移転拒否の抗議活動が全国各地で発生しています。賃金不払いを訴える集団抗議行動を私も目撃したことがありますが、参加していたのは、
ほとんどが弱者と言うべき高齢者でした。成金の脱税や官吏の汚職は止まるところを知りません。当局の厳しい取り締まりにも拘わらず、法輪功がいまだ根強い影響力を保持しているのは、共産党以外の精神的拠り所を求める民衆が決して少なくないことを示しているのだと思います。こうした社会的混乱状況は、共産党政権の屋台骨を揺るがすまでの脅威には未だ至っていませんが、改革開放政策の金属疲労現象であることは明らかであり、これ以上放置できない状況になってきています。
 
そこで、こうした状況に対処すべく、新指導部は、江沢民中央軍事委員会主席が残した「3つの代表」の御旗の下、改革開放の「影」の部分を代表する社会的弱者救済の姿勢を示し始めたのです。国家としての経済発展を維持しさえすれば共産党政権は安泰という時期は既に過ぎ去った。久しく見捨てられた存在であった社会的弱者に焦点をあて、彼らの支持を確保することがこれからの課題であると、新指導部は認識しているのではないのでしょうか。

 新指導部に見られる新たな作風を以って、前指導部への挑戦ととらえる見方が少なからず流布していますが、私は与しません。勿論、両者の間に軋轢やせめぎあいが存在するであろうことを私は否定しません。むしろ、存在すると考えたほうが正しいと思います。要は、木ばかり見ているのでなく、森も見なければいけない、ということなのです。政治局常務委員として10年もの間帝王学を学んできた胡錦濤総書記と、「6・4」天安門事件という修羅場を無傷で乗り切った温家宝総理が、いまだ強い江沢民主席の影響力を無視して急進的な改革を進めるような賭けに出るとはとても思えないのです。実際、作風という抽象的なベールの下には、前指導部時代の路線を基本的に継承した政策が少なくありません。
 中国の人々は、SARSが最も深刻な時に断行された衛生部長、北京市長、そして海軍司令員・政治委員らの解任を好意的に受け止めていますが、一回のミスでも首にするという「一発解任」政策は、前指導部時代から実施に移されていたものです。SARS対策に追われた混乱期に見られた百家争鳴的現象を根拠に、言論の自由化や党内の民主化を期待するのも時期尚早だと思います。党の中央機関が引き締め実行を決意したとされて以降、当地の言論状況は明らかに低調になってきています。また、わが国の少なからぬ報道機関は、「共産党創設82周年の7月1日に行われる胡錦濤演説では民主化推進の方針が示されるのではないか」との期待感を表明しましたが、ふたを開けると、このような発言は一切用意されてなかったのです。
 周辺国との関係強化という外交政策の方向性も、胡−温指導部成立以前からの既定路線です。最近のキャッチフレーズ「与隣為善、以隣為伴」(隣国との関係を適切に処理し、隣国をパートナーとする)にしても、江沢民中央軍事委員会主席が昨年11月の第16回党大会報告で使用したものです。

 最後に、日中関係に目を向けてみたいと思います。
 昨年末から今年初めにかけて有力理論誌『戦略と管理』に掲載された2本の対日論文、「対日関係に関する新しい思考」と「中日接近と“外交革命”」が話題になっています。とりわけ、「中国に対する日本の謝罪の歴史は既に終わった。過去の歴史にとらわれることなく対日関係を発展させるべきである」と指摘する前者の言論については、「新指導部の対日重視政策の現れである」とする見方が少なくありません。しかし、私は、このような楽観論には根拠がないと思っています。勿論、歴史問題が水に流されるのなら、日中関係は劇的に変わるでしょうし、我々としてはある意味、そのような方向にもっていくべきだとも思います。ただ、中国の指導部からは、そこまで確実なメッセージは未だ伝わってきていません。わが国指導者の靖国神社参拝問題に対する対応に明確な変化が見られるか否かが、中国の対日政策の本質的変化を判断するメルクマールである点に変化はないのだと思います。また、後者の論文が展開する対日重視論は、単純な友好論などでは決してなく、対米戦略を優位に進め、台湾統一を実現するという、中国自身の国益への奉仕を第一に置いたものです。対日重視論が公に議論されていることを以って楽観的になるのではなく、如何なる観点から対日関係を「重視」しているのか、その内容を慎重に検討する必要があると思います。

 新指導部に見られる変化は、総じて言うに、「作風」というパフォーマンスのレベルに止まっています。私は、新指導部の大衆重視、実務重視のパフォーマンスが、果たして今後更なる具体的政策の形をとって、実際に社会的弱者を救済していくことになるのかに、注目していきたいと思っています。この点において改善が確認できれば、それ以外の内政政策や外交政策にも、実務性は反映されていくのではないでしょうか。ただし、注意すべき点が一点あります。大衆に頼りすぎると、政権としての主導的な動きがとれなくなってしまう恐れがあるということです。「水(大衆)は船(指導者)を載せることもできるが、転覆させることもできる」とは、中国人なら誰でも知っている格言です。そう考えると、「ムチ」を手放すわけにはいかないし、方針が変わるかも知れない。私自身、比較的良い印象をもって見ている新指導部ですが、手放しで明るい未来像を描けない理由は、この辺にもあるのです。

 

(8月22日記)