トランジション



                                                                         人間科学専攻2期生・修了  笹沼 正典

著者紹介:

 Born:     東京
 Family:    妻と2人だけ(4年前一人娘を嫁がせた)
 Favorite:   ミニシアター&美術館&Jazz
 Membership: 日本産業カウンセリング学会、日本キャ
           リアカウンセリング研究会など

                                   


序 
 
 時は過ぎゆき、いつしか季節はめぐりくる。私はこの春、「大いなる春というもの来るべし」(高野素十)を幾度か口ずさんだ。ここには、時の移ろいをただ受け容れるだけではなく、我が春を迎え入れようとする高野の心映えが感じられ、私の気持ちに触れたからだ。私は、今年3月末に、昭和42年入社以来勤めた損保会社を退職した。私の季節も確実にめぐりきて、これまでの「展望の季節」から「回顧の季節」へと変ったと言える。私にとって大きなトランジションであるに違いない。けれど私は、敢えてここで「大いなる春というもの」に心寄せたいと思うのだ。そして5月、私はシニアSOHO「メタキャリア・ラボ」を自宅の狭い書斎に立ちあげた。

儀式と手続き 

 トランジションのためには世の中がさだめる一連の儀式と手続きに耐えなければならない。それらは、私にとって不可避のワークであり、どれほど煩わしくとも所与の手順と作法に従って一つ一つを着実にこなさなければ、トランジションは完結しない。まず、年金の申請と裁定の手続き。年金についての複雑で膨大な資料と書類。居住地を管轄する杉並社会保険事務所に妻 を伴って行き、勤務先を管轄する神田社会保険事務所にも行く。

 次ぎに、退職の儀式と手続き。挨拶回りと数回の送別会、挨拶状の作成と送付、勤務先への健康保険証・社章バッチなどの返却。なお、私は思うところがあってハローワークには行っていない。

 ところで、私のシニアSOHOは、青色申告を前提とする個人事業である。事前に商工会議所に相談し、個人事業のための申請と届出を荻窪税務署と杉並都税事務所に提出。これから不慣れな帳簿付けが始まる。

 最後に、一番大切と思われることは、妻との間の儀式と手続きを手抜かりなく、きっちりと行うことであろう。どれほど横着で照れ性の私のような男でも、妻への感謝を現に言葉にし、新しい暮らし方への提案をおこなわなければいけない。すこしお金がかかってでも、それを実際に行うに相応しい場を設営しなければならない。
 一通りの儀式と手続きが終わった時、私は何か一つの安らぎを覚え、世の中がすこし違って見えたのは事実である。 

思い
 
 いま私は、私のキャリアにおける最大のトランジションを迎え、これを越えようとしている。A.W.グルドナー(1957)はキャリア志向の基本的な分類基準として「ローカル」と「コスモポリタン」を仮説したが、いままさに私は自由人たるコスモポリタンになろうとしており、同時に回顧の時を迎えたのである。人の生き方に係わる二大カテゴリーが転換するのであるから、最大の、といっても決して大袈裟ではないだろう。

含意 

 定年退職がもつキャリア・プロセス上の含意を考えてみる。一口に、40歳までのキャリアは「向日性植物」のようなものと言えるのに対して、続く60歳までの中高年キャリアは「まだ展望が望める季節の非向日性植物」と言えるのではないだろうか。とすれば、定年によってジョブから解放された60歳過ぎのキャリアとは、「回顧の季節に自由に咲き乱れるコスミックな花々」(これはノバーリスの「青い花」か)と言っても良いのではないだろうか。平野光俊((1994)が分析したように、若年/壮年までは、自分・仕事・組織のコンティンジェントな関係がキャリアを規定する。60歳までの中高年キャリアは、それらに加えて長い経験と老いという変数が加わるコンティンジェントな関係により規定される。60歳過ぎの定年退職後のキャリアが前二者と決定的に相違することは、配偶者との関係の再構築と死という変数が係わるというだけでなく、過去キャリアそのものが変数化される、ということにある。変数が多く複雑だからこそ、老年からのキャリアが本当に面白くなるのだと言えないだろうか。(了)