カントと向き合った2年間

                      


                                   人間科学専攻3期生  野明 厚夫

                   

 私が論文のテーマとしてとりあげたのは、「カント実践哲学における自律Autonomieの概念」であった。このテーマに行きついたのは、20世紀後半、科学技術の進展の渦中にあって科学技術教育の振興政策を推し進めている我国教育行政の仕事、特に最近の20年間、世界的規模で問題とされている環境倫理や生命倫理と深く関わる大学医学部の倫理委員会や臓器移植実施・遺伝子治療実施のための学内委員会の運営等にも携わってきたなかで、21世紀は、科学技術の専門知を、いかに人類のために用いるかという人間の叡智(人間知)が試される時になってきたと感じたからであった。脳死者からの臓器移植や遺伝子医療と名づける技術はどこまで許されるのか、人間に出来ることが増えるにつれ、出来るが故にしてはならないことも増えるはずであるにもかかわらず、そのことが忘れられているのではないか、という漠然とした不安感、また、現代の世相をみると今私たちに要請されている人間の本当の生き方ないし倫理とは何だろうかという思い等から、自らの哲学の課題として「人は何を知りうるか」「人は何をなしうるか」「人は何を望むことができるか」をあげ「人間とは何か」を最終課題とするカントの人間知の追求ともいうべき哲学を対象として取り上げ、考えてみたいと思った。
 
 18世紀ドイツの彼の哲学、特に人間の主観が対象たる世界を構成するとみる考えに発する「自律」の精神は、人間は現象界たる自然の因果の世界に生きるだけではなく、叡智界の側面では自由をもって生き、人間の知で解決できないと思われるようなことまでも、理念として希求することはできる、とする。このような近代的ヒューマニズム、近代的自由は、自分の幸福のあくことなき追求、人間による自然の支配、ひいては環境破壊や人間社会の荒廃等に突き進んだとして、ポストモダンと称される現代思想や環境倫理・生命倫理の立場からも厳しい批判にさらされている。しかし、近代の目指したものは本当に終わったのか。ハーバーマス等は、近代を「未完のプロジェクト」としてとらえ、この面からも、科学的認識や道徳的規範の歴史性・多元性を看過した独断的な普遍主義(自律の強調は他者理解を可能とするのか)としてカント的理性を批判する。カントの思想は、本当にそのようなものだったのだろうか。彼の哲学は、現代においてなお意味をもつのか。この辺に焦点を合わせて論じようとして研究計画書を書き、そのため考察の視点も、彼の思想の時代的・地域的制約を越えた普遍的意味を探るため、無謀ではあったが、彼の人生の足跡や、大学卒業論文から晩年の著作まで幅広く触れようと計画した。指導教授の佐々木先生からは「頭が幾つもあるような論文は書かないこと」というアドバイスだけで、この研究方針は任せていただけた。

 1年目は、必修の社会哲学(特にヘーゲル)のほか、イギリス思想史、哲学史、生命倫理学、社会思想史等の特講の内容をカントとの繋がりを模索しながら履修した。この年9月の同時多発テロの発生、10月アフガン戦争の開始から、「戦争と平和の倫理」の重要さを見過ごすわけにはいかないと考え、10月に行われた「歴史研究会」では『永遠平和のために』の概要の一端を報告、論文でもカント政治哲学への具体化として、その平和論を述べることとした。

 2年目は、1・2科目に絞り、論文に専念することを考えたが、やはり1年目の方針を踏襲し、宗教哲学、科学哲学、教育思想史の各特講を履修、これら科目のカントとの関連を思索した。このほか、他専攻の現代文化・文学論特講(欧米共通の文化伝統)を履修、新旧聖書を始めて読破、創世記と生命倫理学の課題との関連やカント的二世界論にも触れているゲーテの『ファウスト』の魅力等を論じることができた。また、9月の論文中間発表会の教授陣を含めた質疑応答は、論文をまとめる過程で参考になった。

 2年間、これらの学習とともに、膨大なカントの三批判書を始め基本的な著書の内容については、彼の「自律」の概念がどのように捉えられているかだけをひたすら追いかけ、頭が二つ以上にならないような論文をこころがけた。そして終章で、「戦争と平和の倫理」、「環境倫理」、「生命倫理」の現代的課題に対し、彼の実践哲学は、人間として到達できる知の限界を知り、かつ、それを超えたところにある知(理念)を希求し、その溝を埋めるための善き生を実践することに他ならない、そのため、その根源的視座ともいうべき「自律」の概念は、現代においても決して見失われてはならないであろう、という結論とした。
 
 先日の新聞紙上で、ノーベル賞受賞の小柴昌俊氏も、「人間については、科学でわからないことがたくさんある」といっている。それでも知ろう、分かろうとするのが科学であり、そこに科学の意義がある。しかし、科学を人間の為に役立てようとするとき、どうしても目的・理念という概念が出てくる。カント哲学は、率直にそのことを語っているようである。「永遠平和」は、あくまでも理念かもしれないけれども、永遠平和に向けてのシステムを構築することは決して無意義ではない。この2月15日の世界の動きは、そのことを示している。カント哲学は、近代の目指したものから、我々が現代という激流を渡るための未来への懸け橋になってくれるのではないか。そんな思いをもってこれからもカント哲学等を通して、ささやかながら自分なりの思索を進めていきたい。

 佐々木先生の誠意あふれるご指導と、熱心にかつ楽しく学習できたゼミやスクーリングそして研究会の皆さんとの交流は、生涯忘れられないものとなりました。後続の皆さんも、このような本院のシステムを最大限活用され、そのなかで、皆さんが21世紀を生き抜いていくコアとなるものを見つけられますことを期待しております。