おばさん奮戦記

                                                     

                              人間科学専攻3期生 波田野 和代

                 

 同僚の「これだけ本を読んでいるんだったら大学院へ行ったら?」という一言がきっかけとなって、大学院に席をおく身となった。それまで「大学院入学」等と、大それたことを考えたことはなかった。特に高尚な本を読んでいたという訳ではなく、いわゆる乱読である。こうして始まったおばさん大学院生の誕生である。

1年生になって、初めに優等生といわれる先輩から「5月の連休に遊んでいるようでは駄目」と承ったから、「さあ大変…」。5月の連休だからと浮き足だっている訳にはいかなくなった。出かけようという夫に、「先輩優等生のおことば」が頭から離れない。しかし、「NO」とまでは言えずに外出をためらっていると、「そんなことを今から言っていたら、これからいつも出かけられない。」と不満げな夫。だから重い腰をあげて、1日しぶしぶ付き合った。いつもは寛大なおじさん(夫)を怒らせては得策(?)ではないと思ったからである。「これからは一人で遊んでね」と内心思ったが、この言葉は胸にしまっておいた。「おじさんは今、5歳児の駄々っ子」だと思ったから。おじさんだって、時には5歳児の駄々っ子になってしまいたい時があるものである。  

おじさんは、私のことを「生活感を感じさせない女性」と言う。これは「ひょっとすると褒め言葉かな?」とにっこりしてみたが、朝は、ばたばたと出勤、帰ってくると主婦業もそこそこに、パソコンに向ったり、夜中に起きて机にかじりついている私への皮肉(?)とも取れないことはない。「生活感のない?」私も、休日は朝の食事が終ったかと思うと、あっという間に昼食の準備をする時間となり、勉強の時間が余りない。「おじ様はなんで3食も召し上がる?」と思ったりもする。1日中台所に立っているような気がするからである。  

 大体、一人でそんなに何でも出来るはずがないと思っている私は、便利な言葉を知っている。「adequate」である。辞書には「適当な、妥当な、相応な、十分な」と書かれている。主婦業なるものは、どこまでが適当か、妥当なことか。無理はせず、「できるだけのことをする」、「できることしかしない」ことにしている。

こんな私なので勉強のためには、おじさんの協力が欠かせない。おじさんは、おばさん大学院生のために、この2年間「図書館で本を借りる」、「本の検索・注文」、「放送大学の哲学講義収録」等の一手引受人となった。その甲斐あってか(?)うちのおじさんは西田哲学なるものにとても詳しくなった。なぜか「非連続の連続」、「一即多」、「絶対無」、「絶対矛盾的自己同一」などという言葉が、道を歩いていても頭に浮かんでくるのだという。(門前の小僧ならぬ、門前のおじさん?)おじさんの話はこれ位にしよう。                             

 論文なるものを書くことに慣れていない私は、初め、どこからどのように論文を書けば良いのか分らず困ってしまった。論理的な思考をすることがない日常を送ってきた私にとって、論文は作文と違う事ぐらいしか分らない。しかし、書くしかないのである。

 高校生の時から朝型人間の私は、仕事の疲れがあって夜遅くまで勉強する事が出来ないため、毎日朝4時ごろから起きて本を読んだ。人の倍努力しなければ、落第しかねない危機感を持ったからである。うちのおじさんは、唯ならぬおばさんの奮闘振りに驚きあきれ、挙句の果てには、「病気にでもなっては大変?」と思ったのか、それとも「気が変になった?」と思ったのか、突如として起きてきて「大丈夫?」と声かけを忘れない。(いまだにこの時の発言の真意について聞いていない。)

 論文の書き進め方として、初めから完璧に書き進む人もいるが、私は、少しずつ書き加えていくタイプである。少しずつ書き進めていく内に、2回ひどく落込んだ。落込んで沈んだまま再び浮かび上がれないような心境になったこともある。しかし、大体私ごときが、「論文を書く」なんてことが、無茶なのかもしれない。そう思ったら少し気が楽になった。こうして、「論文修業」が始まった。落ち込みも3日位で回復し元の自分に戻った。根は単純である。おばさん大学院生は思った。「書けないからって、勉強に使った大金を無駄にする気?」と。生活感のないと言われるおばさんだって、これ位の計算(打算?)はできない訳ではない。単位を落とすまいと寝ても醒めても本と向き合った。

おかげで(というべきか)、ある日、目に水泡が出来た。眼科に行ったら、「針でその水泡の水を出すしかない」ということで、すぐ軽い(?)手術をすることになった。私に目を動かさないように医師から注意があった。目の前に現れた針は大きいもので、恐くて微妙に目を動かすらしい。医師曰く「波田野さんは恐がって目を動かすから恐い」と。お医者さんが恐いのだから私はもっと恐い。この手術を4回ぐらい繰り返している内に、2年生になって、再び5月の連休を迎えた時、目の水泡は、これまでになく大きく育った。連休が明け、お医者さんの休診日が終るのを待った。お医者さんは私には2個に見える水泡が、実際には2個の水泡の下は1個に繋がっていると言う。これは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一(?)。

寝ても醒めても哲学で、おまけに「目」まで西田哲学の論理(?)が……。     

そうこうしているうちに、ある日、私は夢を見た。その夢は自分が死んでしまって、自分の葬式のために自ら張り紙をしているものである。通常は「忌中」と書くはずのものに、何故か、夢の中のそれは、白い紙に長々と字が書かれてあった。この長々と書かれた文は、論文(?)のようでもあった。私は「死んでしまったんだ。」と、とても寂しい気持で目覚めた。その日、眼科に行く予定であったが、「西田哲学の目」の水泡は自然に潰れて治っていた。