『情報とデモクラシー』
(学陽書房) 富田信男・岡沢憲芙編
国際情報専攻5期生 寺井融
本書の初版は一九八三年。二十年前ではあるが「近年におけるコンピュターと通信技術の進歩はまことに著しいものがあり、日本はいま情報通信革命のさなかにある」と書き出している。情報通信革命は「誰もが必要な情報を安価で容易に得られる時代をもたらす」と評価する一方、「管理と操作の時代の到来を告げるものではないか」との懸念を持った学者グループが、活発な議論の上、書き下ろした論文集である(はしがき)。 「序章 情報社会と政治生活」(岡沢憲芙)では、まず情報社会を「それは知識・情報量の著しい増大を特徴とする社会」と規定。コンピュターの登場によって「情報産業成立の可能性」を指摘する。情報というのは、市場性を持つが「公開された時から情報の価値は下落する」。だから「情報企業は、利潤率を高めるためにも、情報商品の計画的老朽化(情報使い捨て、情報の短命化)を画策し、スキャンダリズムやセンセーショナリズムに傾斜していく(情報公害)」という。情報企業も営利会社である以上、利潤追求に走るのはいたしかたないとして、問題は政府広報をはじめ非営利団体である。営利企業と同様に、情報の使い捨てや短命化に手を貸していないだろうか。当方の研究テーマの一つだ。 第1部は「情報と政治」である。 「1章 官僚制と情報」(辻隆夫)で、ポスト工業社会の行政の特色のひとつは「行政は知識である。知識は力である。ゆえに行政は力である」(J・Dキャロル)の単純な三段論法に行き着くと主張。情報公開が求められる所以である。 「2章 情報公開における諸問題」(石田榮仁郎)では、アメリカの「情報公開開立法」を論じ、民主主義国家における「知る権利」と「知られたくない利益」との「相克」についても触れてはいる。しかし、戦争時はもちろん、対全体主義国家との外交交渉における「相克」についての分析も、必要ではないか。 「3章 地域社会の変動と政治・情報」(新川達郎・佐々木信夫)では、自治体からの情報が増えているものの、「下された決定のみが、上位下達の垂直ルートにのって伝達されることが多い」と問題点を指摘する。町内会の回覧板など、その最たるものかもしれない。「市民が議論に加わることができるようなシステムの確立が望まれる」(「4章 市民・参加・情報」大谷博愛)と簡単にいうが、「システム」が確立している自治体など、どこにあるのか。 第2部は「情報媒体と政治」である。 両者に職業として携わった経験の持つ評者にとって、とりわけ関心深いテーマのひとつだ。「5章 情報媒体としての政党」(富田信男)において、レーニンは宣伝・扇動活動と組織活動を密接に関連させてとらえ、機関紙を重視したのに対し、ヒットラーは宣伝・扇動活動と組織活動とは異質な次元の異なるものとしてとらえ、演説や集会を信じた、と分析。前者の典型は共産党であり、後者を純粋に受け継いでいる政党はなく、理性より感性に訴えるイメージ選挙などに利用されているという。また、「光ファイバーを使ったデジタル通信網に第五代コンピュターが融合され、高度通信システム社会に日本に移行」すれば、「直接民主政を大幅に生かすことも可能」と主張する。果たして、それはよいことなのか。横山、青島、田中の各知事の誕生や原発などに対する一部住民投票をみていると、はなはだ疑問だ。
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