『日本人画家滞欧アルバム1922B「そして今宵も芸術談義」

 文化情報3期生 戸村知子

 

 

1920年代「巴里」。それは芸術家にとって魅力あふれる都市。
 洋画の真髄を学ぼうと渡欧した多くの日本人画家の姿もそこにあった。長い船旅を経て、ようやく到着した異国の地で、望郷の念に駆られながらも、何かをここで掴んで帰りたいという思いがつのる彼ら。その中で1921年、一人の日本人画家の作品が巴里で絶賛された。藤田嗣治のサロン・ドートンヌに出品された<私の部屋、目覚まし時計のある静物>だった。藤田は1913年に巴里へ到着したものの、翌年には第一次大戦が勃発して日本からの送金が途絶えた貧窮の時代を迎える。そして渡仏3年目の1916年には巴里で成功させるまでは日本に帰国しないという固い決意を父への手紙にしたためた。藤田のように、巴里へ勉強しに来るだけではなく、巴里で一流と認められることを目指した画家もいたのだ。かつての第一次大戦下巴里の藤田を知る幾人かの日本人画家が、再び巴里を訪れた1920年代。黒田重太郎もその画家の一人だった。

 

1922年、ソンムラール街22番地のホテル・ミディには、毎夜、志を熱く語り合う日本人画家で賑わう一室がありました。黒田重太郎がその部屋に移ってきたのは、前年の12月。それからイタリアとスペインへの駆け足旅行を済ませ、3月末から5月にかけては、旅行記の原稿書きに追われていました。ようやく、以前から教えを受けようと思っていたアンドレ・ロートのアカデミー・モンパルナスの門を叩いたのは5月20日過ぎのことでした。その頃になると一緒に渡欧してきたメンバーのうち、小野竹喬(当時、橋)は帰国していましたし、黒田重太郎も国画創作協会同人としての役目は終わったと考えていたようです。

当時、黒田の部屋に集ったのは、同郷の画家仲間が中心でした。ある時は美術批評家、蒐集家を交えたこともあったでしょう。まだ到着後数ヶ月しか経っていないというのに、部屋の本棚はすでに買い集めた本で満杯で、収まりきらない本が机の上に積み重ねられていました。おそらく、それらの中には、黒田が1回目のフランス滞在の折に購入したモオリス・バレスの『グレコ』も含まれていたことでしょう。今回の芸術巡礼に携えるために日本から持ってきていたようです。このように現地の言葉に不自由しない黒田は、リアルタイムで当時のヨーロッパ画壇の情報を入手できたのですから、多くの画家が彼のところに集ったことは容易に想像がつきます。画の勉強にきている仲間達は大抵、研究所や自室で制作に励み、余暇は仲間と集い、カフェにでかけたりして歓楽街を歩くこともあったようですが、黒田は仲間内で一番熱心に勉強をしていたという評判でした。そんな当時のことを伝える記述が幾つか残されています。

 

「この宿に日本人のムッシュウ・クロダがいるよ。」
宿主にそう言われて驚いたのは里見勝蔵
1 。里見もまた1922年3月、イタリア旅行から帰ってきてから後、ホテル・ミディに宿泊していました。彼は先輩の部屋を度々訪ねた当時を次のように書き残しています。
                             
 
僕の部屋がムッシュウ・クロダの一階上だったので、夜、階段を下って行くと、彼の部屋のドアの隙間からは、いつも晩くまで灯がもれていた。ムッシュウ・クロダも僕も京都の出身であり、関西美術院で学び、二科の出品者であるのをユカリとして先輩のムッシュウ・クロダに挨拶するためにドアをノックした。すると、ムッシュウ・クロダは−まァおはいり−というような、まことに味気ない迎え入れ方であった。なぜなら、ムッシュウ・クロダは非常な勉強家で、朝はアンドレ・ロート、午後はビッシェールの研究所に通い、街の画商を訪ね、日曜は博物館。毎夜はフランス美術書を読破する連続であったから、僕の訪問が彼の勉強をさまたげる様子であった。しかし彼がロート、ビッシェールから学んだ絵画の法則を説き、読書や美術館や、画商を見た感想や、感激を話し合うと、夜の更けるのも知らなかった。[里見勝蔵]2
                             

