「和楽器を導入すると音楽科が生き延びる」

 

                                             人間科学専攻5期生   杉浦 聡

 

   

筆者について

 

杉浦聡

(すぎうら・そう)

 

1960年東京生まれ

日本音楽演奏家

 

 

 

 

三味線、筝、伝統的な発声法などの演奏教授活動のほかに、日本の胡弓(中国の二胡とは別の、日本の伝統楽器)の伝承保存につとめ、今秋CD「日本の胡弓‐杉浦聡の世界‐」をリリース。

俳人としては岡本千弥(おかもと・せんや)の俳号で、第1句集「ぽかん」を上梓した。

1992〜93年にかけて永六輔氏のテレビ番組「2×3=六輔(にさんがろくすけ)で、麹町の若ダンナ役としてレギュラー出演し、和楽器ブームの魁となる。

 

 

        

    

     

 

 

 

ご存じでしょうか。教育指導要領の改定で、学校音楽科に「和楽器」が取り入られました。

 

 あっ、そうなの、と軽くうなずかれたあなた。この出来事は西洋音楽至上主義であった学校音楽にとっては、明治12年に音楽教育が始まって以来、実に120年ぶりの一大方向転換といえるほどの一大事なのです。

 

 なにしろ2005年春に卒業する大学生よりも前に教職課程を終えたひとは、教育職員免許取得のためのカリキュラムに西洋音楽の実技しかなかったのです。日本音楽史さえも授業にはありませんでした。そのため、すでに現場に出ている先生方は和楽器の「わ」の字さえ知らないのですから、パニックになるのは当然です。

 

そのような状態のなか、わたしは中学高校の生徒さんや大学の教職課程の学生さんに、また県や市の教育センターの主催する先生対象の講習会などで、和楽器の楽しさを知ってもらうという機会をいただくことが多くなりました。

 

 とはいっても先生相手の講習会では一日五時間ていどの講習時間で、全くの初心者を50人、箏と三味線を一曲弾けるようにさせて、「生徒のころに戻ったようで、とても楽しかった」「なんとか教える自身がつきました」といった感想をいただかなければならないのですから、大変です。

 

 学生生徒を教えるのはなんとかなりますが、大人を教えるのは難しく、そのため「生涯学習」という大人を教えることを研究する学問を志して本学に入ったのですが、それはさておき、なぜ学校教育が西洋音楽至上主義から日本の伝統音楽を取り入れるというターニングポイントを迎えるようになったかということを、お話していこうと思います。

 

 さて、学校教育は第三の改革が行われています。

 

 第一の改革は明治維新後に寺子屋という私学しかなかった教育の現場に公教育が導入された状態をいい、第二の改革は第二次世界大戦の終結による皇国教育から民主主義への転換をいい、第三の改革は1980年代に臨教審で答申された「教育の自由化」とその背景にある「新国家主義」に基づくものをいいます。

 まず、第一の改革をひとくちで説明すれば、「官軍である薩長土肥の武士が徳川政治の名残を撲滅して、農工商に属する階層のひとびとも軍隊の中で号令一下動けるように教育しようとした」ということでしょう。

 

 ですから町人が作り上げた、やや退廃的な感覚を含んだ江戸文化についても、徳川幕府の名残を感じて、これを撲滅しようという気持があっただろうことは、容易に推察できます。

 

 というのも、明治政治で実務の現場を取り仕切ったのは下級武士出身のひとびとで、彼らの出身藩では武士は農工商のひとびとを他藩よりも軽視した傾向がありましたから、町人が作り上げた江戸文化を尊重しようという気持はまったくなかったと考えられるからです。

 

 上級武士は旧幕時代に江戸に来ることも多く、江戸文化と接する機会があったので町人文化に対する理解がありました。彼らは幕府の要人や他藩の重役と円満な交渉をするための下ごしらえを花柳界で行ったので、江戸文化の楽しさや芸者の頭のよさを知っていました。そのためか、彼女らを妻にした高官もたくさんいます。

ところが上級武士と違って下級武士階級出身の、たとえば文部行政の実務にあたったひとびとはそうした文化のふれる機会もなかったため、江戸文化を理解することができなかった、とも考えられます。

 

 というわけで、第一の改革では日本の伝統的な音楽はまったく無視されました。それどころか、理論がないとか、前時代の遺物、といった主観的な理由でそれを蔑視する風潮が第二次世界大戦後にまで続いたのです。

 

もっとも明治維新直後は西洋万歳時代ですから、当時のこの対応は仕方がないといえば仕方がないのですが。

 

 つぎに第二の改革です。

 

 これはわかりやすいですね。戦争に負けてしまったので「日本の伝統的なものはすべてわるい」ということになったからです。もちろんここでも日本の伝統的な音楽が教育に取り入られることはありませんでした。

 

 しかし、都市、地方を問わず、昭和40年代までは学校で教えなくても伝統的な音楽は、家庭内でしっかりと生きていたのです。江戸時代に生まれたお母さんに育てられたおじいさんやおばあさんがたくさんいましたから、隣に江戸時代があったのです。ですから、学校教育で伝統的な音楽が教えられなくても、伝統的な音楽はまだまだ元気で生きておりました。

 

 ところが昭和50年代になるとその世代のひとびとが絶滅しはじめ、敏感なひとがここらへんで日本音楽の危機について騒ぎ始めました。しかし、騒いでも状況はよくならずに、人口はだんだん減っていきました。平成も10年を過ぎるころには「ああ、もうだめかしら」と伝統的な音楽に携わる人間の誰もが思ったところで、今回の教育指導要領の改定です。和楽器が導入されました。

 

 と、伝統的な音楽にとってはとてもよさそうなことでしたが、いかんせん実際に児童生徒に和楽器を触れさせることのできる時間はカリキュラムの編成上、年間で1から4時限ていどです。おまけに先生方は伝統的な音楽はまったく知らない状態ですから、いますぐ伝統音楽人口が回復するカンフル剤になりそうにもありません。

 第三の改革の「教育の自由化」とは、いままで文部科学省が一手に握っていた権限を地方なり学校にあるていど任せるかわりに、最終的な責任もそちらでおとりください、というものなのです。

 

 たとえば学校の裁量で教科の選択や教科自体の時間数も決められるのです。

 芸術科は受験に関係ありませんから、受験体制の強化充実のために、芸術科の時間を減らすこともできるのです。そうした状況が進んでいくと、芸術科の教員が一学校で受け持つ時間が減るために、複数の学校を兼任にさせれば合理的である、ということになります。

 

現在、書道科の教員の多くは非常勤ですし、美術科も兼任が多いという地方も多くなってきています。

 

教員は常勤の席のない学校の予算会議などに関わることができませんから、芸術科の予算がとれない学校が増える、という状況になるかもしれません。

 そうした状態に至るのを避けようという意図があったのかはわたしにはわかりませんが、和楽器の導入は、結果的に臨教審の背景にあった、中曽根首相のころから政治の表舞台にあらわれた「新国家主義」、やさしくいえば「日本の伝統を大事にしようという意向」にかなったものになっています。

 

ですから、音楽科という教科は次の指導要領が改訂されるまで十年ぐらいは生き延びそうです。

 

とはいえ、アメリカやオーストラリアなどでは音楽科が存在していない州も多いようですし、景気が回復しなければこの例を持ち出して、学校教育から芸術科がなくなるかもしれないのが現実です。

 

 というわけで「和楽器を導入すると音楽科が生き延びる」という、風が吹くと桶屋が儲かる式のわかりにくい論理が一応ここに完結いたしました。

 

お読みいただきありがとうございました。