『ポスト・モダンの左旋回』
仲正昌樹 情況出版 2002年4月 2,800円 |
人間科学専攻・3期生 河村俊之
「ポスト・モダン」を扱った本は20年くらい前から、書店の哲学・思想書コーナーの一角を占めつづけています。この分野の本をご紹介するとなると、まず、ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』ということになるのでしょうが、たまたま各書店で在庫僅少のようなので、今回は標題の本をご紹介します。昨年出版され、あちこちの書評で話題になったので、とりあげてみました。 本の紹介に入る前に、「ポスト・モダン」とは何を意味しているのか、から始めてみます。主に二つの使い分けがされているようです。 一つは、現代の社会・文化の状況を表すもの。「ポスト・モダンの状況」という意味で。 一つは、現代の思想、特にマルクス主義とは違う文脈を追った構造主義より後の一群の思想。「ポスト・モダン系の思想」という意味で。 「状況認識」と「思想」という意味では、一応の使い分けが必要と思います。 さて、ポスト・モダンの「状況」の方ですが、リオタールの『ポスト・モダンの条件』で述べられたことを中心に、私なりにまとめてみます。リオタールの「ポスト・モダン」はダニエル・ベルの脱産業化社会論に着想を得て、現代の社会・文化状況を捉えようとしたものですが、意味合いとしては主に二つあるように思います。一つは、現代は「なんらかの大きな物語」を喪失した状況という認識。 資本主義にしろ社会主義にしろ、人間は理性的になる、人間は解放される、そして豊かになる、という「大きな物語」を語ってきたという意味では、ともに近代の産物であったわけですが、そのような 未来物語はもはや存在しえない。社会が未来に向けてなんとなく「進歩するもの」という文脈は信じられなくなってきたこと、という状況認識だと思います。 もう一つは、これまでは、人間が社会のありようを予め設計する余裕があったわけですが、経済のグローバル化、情報化社会などの到来によって、国家や市民社会の合意に基づく制御がききにくい社会になってきたこと。激しく変化する経済・社会に追いつくだけでせいいっぱいの状況になってきたこと。そして、ただひとつ確実なことは、あらゆるものが数量化され、数量化によって評価される状況になってきたという状況認識だろうと思います。 次に、ポスト・モダンの「思想」の方ですが、ここで深入りすると迷路にはまるので、少しだけ。 「脱構築」という言葉があるように、近代以降の自明とされてきたあらゆる価値の体系を疑い、そこにからめとられることから抜け出ようという「知のあり方」が、ポスト・モダンの思想におおむね共通するように思われます。 ということで、「状況」にせよ「思想」にせよ、あえて一言で表現すると「もう、何かにだまされないようにしようね。」ということにでもなるでしょうか。しかし人間は、意識的にせよ、無意識的にせよ、何かに依拠し、なんらかの同一性を追わなければ生きていけないようにも思えます。ですから「ポスト・モダンな生き方」があるとすれば、たとえば「大きな物語を捨てて小さな物語を創ろう」ということ、あるいは、定住はやめて精神の遊牧民として生きよう、ということにでもなるでしょうか。なお、近代の行く末に絶望せず、近代の「正」の意義を再構築しようとする方向性もあることを付言しておきます(ハーバマスなど)。
例によって前置きが重くなりすぎました。筆者は、金沢大学の助教授(西欧市民社会論)で、「あとがき」によれば「私は1981年に大学に入学した時から11年半にわたってある新興宗教の信者であった。」と告白されているように、本書の全編にわたって、何かを信じ込まされるのは「もうこりごり」というスタンスが貫かれています。 「ポスト・モダン」の情況が顕在化してから少なくとも30年を経過しているわけで、この間、既存の価値体系に対する果てしのない解体・脱構築が試みられてきました。脱構築することは確かに快感(こだわりが消えていくという意味で)だったわけですが、一方で、グローバル化と情報化の進行によって、私たちは、先に何が待ち受けているか皆目わからないが、とにかく遅れずに付いていこう、というせわしない生き方を強いられるようになってきました。ポスト・モダンを効率的に生きるとは、一面、考えることをやめてスピード感をとぎすますことでもあるわけです。どこに連れていかれるのかわからない、このようなせわしなさを強制されていく中で、物語なき時代を生きていけるのか?ということで、このところ「小さな物語から大きな物語」への回帰を志向する思潮が散見されるようになってきました。 ご紹介する本も、そのような流れの中にあり、再び「物語」を志向する方策を探っているわけですが、内容は、この間のポスト・モダン情況に関わる言説を点検したものです。今までの焼き直しは「もうこりごり」という姿勢の執拗さが気に入ったので、取り上げさせていただきました。 著者は「スキゾ・キッズ」的な生き方ではなく、あくまでも社会と関っていくべきことを薦めているわけですが、「物語」に戻る回路を探るにあたって、ネオ・マルクス主義の伝統とは一線をひいています。一度ぜんぶ検証してみないうちには、もはや何者も信じないという執拗さが本書の真骨頂であるといえましょう。主に検証しまくっている本ですから、何らかの方策を教えてくれるものではありませんが、21世紀もますます先行きがわかりにくくなっている折、「物語」へと回帰する前に、もう一度、この間の言説を点検してみる必要があるのではと思い、おすすめするしだいです。
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