 ある日、里見は画室を訪ねて歩いているうち、アンドレ・ロートのアカデミー・モンパルナスを知り、かねがねロートを尊敬していたムッシュウ・クロダに早速報告します。また、里見はオーヴェル・シュル・オアーズに写生に出かけた折に出会ったヴラマンクについて、彼の里見に対する批評や感想を黒田に話して聞かせていましたが、黒田もその話から教えられることが多く、充分肯定すべきものがあると感じていましたので、二人は話し合った末、各自の性に適した路を行くことを決めたのです。里見はオーヴェルへ向い、黒田はアカデミー・モンパルナスへとでかけることになりました。二人が如何に芸術談義に夢中になっていたか、次の里見の記述からもうかがい知ることができます。

                             
 
―里見君、羊羹がある― 日本茶を入れて画の話、毎夜毎夜画話。
ロートの新説は全く私をおどろかせた。実に合理的だ。それはすべての古画が立証する。乃ちセザンヌの所謂―絵画の法則―である。ある時はルーブルに行ってベニス派プッサンの画の前に立って説明を乞ふた。私にとってはこれが実に実に有益であった。それは私がかつて日本にいて美術学校や色々な先生達から一言たりとも聞いた事では無かった。一方、私がヴラマンクとの交友によって自然と絵画単純、写実、物質固有色等の話を伝えた。
 私は画商を見て歩いた。黒田氏の知識欲は多くの絵画書を集めそして私達にその新知識を話された。私達はルオ、シャガル、ピキアソ、ウトリヨ、ドラン、ヴラマンク、スゴンザック、ブラック、マチス等を好んで話した。その頃の黒田氏の巨大な本箱は本で満ちてなおほ机の上にうづ高く積まれた。日一日に本は増して行った。宿の下男はこの室の掃除に困った。そして云う。―日本人は狂人だ、リーヴル本、リーヴル本、リーヴル本(黒田氏の為に)ヴィオロン、ヴィオロン、ヴィオロン(私の為に)そしてパンチユール画、パンチユール画、パンチユール画、毎日毎夜よく厭きないね―と。この下男日本より将来の羊羹を鋏で切って試食した―。[里見勝蔵]
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 また、黒田の部屋に多くの仲間が集う時は様々な駄洒落が飛び交っていたようでうす。須田国太郎がスペインからパリに来ている時は、ソンムラール街のこのホテルを常宿としていましたから、その時は闘牛や音楽の新しい傾向についての話題で盛り上がったようです。そして、ある時などは、グレコの作品が大原コレクションに加わった話題に、歓喜の声が部屋に響いたりと、話題に事欠かない様子です。
  
                             

              
 ある夜、訪問すると、須田国太郎に紹介された。多くの画家はパリを目指して勉学に来るのに、須田はマドリッドに定住して、スペインが大変気に入っているということで、ムッシュウ・クロダと須田はグレコやゴヤと闘牛について話し合っていた。それはマドリッドからベルリンへ行く途中、パリに寄ったのであった。[里見勝蔵]4
                                                    
                
 
須田国太郎さんがマドリードから来たという速達プネマチックを受けて、度々黒田さんの宿に出かけたことがあった。児島虎次郎さんがややおくれて到着。今グレコの「ヨハネ」(受胎告知)を手に入れたという吉報がもたらされた。その時、最近スイスでドイツに売られる瀬戸際のセガンチニの牧場の絵(アルプスの昼時)を国境まで追い駆けて漸く買収に成功したという苦労話も聞かされて黒田さん、須田さんと喜びを共にした。 [川端弥之助]5

                            

