喜びと苦しみの2年間


                                                      

                              人間科学専攻3期生  前田和世

                 
 修士論文奮戦記を書いている今、この現実に改めて大きな喜びを感じている。と言うのも、大学院に入って間もなくの2年前、これから勉強し自分のライフワークになるような研究を見つけたいと意気込んでいた矢先の6月18日、車の後部座席に座っていた私は追突事故にあい、ムチウチ症になってしまったのである。しかしその時点では、首がはっている程度で、病院の診断でも全治二週間という比較的軽いものであった。ところが何とそれから2週間後の7月4日、再度、全く同じような状況で追突され、以後八ヶ月間にわたる、グルグルと世界が回る悪夢の日々の幕開けとなったのである。

 二年目は修士論文一つに心血を注ぎ、レポートは4単位を残すのみとし、したがって、残りのレポート科目はすべて1年次でとる事を計画していた私は、前期のレポート提出においては、夏休み前迄に少なくとも2科目は終わらせ、夏休みには残りのレポートと修論のテーマ設定をする心積もりをしていた。ところがこの事故で、すべての計画は音を立てて崩れてしまったのである。
 
 最も困った事が、いつまで経っても本が読めない事であった。小さな活字を目で追うと周りがグルグルと回り始め、吐き気がし、レポートに必要な教材を読む事もパソコンを打つこともままならず、勤務先の学校も2週間早く夏休みをとらしてもらい、家で悶々とする毎日が続いた。その間、考える事は「このままこの身体の状態が治らなかったらどうしよう」とか「内耳の半規管の損傷という診断だったけれど、脳の損傷ではないだろうか」といった悲観的なことばかりで、9月のレポート締め切りが近付いても完成しているのは事故前に書き上げていた2科目のみであり、これではもはや大学院は続けられないと観念し、休学の決意を固めたのである。

 ところが私のこの休学の決意は、主任教授の小坂先生や社会哲学、スクーリング担当の佐々木教授、そして大学院事務課の方がたの温かい励ましの中でもろくも(?)崩れたのである。レポート科目の先生方も「提出期日が遅れてもいいから頑張りなさい」と仰って下さり、多くの方がたの御好意と励ましに後押しして頂いて「ここでやめたら、もう続けられなくなるかもしれない。頑張ろう」という前向きの気持ちが生まれたのだと思う。

 それからの日々は、図書館で借りてきた本を拡大コピーして字の大きさを大きくし、1回に読む時間を15分に区切り、また息子を拝み倒して(!)口述筆記ならぬ口述パソコン打ちをしてもらうなどの工夫を重ね、前期レポート、後記レポートのノルマを何とか達成したのである。

 今、思い出してみても、この1年は「もう駄目だ。やめよう」「いや、もう少し頑張ってみよう」という2つの気持ちのせめぎあいで明け暮れた1年であった。そしてこの間、励まし続けて下さった主任教授の小坂先生なくしては、おそらく、こうした文を投稿させて頂いている今の私はいなかった事と思われ、先生にはただただ感謝の気持ちでいっぱいである。

 このような経緯を経て、ようやく私の修士論文「『歎異抄』の一考察―御同朋・御同行を中心にして―」が決まったのは2年目の4月であった。つまり、親鸞についても『歎異抄』についてもほとんど知識のなかった私が、8ヶ月ほどの期間で関係書物を読み、『歎異抄』の中に込められた親鸞の教えや教授の姿勢、作者の意図などを理解し、自分の考えを整理し、まとめる事が課せられたのである。

 私がまず最初にした事は「ノート起こし」であった。@親鸞の教えに関するもの A親鸞の教授の姿勢に関係するもの B御同朋・御同行について C教育関係 以上の4種に項目を分けて4冊のノートを作り(最後にはもう少し増えたが)、関係書物を読んでいく中で、これはと思われる内容をそれぞれのノートに書き記し、それに対する自分の考えや疑問なども付記していった。結果的にこのやり方は、後に章立てをし節立てをして実際に書いていく段階で、非常に役に立った。内容を抽出し、それに対しての自分の考えを記すという行動を通して、親鸞の考え方や作者による捉え方の違い、自分はこう思うという私自身のの考えが私なりに私自身の中で1つにまとまり、方向付けがしやすかったと思われるのである。

 1年生の方がたの中には、かつての私のようにレポートで苦しんでいる方もいらっしゃるかもしれないが、2年生になって自分がしたい研究をするようになった時「大学院に入ってよかった」と、きっと感じられると思う。私にとって、修論研究の1年は本当に楽しかったのである。学生時代「勉強が楽しい」などと思った事は、自慢ではないが1度もなかった私が、毎晩(学校から帰ってからのだいたい2時間ぐらい)親鸞の教えに触れ、週末には図書館で平均7時間ぐらい、何よりも好きだった食べる事も忘れ、読んだり書いたり考えたりする事に喜びを感じている自分を発見した事は、我ながら大きな驚きであった。

 大学院2年間で果たして何を得たかを論じるのは難しい。ただひとつ思われる事は、自己について以前よりは「考える」ようになったかなということである。スクーリングの最後に、佐々木教授は「日々の生活の中で、ふと自分が思った事、感じた事、考えた事をこまめにノートに記すという習慣を付ける事、それが自らを客観的に見つめるという事につながる。」と仰った。この「自己を客観的に見つめる」という事が、親鸞の問題とした「煩悩による我執」の正体を己の眼前に表出させる事ではないだろうか。私ごときに、我執を消した行動など思いもよらぬ事ではあるが、常にそうした意識だけは忘れずに、これからの人生を歩んで行きたいと思う。