― “ヘーゲルを書きました。とても楽しかったです。”―


                                                      

                               人間科学専攻3期生 才野原照子

                 
 

 結局、ヘーゲル哲学を題材に修士論文を150枚書きました。とても面白かったです。正直なところ、(うそではないかと思われるかもしれませんが)実際本当に私はとっても楽しかったのです。 以前、“ヘーゲルを始めると最低10年かかる”と聞いたことがあります。“ヘーゲルは本人が書いたものでも1坪くらいの部屋一杯になる、解説書や研究書をいれると教室一杯くらいの文献になる”と、そんな話も聞いたことがあります。そういえばヘーゲルを読んでいる人は、いつも重そうな本を数冊もっていて、教室の隅で静かにそれに集中していたような気がします。みんな男の人ばかりでした。そういうことがあったものだから、自分にはとうていヘーゲルは無理だなと決めこんでおりました。

 佐々木先生から、今日の思想のほとんどはヘーゲルからでてきているのだし、研究者になるわけではないのだから、細かいことにたちいるのではなくて、思想そのものに触れることは価値あることではないかといわれて、その気になりました。

 何の準備もないままに、(わかるわからないは別として)いきなり原文に触れました。難解さとの闘いは覚悟の上でした。半日かけて1〜2ページ程度、最初は何のことやら全くわからず時間を重ねるばかりでした。けれども“結局、いわんとしていることは一種類じゃないのか?”と気づいてくると、読解速度は上がりました。何に魅了されてこのような作業が続けられたのか?今振り返ってみると、それは人類(精神)が成熟していくその苦闘のドキュメントであったからだと思います。衝撃でした。それはもう大変大きな感動でした。思想の凄さもさることながら、ヘーゲルの作業の凄さ、人類の歴史がこういうものを生みだしたということ、それが今日にまでつながっているということ、その人類(精神)の成長の歴史の凄さにも深い敬意の念をもちました。ここから、言葉では語れないほどの希望と勇気をいただいた気がします。ひたすらそれに浸る、というのがよかったかなと思います。また、解説書から入らなかったこともよかったことかなと思います。

 最初に、先生からこのゼミでは独創性は求めないといっていただいたことで、わりと気楽に、また自由に、じっくりと自分流のやり方でテキストにむかえた気がします。それと、レポート課題がたくさんありましたから、同時進行の形で、古代、中世、近代、現代、と違った時代の様々の思想を一斉に読んでおりましたので、常にいろいろの考え方が頭の中をよぎっておりまして、かなり幅広い視点から(細部にとらわれて自分を見失うというようなことなく)課題を見つめることができたように思います。

 次々とでてくる疑問に対して、好奇心丸だしてそれをおっかけておりますと、終りがない作業が延々と続きます。入学式の時、どなただったか、ある教授が「君達が、あれもやりたいこれもやりたいといって勉強されるのはかまわない。だが、お願いだから、2年間でできるものに取り組んでいただきたい。」とおっしゃったことが、記憶に残っています。面白いからといって際限なくやっているものではなかろうと考えて、2年間なりのけじめをつけねばという気持ちがありました。最後の追い込みの時には、その気持ちが背中を押してくれた気がします。2年生最後の12月末のゼミの時には、まだどこまで書けるものやら、全体がどうなるものやら、イメージがまるでできておりませんでした。それが年末年始に徹底して集中することで、一挙に形が現われてきました。筆が進み始めると一気に書けてしまった。これも初めての体験でした。

 こういう素晴らしい機会に恵まれまして、佐々木先生と佐々木ゼミのみなさまとのであいには心より感謝しております。“才野原さん、だいじょうぶかな?”と最初からずっと心配してくださったゼミのみなさま、“みているよ!”というその気持ちにずいぶん励まされました。先生には、最初から最後まで、それとなくレールを引いてみていてくださったのだと感じます。私は大変うまくはまっていきました。

 口頭試問の後、先生を囲んでみんなで食事して、白鳥さん、野明さん、吉澤さんと順に別れて、最後に新宿駅の雑踏の中で、井上さんと木村さんと別れた時には、“もう本当にこれで終わったな”と思いました。