連載「裏方物語」@
                         書記か職員か          

 

                                        国際情報専攻5期生  寺井 融


 いまは、新聞社に勤めている。

 先日、ある会合で中年男性にからまれた。
 「私は元自衛官です。新聞は犯罪が起こると、なぜ元自衛官ダレ・ソレと書くのですか」
 「犯人の場合ですか‥」
 「まぁ、その疑いがあるときにですね、もう退役していて、いまは民間会社に勤めていても、会社員とは書かずに元自衛官と書く」

 えらくご立腹の様子であった。

 いつの事件のどんな報道を指しているか、どの新聞であったのか、具体的なことを言われないので、答えようがなかった。確かに、一部マスコミが自衛隊について厳しいきらいがあった(ある?)ことは、事実である。

 ところで、当方は金銭にまつわるスキャンダルを起こしたとしよう。新聞社勤務と書かれるのか、それとも会社員か。あるいは元政策秘書、または元政党職員か。どれもが正しいのだけれど、書かれる肩書きによって、同じ人間でも随分とイメージが違ってくる気がする。

 いま勤務する全国紙には、五十二歳のとき入った。その前の三年三ヶ月は、西村真悟衆院議員の政策秘書。また、その先は新進党に一年三ヶ月、民社党に二十三年九ヶ月、計二十五年となり、四半世紀が政党本部勤務である。いわゆる党官僚というやつだ。

 さて、社会部記者生活が一年経ったときだ。三十になったかならないかの若手記者に「寺井さんって、普通の人ですね」と言われた。「エッ?」と怪訝な顔をしていると、「いゃ、悪い意味でいっているわけではないですよ。私たちと変わらないなと思いまして‥‥」と続いた。

 今度入ってくる記者は、政策秘書だった男だ、何をするのかと、保護観察中だったらしいのである。一年経って、特別強引というわけでもなく、油ぎってもいなく、金に汚いわけでもない。「ただのオジさんだ」と悟ったということらしく、仲間と認められて、少々嬉しいもあり、腹立たしくもあり、そういうものかとのあきらめもあり‥‥。

 昭和二十二年生まれである。団塊の世代で、大学時代は学生運動が荒れ狂っていた。当方も、その一翼を担い、といっても新左翼の全共闘ではなく、民青でもなく、自分でいうのも気恥ずかしいが、良識派の民社学同である。名が示すように民社党系。羽田事件の四十二年、結成に参画し、副委員長もやった。

 就職は民社党本部を希望したが、それに反対したのは両親である。「民間企業に勤めて、政治活動をやりたいのなら、そこで労働運動をやったらいい」といったのは父親であり、母親はただただ「普通の会社に」を繰り返すのみだった。

 その願いを振り切って、四十六年に民社党本部に入った。小学六年生のときからの支持者(早熟なのです)だけに、感慨無量! 組織局に配属となり、先輩のお姉さま方二人から、黄色の幅広ネクタイをプレゼントされた。

 背広を持っていなかったので、親に二万円(月給は四万円を切っていた筈)を借金して、吊るしを買った。夏のボーナスで返した。後で母親から「あげるつもりだったのに、あなたは返しにきた。可愛げがなかったわね」と言われた。ちなみに、二つ下の弟は、修士を修了し、就職の際、親に車の頭金を出してもらい、ローンは自分持ちだからと車を乗りまわしていた。甘くなった親にも、出せる実家の家計にも驚いた。

 それともうひとつ。党本部で組織局入りをきいた全繊同盟のY都支部長、この人は、昔タイプの労働運動家だったが、「組織局か、エリートやな。背広を作ってやる。事務所に遊びに来い」と言われた。忙しさにかまけて行かないでいると、ま たもや「可愛げがない」である。不興を買ってしまった。

 それはさておき、当時の民社党本部には、八十五人の事務局員(当時は書記)がいた。本部には書記局があり、組織拡大活動をする人をオルグといった。機関紙局や教宣局、青婦局もあった。後に、教宣局は広報局、青婦局は青年局と女性局に変わったが、反共政党の民社党においても、共産党ばりの名称を使っていたのである。

 選挙が弱かったので、採用も空きが出てからという時代が長く続いていた。その年は東北大法、慶應経、早稲田政経、それに中大法卒の四人を雇う。「一挙に四人は多いですよ」と反対した総務局長に、ときの西村栄一委員長(真悟代議士の実父)は、「彼らは一億円の金の玉子。党の宝なんだ」と押し切った。

 職場に入って、早速先輩たちの宴席で「お前たちの金玉は、一億円なんだってな。ここで見せてみろ」とからまれた。

 昭和も終わりの頃、名簿が配られてきた。表紙に「民社党本部職員名簿」と印刷されてあった。「職員というのはおかしいですよ。われわれは書記じゃないですか」と、既に中堅となっていた四人組のうちの一人、F君が反撥した。出来たての名簿は、すぐ回収となった。「書記なんて、共産党みたいだし、職員でいいじゃないか」と思っていた当方だけど、発言は慎んだ。Fは一年休学して仙台から上京。民社学同書記長を勤めた男である。親が猛反対で、生活費は六本木のクラブでシェーカーを振って稼いでいた。「書記」にこだわる気持がわからないでもない。その彼はいま、宮城県会議員として泥臭い日常活動に追われるかたわら、母校の大学院に通っている。                                                                 (つづく)