サークル活動報告【ケア問題ネットワーク】


               いま「ケア」について考える

 

 

                                           人間科学専攻3期生・修了  野明 厚夫


 イラク戦争の戦闘が終結に向かっている頃の4月19日、朝日新聞の「天声人語」に、次のような文章が載っていました。

 「イラクの北部にはいま、菜の花が咲き乱れているようだ。先日この欄で『地獄絵の合間に一瞬、黄色い花が見えた』とイラク北部での誤爆現場の映像について書いたところ、山口県埋蔵文化財センターの中村徹也所長から『キンポウゲかノボロギクだと思う。いやそうあってほしいと思う』とお便りをいただいた。40年ほど前、イラク北部のシャニダール洞窟で発見されたネアンデルタール人遺跡にかかわりがある。埋葬されたネアンデルタール人の周りからたくさんの花粉が発見された。キンポウゲやノボロギク、タチアオイなどだった。研究者は『旧人たちが死者に花をささげていた』と発表した。5万年以上前の旧人も花を愛し死者を花で包んで埋葬していた。この物語は多くの人の感動を誘った。同じ遺跡から発見された他のネアンデルタール人は重い障害を背負っていた。その彼を周りの人が支えながら生活したであろうことも推察できた。『遠い祖先』への共感を呼ぶ物語だった。(以下略)」

 生物学者ルネ・デュポスも数万年前の洞窟から発見された人骨について、早くから障害者だったと推定される男性が60歳近くまで生き得たのは、彼を養う仲間がいたからであると述べています。

 これらの報告に、私たちは「ケア」の原風景を見ることができそうです。そしてこの人間存在の根源的なものが、「ケア」につながっているといえそうです。

 「ケアcare」という言葉のルーツは英語といえると思いますが、日本語としてよく使われるようになったのは、最近のことです。倫理学者川本隆史氏は、ケアという言葉が日本語の本の題名として使われたのは、1978年、柏木哲夫氏の『死にゆく人々のケア』(医学書院)が先駆的な例であるとされています。

 英語の熟語「take care of」は「・・・を世話する、大事にする」という意味であり、人を見送る時の「気をつけて」に相当するのは「Take care!」であって、ここから「世話」「配慮」「関心」「気遣い」などの意味がでてくるでしょう。

 「ケア」がもっと限定された、専門的な術語として使われてきたのが、「health care(医療)」「nursing care(看護)」等々です。このように、「ケア」という言葉のもつ意味や使われ方の広さ、普遍性に改めて気づかされます。このように、「ケア」という言葉は、@専門的・狭い意味では「看護」「介護」、A中間的には「世話」、Bもっと広くは「配慮」「関心」「気遣い」などきわめて広い意味を持つ概念といえるでしょう。

 こうしてみると、「ケアとは何か」を考えていく場合、はじめから、「看護」や「介護」という医療・福祉の議論に絞り込むまえに、まず、「ケア」概念の持つ広さを受け入れ、次第に個別分野の問題に焦点を当ててゆくことも、有効な方法ではないでしょうか。そうすることによって、ケアという行為がその奥に持つより深い意味もとらえることができるように思われます。

 M・メイヤロフも、『ケアの本質』において、「ケア」を非常に広い概念で捉えています。私たちがケアするのは、病人、子供など他人だけではありません。自分自身もケアします。さらには、ペットなどの動物、ベランダの植木鉢などの植物、編みかけのセーター、描きかけの絵、自分自身が心に抱く計画などまで心にかけているものはみなケアの対象です。メイヤロフは、「ケア」とは、「そのもの(人)がそのもの(人)になることを手助けすること」だといいます。そうすると、ケアする人は、ケアする対象(相手)にそのときどきに必要なことを看て取る感受性が必要になります。相手が自立しようとしているときは、たとえ自分の意図からそれているように思えるときでも、相手を信じ相手の自立に任せる勇気が必要になることもあるでしょう。こうしてケアする側も自分に出来ることと出来ないことを見きわめ、自分の思い込みと違うケアする力をつけていくことにもなるのでしょう。やがて、相手が自分で自分をケアできるほどに回復、自立できれば、その時点で一応、ケアは目的を達するということができます。

 このような「ケア」の精神は、21世紀のいま、私たちにとって人類的課題となっている戦争の回避をはじめ、差別・貧困や虐待などの解消という広い意味での平和的社会への道をさぐり、世界的規模の環境保全やいのち(生命)への配慮の問題などを解決していく大きな力となっていくことが期待されています。

 「ケア」ということが論じられる場合、大きくいって
(A)臨床的・技術的レベル
(B)制度的・政策的レベル
(C)哲学的・思想的レベル
に分けられるように思われます。

 まず、(A)は、個々の臨床的・現場的場面での「ケア」のあり方であり、看護技術論としての側面を持っています。学問的に言えば、自然科学的アプローチの強い場面です。

 (B)は、個々の現場を超えた制度やシステムの関わる次元であり、現在問題とされている介護保険制度、訪問看護制度など医療福祉・社会保障(医療保険の診療報酬評価も含む)の制度全般に及ぶものです。学問的に言えば、社会科学的アプローチのなされる場面です。

 (C)は、(A)や(B)の根底にあるケアとは何か、それは人間にとってどういう意味を持つものなのかといった、基本的な問いに関するものです。学問的に言えば、人間科学的アプローチを要する場面といえるでしょう。

 重要なのは、この三つの場面は、単独に考えられるものではなく、相互に深く関係があり、それらは総合的に探求されなければならないということです。例えば、(A)に焦点を当て、いくら精緻な技術の体系を築いたとしても制度(B)に支えられなければその実効性はのぞみがたく、ケアについての深い洞察(C)に裏打ちされたものでなければ機械的、自己満足的なケアの技法に陥ってしまう危険があります。

 また、ケアについての優れた技術(A)や深い洞察・理念(C)があったとしても、どうしても現場的レベルで解決のつかない問題というものがあります。例えば、一人一人の患者さんに十分時間をかけより良いケアをしようと思っても、医療体制(病院のスタッフや勤務体制など)がそうしたものになっていなければ、個々の医療者の努力も大きな壁に突きあたります。このことは、臨床の現場にあたっている方々が常日頃感じていることではないでしょうか。さらに、病院の努力でスタッフや施設設備を充実させようとしても、投薬や検査を多く行うことで収益を上げるという診療報酬(保険点数)制度や医療機関の経営方針が強く打ち出されるとすれば、それがより良いケアのネックになるということも考えられます。このように、ケアの理念や技術の問題は、どうしても医療経済面を含めた制度や政策(B)の問題に行きあたります。ヘルガ・クーゼも『ケアリング』のなかで、「看護の現場」と医療制度や政策との関わりの重要性を指摘しています。

 このように、今日、より良いケアを社会の中で実現していくためには、(A)(B)(C)のレベルの問題を、より総合的に考察していくことが不可欠です。
 
 私たちの「ケア問題ネットワーク」(Care Problems Study Group)は、インターネットを駆使した通信制大学院という教育・研究の場を拠点として、看護・医療や教育の関係者だけでなく、出来るだけ広い範囲の人々の自主的な参加によって、まず、ケアの哲学的・思想的レベルの場面の探求から出発して、以上の意味での「ケアとは何か」を探っていこうとしております。