「おやじの背中」
人間科学専攻 平田正治
長くて短い2年であった。とにかく大変な2年であった。我が一生の大きな節目となる人生の重大イベントのすべてが集約された2年であった。 1年生の暮れに父が他界した。2年生の初冬には義父が他界、そして、暮れには転勤の打診があり、2月には転勤。ふたりの子どもは入試とめまぐるしい2年間であった。 当たり前のことであるが、論文を完成させるには研究(学習)目標を明確にし、研究計画を立て着実に実行することが重要である。大学院は、自らが進んで研究(学習)する場であり、すべてが個人の責任である。特に、通信制の場合は、常に自分自身との戦いである。 大学院の在学日数は、約665日。この期間に社会人が勉強に当てることができる時間は、週40時間として計算すると3800時間、この内レポート作成に費やす時間が約1000時間、残り2800時間が論文作成に費やすことができる時間である。わずか4ヶ月足らずの時間しかない。社会人ゆえに仕事や家庭、その他さまざまな日常の出来事に振り回され、思うように時間を作ることは難しい。できるだけ余裕を持ちたいと思い、修論完成目標日を中間発表日(9月下旬)に設定した。この時期に最も悩んだのが、科目レポートを先に済ませるか、論文(草稿)を先に済ませるかであった。結局、論文(草稿)を優先することにした。レポートは、課題が与えられ目標が明確で比較的書きやすいからである。しかし、物事は予定どおり進まないもの、時間がなく計画の大幅な変更を余儀なくされ、中間発表に間に合わすことはできなかった。 入学当初、配付された履修科目の10冊の教科書から始まった本棚も日を重ねるごとに増え、1年の秋には一杯になった。レポート1本書くのにも大変な労力と時間を要するが、提出したレポートがそれなりに評価されると、けっこう快感を憶えるものである。苦労した甲斐があった、もっと続けていきたいと思うようになり欲が出てくる。 これに比べ修士論文はそうはいかない。課題と論文構成、その研究方法などのすべてを自らが決め、実行しなければならないから大変である。入学のとき研究計画書を提出してはいるものの実際に勉強を始めると大きな壁にぶつかってしまった。長い間、このような学習から遠のいていたからなおさらである。学習を重ねていくうちに、人間科学(心理学)は人文系に分類されているが、統計分析などの知識がなければ論文は書けない。むしろこれは理科系に分類されるべき学問であるということに気付いてからは一抹の焦りを感じた。 私の属した真邉ゼミは、私たち3期生が最初で、論文作成についてのアドバイスを受ける先輩がいなかった。ゼミ生同士でいろいろ情報を交換するが手探り状態であった。 さまざまな問題に直面したとき勇気と希望を与えてくれたのが『祇園会』と称する同じ地域の院生の集まりであった。本来なら知り合うことのない者同士が同じ目的のもと情報を持寄り、杯を交わしながら語り合い、切磋琢磨した。この効果は絶大であった。このよき友人達こそ、この大学院で得た大きな財産である。 「人間は環境によって変化する。学習は環境にある。」というのが私の持論である。私が勉強することになったため、我が家の環境が大きく変化した。家中、勉強モード一色になった。女房は、「うちには学生が3人いる。」とよく言っていた。仕事から帰ると、すぐにPCに向かい深夜まで、時には徹夜になることもしばしばであった。朝、子どもと「おやすみ」、「おはよう」の挨拶を交わす場面も。そんな時、「お父さん大丈夫?無理しない方がいいよ。」と子どもの方が私のからだを気遣う始末。まるで立場が逆転してしまっていた。 「親父の背中」を実践?その効果があったかどうかは定かではないが、ふたりの子どもも受験に成功した。とにもかくにも、家族史に残る意義のある2年であった。理解、協力してくれた女房に感謝したい。 「苦しみと、悲しみと、喜びと、そして愛情」を体感した2年であった。 「やれば、できる」という自身を持たせてもらった2年でもあった。人は、苦境に立った方が能力を発揮できるのかもしれない。決して満足のいく出来ではなかったが、とにかく、修士論文は書き終えることができた。そして、学ぶ楽しさを改めて知った、習慣にもなった。今、やっと研究者?への最初の門をくぐった感がある。今日までの苦労を無駄にせぬよう、これからも勉強は続けていくつもりである。 この2年間、修士論文を書くために多大なご迷惑をかけたにもかかわらず、懇切丁寧にご指導くださった真邉一近教授ならびに各科目を通じてご指導いただいた先生方に深く感謝いたします
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