 なお、里見勝蔵(1895-1981)は、その後さらにヴラマンクと交流を深め、中山巍や前田寛治、そして佐伯祐三をヴラマンクに紹介したことは、しばしば語られていることです。また、川端弥之助(1893-1981) は、三輪四郎と共に1922年秋にパリへ到着。その後、黒田の紹介で両氏はアカデミー・グランド・ショミエールのシャルル・ゲランに師事しています。今のように情報があふれている時代ではないからこそ、人と人の繋がりが、その人の画業に、あるいは人生に大きな影響を与えていた時代でした。大原コレクションの基盤をつくったことで知られる児島虎次郎も、当時の絵画蒐集では現地での彼の人脈が最大限に生かされたといえるでしょう。
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 ところで黒田重太郎が里見からアンドレ・ロートのアカデミー・モンパルナスの話を聞いた時のその喜びは、言葉に表せ得ないものだったといいます。というのも、この年の春に独立派展覧会および「佛國絵画の百年」展覧会でロートの作品を目にして以来「袋路へ入つてどうしても先へ突き抜けられない様な私の思索を、一つの大道へ導くに就いて、可成りな啓示となった。」と言わしめるほどの感動を受けて、すぐに書店でアンドレ・ロートに関する評伝を1冊購入し、彼の画論と作風に共鳴していた黒田だったからです。ちょうどその年にアンドレ・ロートはモンパルナス駅近くに研究所を開設していたのでした。
 しかし、じつのところ彼はアンドレ・ロートに師事するか否か、悩んでいたのでした。新しい画論を受け入れるには、それまでの彼自身の「経験から一歩を踏み出す勇気」や「たとへ一時にしろ根本から覆へされるだけの覚悟」が必要だったのです。自己の内にある様々な葛藤を乗り越える留学中の画家たち。まさに異国の地における修行の何ものでもない巴里生活を送る彼ら。その中で、日本の画壇を担っていく使命感を持つ人々の深い情熱を感じさせる日々の交流。80年を経てもなお、色褪せることなく、日本画壇のアルバムに納められているのです

 

<註>

[1]1859年−1981年。京都生まれ。父時三は緒方洪庵塾で医学を学び、大阪医学校を卒業後、明治3年に新設された京都の粟田病院(後、共同病院)に21歳の時に参加。当時、26歳の田村宗立(洋画家)が事務長を勤めていた。里見勝蔵は1908年、京都府立第2中学校(現京都府立洛南高校)に入学。同級生の野村光一(後、音楽評論家)と親交を深める。1913年に卒業後、関西美術院に入り鹿子木孟郎に洋画の手ほどきを受けた後、1914年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画に入学。在学中の1917年第4回二科展、第4回再興日本美術院展に入選。卒業後は京都へ戻り1年後に結婚。1921年に1回目の渡仏。5月に巴里へ到着。19251月日本へ向け巴里を発つ。翌年に上京、「1930年協会」を木下孝則・小島善太郎・佐伯祐三・前田寛治らと設立し、第1回展に滞欧作を出品(1929年、二科会会員に推挙されたため退会)。1930年には児島善三郎ら13名と独立美術協会を設立(1937年に脱退)。1954年国画会に入会。後58年まで2回目の渡仏、ヴラマンクに再会(里見が帰国して3ヶ月後にヴラマンクが死去、里見の追悼文が東京新聞に掲載される)。197277歳にして同志と「写実画壇」を作成。同年12月に3回目の渡仏、翌年2月に帰国。

  (展覧会図録年表より。『里見勝蔵 生誕100年記念』京都国立近代美術館、1995年)

[2] 黒田重太郎が「関西の洋画壇 そのZ」(『木』梅田画廊、197112月) に引用しているものから

[3] 『中央美術』「巴里に於ける黒田氏」12-1

[4] 黒田重太郎が「関西の洋画壇 そのZ」(『木』梅田画廊、197112月) に引用しているものから

[5] 『木』梅田画廊No.81970.12

[6] 1893年〜1981年。京都生まれ。慶應大学を卒業して京都に戻り、澤部清五郎に洋画の指導を受ける。1920に二科展に初入選。1922年から1925年まで滞欧、シャルル・ゲランに師事。1933年に春陽会会員となる。1949年より1963年まで京都市立美術大学、1971年から嵯峨美術短期大学で教鞭をとる。

 (叢書『京都の美術』U・京都の洋画 資料研究、京都市美術館、1980年 より)

[7] 児島虎次郎の大原コレクション蒐集活動に関しては、『児島虎次郎伝』(児島直平、児島虎次郎伝記編纂室、平成4年再版)、もしくは『児島虎次郎』(松岡智子・時任英人編著、山陽新聞社、1999年)に詳しい。