『二十世紀をどう見るか』
野田宣雄著 (株)文芸春秋H11年2月25日 (690円+税)
国際情報専攻4期生 長井 壽満
「二十世紀が幕をあけたとき、世界にはまだいくつの有力な帝国が存在し、地球上の大きな部分を支配していた。・・・」の書き出しでこの本は始まる。今生きている二十世紀とはなんだったのか、二十世紀史の入門書である。私たち戦後の世代は学校で明治以降の近代史を授業時間不足・入試に出ないということで、勉強が尻切れトンボで終わっている。今の50歳代の人々はどれだけ学校で近代史、特に二十世紀の歴史を身につけているか、心もとない。今小児科の医者が不足しているように、二十世紀史を教える事のできる教師が不足、いや居ないのではないか。私の親が生き、そして自分が生きている時代を生きる知恵として知っておかないと、将来を語れない。自分の出自を知ることによって、人間は自分の帰属本能を満たし、心の安定を得る。二十世紀は日本に於いては江戸幕府が崩壊し、今の日本の基礎ができた時代である。世界においても産業革命、植民地経営、第一次世界大戦、第二次世界大戦、民族独立、社会科学、共産主義、民主主義、弱肉強食、人道主義、人権主義等めまぐるしく環境・価値観が変化した。人類6000年の歴史を振り返っても、これほど変化が激しい時代はなかった。 日本は明治維新、第二次世界大戦敗戦の国難を乗り越えて今の繁栄を築いた。筆者は二十世紀初頭「帝国」が崩壊し民族独立、国民国家の時代を経て、今再び帝国の時代に戻りつつある、そして復活しつつある帝国の時代に日本が対応していけるか、日本は明治維新、敗戦時以上の危機に面していると論じている。二十世紀初頭、ドイツ、イギリス、オーストリア=ハンガリー、トルコ、日本等の帝国は民族をまたいで植民地統治をおこなっていた。民族を複合的に纏めていたのが帝国である。しかし近代の大量生産技術の発展により、国民に同質性をもとめた統治方式が国力増強の基礎条件となった。国家は「政府」「民族」「領土」三位一体の凝集力を競いあった。日本は「国家」・「民族」・「領土」が一体な世界でも稀な国である。ドイツは日本と良く比較されるが、「国家」「民族」「領土」が一体としなって出現した国家でない。ドイツ民族は中世の数世紀間に渡って東欧諸国に移民し散らばっていた。筆者はドイツ民族を一体化させるのが、第一時世界大戦、第二次世界大戦を起こした一つの理由であると論じている。ナチスドイツの敗戦により、東欧諸国から1400万人のドイツ人が数世紀に亘って住んでいた郷土からドイツ・東ドイツに追われ、そのうちの200万人が移動の途中で命をおとした(167頁)。戦後満州からの引き上げの比ではない。中国は多民族、多文化、多言語の影響で、日本のように自国を効率よく統治できない混乱の時代が続いた。 筆者は「孫文・蒋介石・毛沢東は中国を国民国家に変革させるため渾身の努力をしたが結果は失敗に終わった」と冷たく切り捨てている。 帝国崩壊後、三位一体の国民国家・富国強兵に向かって各国は走った。ヒットラーの民族浄化運動、日本の台湾・朝鮮の二等国民としての日本語化政策、フランスの三色旗、ラ・マルセイエーズの歌、ラルースの百科事典等の文化運動は国民国家を作っていく「富国強兵」、「国家生存」を追求した産物である。 筆者は帝国の意味を「帝国というものは普遍性を標榜するところにその特徴があり、その版図も民族の壁を意に介せず拡がってゆく傾向をもつ(160頁)」と述べている。情報技術・交通手段の進歩・生産技術の革新により世界が狭くなりグローバル化が急速に進んでいる。今話題になっているSARSの世界的感染もグローバル化の結果の一つである。人、物、金、企業、情報、犯罪、病気、思想、文化、技術が国境を簡単に越えて世界中を駆け巡ることができるようになった。この結果、国家の徴税権、裁判権の枠が不明確となりつつある。企業・人は最適利益をもとめて国を超えて世界を動き回っている。生まれは中国であっても、アメリカに住んでいるときはアメリカ人、中国に住んでいるときは中国人と複数のアイデンティティーを持って企業・人は営んでいる。国家を超えて自由に動き回るエネルギーが満ちている現実の世界、そして長い歴史の中で醸成されて世界の至る所にある複雑な人種構成、多言語・居住地域の混在状態の下で「民族自決」が現実的な選択であるのか?筆者は疑問を提起している。 東欧・中近東・中国・アフリカ等悠久な歴史を持つ地域では、人種と地域がモザイクのように分布している。単に線を引けば民族の住む場所が固定される訳ではない。アフリカの地図を見てみると、国境が直線となっている国が多い。旧宗主国が人為的に国境を引いたためである。アフリカで頻発している内戦の遠因は民族・文化を無視して旧宗主国が勝手に国境線を引いたところに起因している。言葉も文化も違う地域が無数にある。そのうえ地域毎の自然環境・資源・富の地域差を考慮すると単純に「民族自決」・「民主主義」といっても巧くいくはずがない。「覇権国を中心に多くの国家の境界を超えて放射状に広がる帝国的秩序が求められている(180頁)」。 最後の章「中華帝国と日本」のなかで、ヨーロッパにおけるドイツと同様に東アジアにおいて、「帝国」を志向しているのは中国であって日本ではない。(途中略)中国は日本とは対照的に国民国家形成の条件に欠け・・・・国民国家が世界の大勢であった近代史の局面にうまく適応できなかった。だが、多くの事柄が国民国家の枠をこえて急速にボーダレス化しつつある状況のもとでは新たなタイプの「中華帝国」形成の条件が生まれつつあるように見える(181-182頁)。「日本には、確定した領土の上で官僚制度を通じて緻密な統治のノウ・ハウはあっても、広漠たる多民族的な領域の秩序を大まかに取り仕切ってゆくためのノウ・ハウは無い(206頁)」と筆者は言い切っている。最後に「すべてに受け身の姿勢をとり、現世に程良く順応して幸せに生きようとする日本の若者たちを見れば、気分はすでに帝国の時代の末端に位置する者のそれである」と日本に警鐘を発している。 複数のアイデンティティー、名刺、国家、文化背景をもつ人々にとって、この本は説得力をもちえる。残念ながら「他者」を認識できない読者にとっては筆者の意図を正確に理解できないであろう。徳川幕府が黒船来航の意味を見抜けなかったように。近代史入門書としてお勧めの一冊である。 |
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